湯山 清水寺の梵鐘 Temple bell of Seisui-ji temple

龍角山清水寺の梵鐘の音は 遠くまで良く届くので、天文12癸卯年Mizunoto-U-dosi(1542年)6月 虎倉城伊賀久隆が 戦乱の時の合図の鐘にしようとして 盗ませ 城内に 移しました。必要な時に 鐘を叩いても 音が出ないばかりか、音がしてはならない時に 鳴り響くので、久隆は  困り果てました。それで 腹を立てた久隆は 龍ノ口の崖から落として 梵鐘を 壊そうとしましたが 壊れませんでした。仕方なく 梵鐘を 虎倉城の近くの浄光寺に 預けました。暫くすると、梵鐘に 詫び状を添えて 送り届けられました。詫び状に「鐘は 役に立ちませんでした。清水寺よ り離そうとすると 鳴り出し、離れれば 離れるほど、早く 大きな音になります。清水寺に向かうと、音が止みます。鐘は 清水寺に 帰りたがっていると 思われるので、返却します。詫びに 清水寺を 必ず再建します。」と 書かれていたそうです。返却に 来た時の様子を山門近くで 見ていた村の者によると、高曽山Takaso-yama or Kouso-yama杉の枝に 鐘が当たった時、ゴーンと音がしたそうで、その音を 聞いて、鐘を 担いでいた者達は、歓喜の声を 上げ、「直った  直った  鐘の機嫌きげんが 直った」と 言ったそうです。「清水寺の奥方の口伝」 別の話として、梵鐘が 役立たずなので 滝の口の崖から 落とし 壊そそうとしましたが 壊れず、浄光寺に 移しました。それを知った 神原宗右衛門Koubara-Souemon (神原惣右衛門) 神原佐京佐Koubara-Sakyou-no-suke(神原左京)が、「もともと 清水寺の梵鐘だから 返してくれ」と、頼むと 伊賀久隆が 快諾 し返却に応じました。高曽山Takaso-Yama(高祖山Takazou-yama)に 差し掛かり、松の枝に 鐘が当たると 鐘が鳴ったのです。人々は 驚き、不思議な力を持った 稀代の霊鐘だと 噂したと言います。「村人口伝」    久隆は 文13年(1544年)に 清水寺の本堂の再建を 行ないました。


清水寺の梵鐘物語 story of TEMPLE BELL in SEISUI-JI

 戦国時代のこの辺りの大将は 岡山城宇喜多直家の家老の 虎倉城伊賀久隆でした。もとは 毛利方でしたが、宇喜多直家が 毛利氏を 裏切り 織田氏に 味方したのに伴い 伊賀久隆も 織田方に 付きました。毛利氏は 怒って 宇喜多氏の城を 攻めたかったのですが、毛利元就は 3本の矢の例えを残して 死んでいたので、竹荘 に陣取っていた元就の孫の毛利輝元は 美作を攻め取った叔父の吉川元春と 安芸にいた叔父の小早川隆景が来るのを待って、岡山城に向かう為に 邪魔な虎倉城を まず攻め落とそうとしました。3本の矢が 揃うと真っ向勝負しても勝てないので、伊賀久隆は 味方の民も 侍も 虎倉に集め 籠城しようと 構えました。その「その時が 来たら 遠くまで聞こえる合図の鐘が 必要だと考えました。

