和田 江羅の檜  White cedar in wada

江羅の檜の樹形は 宝冠状状で 珍しがられていました。周りの山は 草刈り場で 周囲に大樹はなかったので 目立っていました。1991年の台風十九号で 残念なことに 二本の枝が折れ 美しい樹幹も みすぼらしくなりました。同じような樹形の樹が 和田上組にもあり、江羅の檜と夫婦の樹とされていましたが、和田上組の男の檜は 邪魔扱いされ 切り倒されました。すると その木を切った人 に不幸が続いたので「切った木に 障られている」と 噂さされました。それ以来 木の根が 畑に張り出して困るので切ろうと 言う話が 何度も出ましたが 江羅の檜は切られる事はありませんでした。今では 美しいJ樹形に戻り 訪ねる人が戻って来ました。昭和32年 1957年 岡山県庁が 建てられ 岡山博覧会が 開かれようとすると、植木として売られることになりましたが「祟られる」と 言う理由で 庭木にされずに済みました。其の後は 木陰が良く風通しも良い場所に立っていたので、夏の 涼み場 昼寝場 裁縫場 子供の遊び場(ブランコ 木登り 虫取り)の最高の場でした。電気器具が普及した今では 訪れる人はほぼいなくなりました。「岡山の巨樹」


江羅の檜  WHITE CEDAR IN Era

昔、江羅と 和田上組に 一組の樹齢350年位で 幹周りは 見た目で4.3m位 樹高18m位の 檜が 生えていました。普通の桧と違って 雌雄異株でした。そりゃあもうよく育って 大きく枝を 張って 宝冠のような 美しい樹形でした。夏には 農作業中の 大背も、野遊びを している童も 涼めるので 助かっていました。しかし にだえる夏に 女の檜に 物凄い数の 実なって、翌年には 物凄い数の 檜の苗で ごそになったのです。抜いても 抜いても 渋とく生えてくるので 指は痛んで 発条指Bane-yubiになるは、腰は痛くなるは、足はぎっぽうするは、けんびきが凝るはで 往生しました。業Gouが湧いて 女の檜を 切り倒そうとしました。すると 夫の檜が「わしの監督不行き届きで 妻の命が散らされるのは心苦しい、切るならわしを切れ」と胸を張りました。「坊主難けりゃ袈裟迄憎い」程に 機嫌の悪かった村人は、夫の木を切り 憂さを晴らしました。すると その夏から100年程は 度々 猛暑となり、涼む木陰が無いの 女房の子を はじめ多くの人が 日射病になったり、他の病気が 悪化して死ぬ人がいました。「女の檜の祟りじゃ」と 言って 恐とがったそうです。

平成3年(1991年)の台風19号で、江羅の檜の大枝が 2本ボキンボキンと 折れました。いよいよ 風が すばろうしくなりました。根は 畑に入り込み 盛り上がっており 枝も畔の縁を おうどうに 張り出ししていたので「どうもならん  てんくらじゃ  切ろうや」と 言う者も いたのですが「切ったりゃしちゃぁ おえん  いらわないで おこう  男の檜のように 祟られよう」と 言う者が多数だったので 切りませんでした。今は 枝も伸び 別嬪さんに 戻っています。しかし 新しい枝は 雌雄同株になっってしまい「このごろの世の中は 男女Otoko-onnaが 持はやされる 時代を 先取りしたんじゃろうか」と 村人は 話し合ったそうです。「岡山の巨樹」「村人口伝」を基にした物語    昭和32年(1957年)岡山県庁に 移植しようとする話が 持ち上がりましたが、上述と同じ 理由で 移植話は取り止めに なりました。   大背・おせ:成人 だえる:蒸し暑い ぎっぽうする:硬直する けんびき:首や肩回り 女房の子:女の子 業が湧く:ごうが煮える腹が立つ 風がすばろうしくなる:恰好が みすぼらしくなる ぼっこう:ひどく うどうに:偉そうに んくら:役立たず 上男:色男 男前 美男子    和田の檜:北緯34度53分22秒東経133度44分56秒 江羅の女の桧跡:北緯34度53分27秒東経133度44分52秒の近く  平成23年(2011年)8月1日

 

和田 ヤワラ杜松 Yawara-Nezu(Juniperus rigida)in wada


和田末広1328番地北緯34度53分25秒東経133度44分43秒に 枯れかけた「和田のヤワラネズ」と呼ばれる ネズミサシの樹が 右手土手上に 見えます。かつては 村の者達が 手入れをし 大切に育てていましたが、町の重要文化財に 指定され 責任が 町と住民とに分担されると 管理が 行き届かなくなって 樹勢は 衰えてきました。村人達は 樹勢を取り戻させようと 寄り合いましたが「町の文化財に 下手に手を出し、結果的に 枯れたなら その責任を 問われるかもしれない」と 言う者が いて放置され、写真のような 現在の姿になりました。  平成23年(2011年)8月1日