古墳 ancient tomb(burial mound)

吉備中央町付近は 明治初期まで 盛んに たたら製鉄が行われたようで、あちこちで 砂鉄採取のため 山が切り崩されています。製鉄に関わり 藤蔓採取藤筵生産 木炭生産 鍛冶刃物販売等で富を得た者 が現れました。そのため多くの古墳が 吉備中央町に存在します。

 

井原 

 落合加茂川線(66号線)沿いの NTT西日本加茂川井原電話交換所の 鳥居川向うの分岐を 西に向い登ると 井原858番地や 井原890番地があります。井原858番地の北に 青木の祠加茂88ヶ所霊場28番札所)が あります。参道の階段を降り 北を向くと 小高い丘が 北緯34度53分42秒・東経133度45分18秒が見えます。村人によると 古墳が有って、土器等が あったたと 言います。この丘のどこに 古墳があるか 著者は確認していません。この丘全体が 古墳なのでしょうか。 平成26年(2014年)10月18日

 

上田東 塚神 Tuk-ajin/Gog of mound

上田東柏尾1153番地の左の小道を北に少し進むと、北緯34度53分55秒東経133度47分56秒に円墳があり、1社宮が2社 建っています。左が塚紳宮で 右が摩利支天王宮です。塚神宮 摩利支天王宮には大般若経が奉納されています。塚神は旅の僧で、古墳の前に穴を掘り、雨乞い祈祷の人柱になったと伝説されます。 平成25年(2013年)7月20日

 

上田東 塚前の古墳 Ancient tomb in Tukamae 

足王大権現から西に向かうと 上田東西ノ溺1516番地があり その西に北に向かう分岐があるので進むと 上田東西山1539があり その西に石の祠(石グロ)が 祀られる高台が 北緯34度54分7秒 東経133度48分7秒に有ります。古墳と思われますが 通路を造る為に ほぼ完全に破壊されています。上田東1539番地の東隣地は 上田東塚前1512番地です。  平成29年(2017年)10月9日

 

上田東 与次溺の石祠 Stone Shrine in Yojitawa

足王大権現から 南南東に 約180m進むと 湯武公園が あります。そこから 南南西に 約90m程進むと 上田東与次溺1339番地の南西隣地の岸上 北緯34度53分56秒 133度48分11秒に 石祠があります。上田東1339番地に住む村人は 昔から祀られているが、何であるか解らないと言います。かつてここに塚があって,道を造るために破壊されたと 言う人がいました。 令和5年(2023年)1月17日

 

上田東 冠者河内遺跡 Residential Ruins in Kajyakouti

松尾神社の近くに冠者河内遺跡があります。 赤土畠に 10個程の 直径8m位の円形の弥生時代後期のものと推測される住居跡です。石庖丁 石斧 土器 石器片等が出土した事から 水田耕作が行われていたとされますが、現在のこの地域は 水に恵まれず  畑作が中心です。

松尾神社の神輿置きの岩組や常夜灯地神碑が 目安になります。多くの住居跡は 畑等に変えられ 現在残るのは 神輿置きのある原の一基のみです。祭祀に 用いられたらしい遺物が 発掘されたので 弥生中期の高名な人物の墳墓である可能性が 高いと言う人もいます。実際に 塚場に 土が盛られていいて 古墳を連想させます。 冠者河内:上田西407・441-442・454-456・458・461・462・465・474・476・477番地 冠者:上田東231-232・235番地  平成23年(2011年)6月14日

大木 塚が塔の古墳 Ancient tomb in Tukaga-tou

奥吉備街道吉備高原北部広域農道沿いの才の峠の細田公会堂の東90m程の所に 三谷集落に向う分岐があります。分岐を北東に180m程進むと 北に向かい登る分岐があります。

分岐を 北に向き 450m程進むと 右手(東)に 柳井田池Yaneada-no-ike/Yamadsa-no-ikeがあるので  更に 北に120m程進むと 三叉路になります。右(南東)に向かう道を U字状に 150m程進むと 小さいい池が 2個 左手にあり、鯉が養殖されています。池の北側に 塚が塔古墳群の案内の杭が 立っており 西に向う山道が あるので 50m程進むと 左側に 破壊された古墳の天井石らしき 巨石が あります。更に 西に10m程進むと 北緯34度54分23秒東経133度47分5.秒付近に3基の南向きの町指定文化財に指定された 横穴式古墳が 並んでいます。最初の古墳(上の写真の中)はかなり破壊されていて、墳丘の径は6m程 高さは2m程、石室の長さは5m程 幅は1m強です。その南西の古墳(上の写真の左)は 並んでいる3基の古墳の内では 最も保存が良いのですが 破壊されています。墳丘は 径8m程 高さ1m50cm程、石室は5 m程 幅と高さは1m50㎝程です。その西に 激しく破壊され 天井石の無い古墳(上の写真の右)があります。墳丘の径は 8m程 高さは 50㎝程で、石室は 長さ4~5m 幅は 1m弱です。下方に目をやると 巨石があります。完全に破壊されていて、墳丘も石室もはっきりしません。

