岨谷 与太郎騒動 Altercation with Yoyarou


備前藩槙谷村と松山藩岨谷村は 隣り合っていて、山の入り合い権で しばしば 騒動を起こしていました。天和3年(1683年)7月15日の昼頃 槙谷村の百姓7人が「こうの野呂山に 柴刈りに来ました。大荷処Oodokoroに 馬と長兵衛の弟の与太郎と言う8歳の子供を 置いて 谷を下り、下草を刈っていました。すると  与太郎が「馬の鞍Kuraが盗まれる」と 大声を挙げました。驚いた吉十郎が 崖を駆けの登り 見ると、馬鞍が2背 無くなってい て馬の脇に3人の者が 立っていました。

吉十郎が 助けを求めると、善右衛門を 始め他の者が 駆け上って来ました。

3人の内の1人が 駆け戻り 善右衛門に切り掛かって来ると 善右衛門は 持っていた棒で 刀を払い除け、相手との間を 広げました。男は 今度は吉十郎に 切り掛かりましたが、棒で強く払う と相手は 仰向けに倒れ、敵わkanawaぬとみると 刀を投げ付け 逃げようとしました。棒で払った刀は 運悪く馬の傍にいた 与太郎の前に 飛んで行き、その男は 刀を拾い戦いに敗れた 腹いせに与太郎に 怪我させようと 切り付けると、気が動転していたため 手元 を誤まり急所を切ってしまいました。知らせは 槙谷の村に伝えられ 村人が 集まり鞍を探すと、鞍は 槙谷の山の中に有りました。「犯行を目撃されそうになったので 犯人が 証拠品を槙谷側に隠し、槙谷の者の犯行に 見せようとした」と 考え 犯人は 岨谷村の者と推測しました。岨谷の庄屋に 掛け合おうと 清兵衛と 六兵衛が かんすが田Kansu-ga-turu迄来ると、岨谷村の庄屋 難波助右衛門が 村人5~6人従え 槙谷に向って やって来ていました。「槙谷の者が 大勢 岨谷に入り込んで来て 山を荒していると 山番が 報告して来たので、抗議しに 槙谷村に行く所だ」と 岨谷村の庄屋が 言うと「それは違う 槙谷の者が 岨谷村に 入ってはいなかった 現場を見てくれ」と 槙谷村の者は 反論すると「鞍は 備前藩側(槇谷)に有ったと言うのか  領土侵犯の証拠の鞍 を村人は持って帰っていない ならば 現場は 松山藩側ではないだろう  だとしたら、いまさら 現場を確認する必要は 無かろう」と 言ってその場を濁し返って行きました。翌日 30日に 水谷藩(松山藩)の郡奉行から、池田藩(備前藩)の郡奉行 広内権右衛門の元に 飛脚が走り「備前国より 松山藩に入り3人が 芝刈りをしていたのを、足軽役の山番が 見つけ咎めYTogameた所、悪口雑言を 吐い て槙谷村分に 引いたので、山番が 村境目迄 追い掛けると 童が馬を引いていた  その鞍を 領土侵犯の証拠として 差し押さえようとすると、童が 声を上げ 7~8人を呼び、その者共 が棒で打ち掛かって来た その激しい様子から 山番は、その現場が 他領と 勘違いしたと思い 引き戻ろうとすると、槙谷村の者は 14~15人とな 山番の足軽に 打ち掛かって来た  止む無く山番が 刀を抜いて 防御の構えを取ると 棒で刀が叩き折られ、危険を 避けるため 逃げだしたが、その折り 折れた刀を 投げ捨てると一人の男の股に 少しばかり当たった  相手が怯むhirumu隙に 折れた刃先を 拾い手裏剣Syurikenn代わりに 使うと、馬を引いていた童に 心ならずも 当たってしまった  役人が 出張って吟味Ginmiすると、この事件は 足軽の正当防衛であり 相手は 槙谷の百姓で有ると 解ったので 申し入れる」と 伝えて来ました。両藩の言い分が異 なりましたが、藩同士の諍いIsakaiを 公儀(徳川幕府)に知れると困ると 判断し、備前藩は「全ての藩は 公儀より 国を預かっていて、民はその国に 付随して預かっている  それ故 他領との民同士の出入り(争い)に 奉行等 藩の役人が 指図すべきではない  民間同士のイザコザは 民間同士で 収めるべきである」と言う方針を示し 近在の村々の庄屋を 仲介し、両村の庄屋間で 穏便Onbinに 事を 済まさせようとしました。松山藩も これに 義理立てし、藩主左京亮は 備前の使者の申し出に 応じ、加害者の足軽を 斬罪に 処して 事を収めました。この時の家老が 水谷太郎左衛門で有ったので、薬師堂に 経典を奉納した人物が 特定されました。「村人口伝」「大和村史」「寺院伝説・狩下手な殿様」    入り合い権:限られた地域に限り 山林 原野 漁場を 共同で利用し、草刈 薪炭材伐採 魚介漁 等を 許し合う権利を 言います。公有地の事も 私有地の事も有り、契約書等は 一般になく、過去の慣行に依って 公序良俗に 従がっている場合が しばしばあります。    こうの野呂山:調査中   大荷処:調査中   かんすが田:調査中    水谷左京亮・水谷勝宗:初代松山藩藩主の水谷勝隆長男で 寛文4年(1664年)父の死去により 第2代藩主となりました。新田開発や 水路の建設 城下町の建設 松山城改修(現在の天守閣の姿)に 力を灌ぎました。  水谷勝重:備中松山藩の水谷家の一族で、松山藩家老職に 就いていました。水谷氏は 南谷の薬師堂に 経典を奉納した折に、青銅製の灯明台と 燈籠を 寄進しましたが、燈明台は 壊れて捨てられ、燈籠は第二次世界大戦中に 供出を求められ 行方不明となりました。    南谷の薬師堂:北緯34度46分50秒・東経133度41分57秒  平成24年(2012年)12月12日