「清水寺は、荒れ果てているが 幸いにも 梵鐘は 重いので 持ち出されていない  構わないから 盗んで来い  日頃 手厚く敬ってきたので 仏も 我らの力に成り、罪を 許してくれるだろう」と 伊賀久隆は 部下達に 命じました。 侍達は 神仏の祟りが 恐ろしいのですが 大将の命令には 逆らえません。夜を 待って 寺に 忍び込み 梵鐘を 降ろそうとすると、揺れただけなのに「ヤ ジャーン ヤ ジャーン」鳴りました。それでも 盗み取り 虎倉に 逃げ帰ろうと 凸凹の山道を進むと 揺れる度に「イカーン  イカーン」と 鳴り続けました。木の枝や 草の葉に触れる度に「イケーン イケーン」と 鳴り、清水寺から 離れれば 離れる程に 音は 大きくなりました。「この音なら 備前全土に 一打で 合図できる  備中の敵も 恐れをなそう  流石Sasugaは 我が殿 久隆様の眼力は 大したもんじゃ」と恐れを喜びに変えて 道を急ぎました。 虎倉城で 待っていた久隆は 部下の報告に 喜んで、さっそく 梵鐘を叩いてみました。ところが 力任せに叩いても 梵鐘は「コーン」とも鳴りません。 「鳴らぬなら 壊してしまえ 糞梵鐘」と 言って、お城の一番高い所から 滝の口に 落とさせましたが 何度 落としても 壊れません。その丈夫さに 呆れた 久隆は「仏の加護が 有って壊れんのじゃ  近くの寺に 預けて 叩けば 鳴るかも知れん」と 思い、寺に 移し叩くと「オエーン オエーン」と 小さい音がするだけでした。 すると夜になって 風で舞った木の葉が 当たったり 又 蚊が止まっただけでも「イヤーン イヤーン」と 鳴るのです

住職や 住民は 流石に 気味悪がって「久隆様  清水寺の大旦那の神原宗右衛門(Koubara-Souemon 神原左京佐(Koubara-Sakyou-no-suke様が 噂を聞いて 駆け付け〔もともと 清水寺の梵鐘だから 返してくれ〕と 梵鐘の返還を 求めています 清水寺に 戻してください 女の腐ったような泣き声を 毎夜 毎夜 聞くのは ご免で ございます」と 頼みました。久隆は「仕方ない  詫び状文でも書くから、清水寺に 返してやれ」と 命じました。 侍達は 梵鐘を 重い気持を堪えて 運びました。しかし 今度は 木の枝に当たっても 岩にぶつかっても 音はしません。侍達は 無口になり、仏の祟りを 恐れました。 やがて霊峰の高祖山Takazouyamaの峠に差しかかると、松の枝に 梵鐘が 当たりました。すると「ゴキ・カーーーーーン」と 心地良い音を 長々と 響かせました。侍達の顔は 俄かに明るくなって「治った 治った 梵鐘様の機嫌が治った  嬉しや 嬉しや」と 大はしゃぎに成りました。それからは 侍達の足は 軽くなり、一気に 清水寺まで走り 鐘楼に 梵鐘を 戻しました。 詫び状には「梵鐘を無断で持ち出し 非礼を詫び申し候  鐘は 軍略には 役に立ち申さず、清水寺にあってこそ その威を 発揮する物と 存じ候  罪を 滅ぼさんと 存じ候わば、寺の修復を 約束し候」と 書かれていました。そのご利益あってか、一地方豪族ながら 伊賀久隆は 西国の第一の雄 毛利両川の3本の矢を 以っての総攻撃を 一夜にして 一名の犠牲者(犠牲者なしとの伝説もあります)を出すだけの 大戦果を得ました。この戦いを 加茂崩れと 呼びます。「賀陽町史」「湯山 寺の前の村人より口伝」を 基にした物語  やじゃ:嫌です いけん:行けない 駄目です    おえん:駄目です 出来ない 死ぬ     高祖山:素戔嗚命が 祀られていた 山です。高祖 北緯34度51分17秒東経133度45分47秒    虎倉城:岡山市北区御津虎倉 北緯34度50分10秒東経133度50分4秒    藤原伊賀伊賀守左衛門尉久隆:虎倉城城主 宇喜多直家が 死を覚悟した時、有能な久隆が 宇喜多家の運命を牛耳ると 恐れ、妹である久隆の妻に 毒殺させました    宇喜多直家:主君や 人を 次々に暗殺等し 戦国大名になった 日本随一の梟漢Kyuukan(卑怯な計略者)です   龍角山清水寺:湯山寺ノ前458地 北緯34度51分4秒東経133度43分35秒    神原宗右衛門:伊賀惣右衛門は 大原(下竹荘黒土土生 北緯34度51分24 秒東経133度43分47秒)城主でした  後に神原に 御北神原家を作り 神原と姓を変え、久隆の幼い 弟 太郎次郎を 宇喜多氏から守りました    神原佐京佐:いかなる人か解りません。伊賀右京は 惣右衛門の祖父です 平成23年(2011年)7月11日