円城 分限者争い Competition in rich


 昔の庄屋や商人には 物凄いお金持ちがいました。円城寺の経典を納める宝篋印塔が 崩れ、昭和40年頃 その下から土偶物が 顔を出しました。そこでお寺は 土偶仏を発掘し、宝篋印塔を改修する事に 成りました。その時 稚児の列を先頭にし住職を挟んで 後方に 更に稚児の列を行進させる事にしました。昔の円城寺は 塔中14ヶ坊 がありましたので、沢山の修行のお坊さん 即ち 稚児がいたのですが、宝篋印塔修理の頃の稚児は 幼い少年 少女です。宮坂Miyazakoの田辺の九朗と上光寺Jyoukoujiの浜の野隼人が 稚児行列の道に銭を敷き詰め 分限者を競い合いました。「円城寺に伝わる話」

 

田辺九朗と浜隼人の分限者争い物語 story of  COMPETITION IN RICH between Tanabe-no-Kurou and Hama-no-Hayato

円城寺の経典を納める宝篋印塔が 崩れ、昭和40年頃 その下から土偶物が 顔を出しました。そこで お寺は 土偶仏を発掘し、宝篋印塔を改修する事に 成りました。その時 稚児の列を先頭にし住職を挟んで 後方に 更に稚児の列を行進させる事にしました。宝篋印塔の改修や 稚児行列には 大変なお金が 掛かりました。困っているお寺に 見栄っ張りの浜の隼人と言う人と 田辺の九郎と 言う二人の分限者が「わしが一番ぎょうさんお金Ùぅ 円城寺に布施すらぁ」と 言って来ました。二人は 布施の額を競い合い¥ 競争に切りが 付きません。お寺の住職は 嬉しいやら困るやら 困惑していました。すると修行中の 少しお頭Tumuの怪しい小坊主が、休憩の間のお茶を 運んで来て「そぎゃぁに お金が有るんなら 稚児行列の路ぅ お金で敷き詰められるなぁ」と 言いました。住職は「あんごうな事ぅ言うもんじゃねぇ  仏様の前で 意地汚ぇ事ができるもんか お二人様ぁこりゃぁ茶番ですけぇ 茶番坊主の言うたご無礼ぇ 聞き流してくだされぇ」と 言うと、隼人が すかさず「茶番の坊主ぁ 良ぇ事ぅ言う  その茶番劇ぁ面白ぇ見物じゃ  わしぁ 銭ぅ稚児行列の道の右半分に 敷くけぇ 田辺の九郎殿ぁ 左半分に 敷かれぇ 引き分けになるんは ちいとばぁ 心残りじゃが 参詣者ぁ喜ぶし、わし等の面子も 保てようと言うもんじゃ」と 言いました。

九郎は「名前通り、隼Hayabusaの様な素早ぇお人じゃのう  わしもそう思うたんじゃ  先に言い出した隼人殿に 勝ちぅ譲って、銭ぅ 1枚だけ少のぅ敷こう  せぇでどじゃ」と応じました。住職は 激しく競を争った者同士に 友情が芽生えた事を悟って 賛同しました。出店の並ぶ中 敷き詰められた 銭の御神渡りを  踊りながら 太鼓が叩かれ 鬼の面を着けた獅子が 舞い踊り、琴 尺八に 山伏の吹く法螺貝Horagaiや 稚児が振る鈴の音が鳴り響き、幟旗を翻し 神輿を中心に進む 稚児行列は それはそれは 華やかな行事になって 円城寺が ますます栄える事を祈り、五穀豊穣を願い 餅投げで終了しました。「円城寺に伝わる昔話」を基にした物語   本宮山円城寺:北緯34度53分31秒東経133度48分21秒 稚児行列:本来は若い前髪の残る修業僧の行列ですが、現在では少年少女の列と理解されています 浜の隼人・濱・浜:豊岡上465・482(北緯34度54分7秒東経133度45分50秒)520番地等付近の豪農 田辺九郎:新山宮坂Miyazakoの豪族 田辺屋敷跡が残ります  財産の在り処を 家族の者にも 知られたくて、7人の奉公人に 財産を持たせ、智日神社Tiribi-jinjyaの杜Ohuroに隠し、財産を運んだ7人を殺して埋め、7人御崎の墓標が建てました「吉備中央町の民話(1)」 田辺屋敷:尾原 北緯34度55分4秒東経133度44分32秒    田邊・田辺:尾原2102・2194(北緯34度55分1秒東経133度44分32秒)・2202番地等  宝篋印塔:宝篋印陀羅尼経Houkyou-Indarani-kyouを 納める石の塔 を言います  しかし実際には 他の経や 舎利 例えば法華経 等を 納めています  後世には 供養塔や 墓標として建てられました        平成23年(2011年)10月4日