元の案内杭に戻り 東に30m 程 進むと T字路になります。右に向うと 三谷に入り 小さな池があります。池の南を 東に進むと 直ぐに 野太郎田Yatarou-daの左手の山際 北緯34度54分22秒東経133度47分14秒に 小型古墳の開口部と 思われる石組みがあります。炭焼き釜の開口部は幅50㎝程で 狭過ぎますし 横広です。奥行きは 堆積物で 覆われているので良く解りません。内部の堆積物を 取り除こうと 一瞬 考えましたが、思い留まりました。このまま東に進むと 三谷日名集落の北端である 三谷中倉928番地の南に出ます。

元の案内杭に戻り 東に30m 程 進むと T字路の道の西崖上北緯34度54分21秒東経133度47分9秒に 破壊された 古墳の残骸と 思われる 岩群があります。T字路を北に向い すぐに 道とは言えないような山道を 西に登ると 先述の3基の古墳の北の山の頂上 北緯34度54分27秒東経133度47分9秒に 着きます。頂上の北側に あたかも岩の塊のように見える 石室が 剥き出しになった 古墳が あります。石室は 堆積物で 埋もれていますが、長さ4m強 幅は1m位です。山頂の南東端にも 南東向きの石室が露出した 横穴式古墳があります。墳丘の径は8m程 高さは1m50cm程、石室の長さは3m程です。この古墳の直ぐ北に 大きな岩群がありますが 古墳に見えません。岩目に住む 目玉だらけの妖怪の見張り台と されます。

元の案内杭に戻り 東に30m 程 進んだ  所の T字路を「後ろの田」の耕作放棄地の西に沿って 北に210m 進むと 「後ろの田」の北端で 道は左に大きく曲がります。その曲がり角の 30m 程手前の 三谷と大木の境の 三谷側 北緯34度54分27秒東経133度47分10秒に 大きな岩群が あります。幅 約2m、奥行き 約5mです。山側から 見ると 古墳の開口部があります。内部は堆積物で埋まり 約50㎝の高さの空洞になっています。

この山の東側の三谷日名の北東端の山の南側の麓付近には 沢山の炭焼き釜の跡が 残っています。たたら製鉄の燃料である炭を 生産する事で 財を成した 一族達の墳墓でしょう。三谷日名の北、塚ヶ乢付近にも古墳群があります。炭焼き釜跡群の3基です。古墳はまだあると思いますが、ひどく 破壊され、または開発により完全に破壊され 古墳の形を止めておらず 古墳と断定できませんので省略します。 塚ヶ搭:大木922-925・930番地 塚ヶ搭田東:大木926-929番地  平成.25年(2014年)6月12日

 

 令和4年8月10日 これらのの古墳群の調査残しが無いかと 訪ねた時に 不思議な生物に 出合いました。塚が塔の古墳群を 再確認し 「後の田」の北を通り、著者が少年の頃見たと 記憶する古墳を 探しながら(結果として見つかりませんでした)、塚が乢に向っていた時 塚が乢の西 北緯34度54分27秒東経133度47分1秒に差し掛かった時、小さな笹株に 隠れ ハミ(マムシ)そっくりの大きさと 形をした 頭をもたげ 顎が張った毒蛇らしき生物が 著者を 睨みつけているのを 見つけました。ハミならば 長い胴体がある筈ですが、それが 見当たりません。近くにあった 枯れ枝で 笹を除け 正体を確認しよとすると とても素速く 隣の笹株に 逃げ込みました。一瞬見えた 胴体は ずんぐりとしてり  ハミ模様であるように見えるので 亀や蛙の類ではないようです。余りに素早かったので 確かな姿は 解りませんでした。再び著者を 睨み続けるで、正体を写真に 収めようと考え、枯れ枝で 押さえ付けようとしたのですが、素早く体をかわし 著者の一撃を避け 別の笹株に身を隠し 胴体を見せてくれませんでした。それでも その生物は 怯える事なく 構え続けたので、毒液を発射されるか 飛掛られ  咬まれる危険を 感じ、又 数少ない貴重生物を 殺す事は 憚られるので 蛮勇を慎み 立ち去りました。世に言うツチノコだったのでしょうか。ハミの 矮小化した個体だったのでしょうか。

 

大木山中の古墳 Ancient-tomb in the mountain of Oogi 

三谷中倉928番地の 東上の道を 北に進むと 中倉1207番地跡(現在は葡萄畑跡)の所有する墓地が あります。墓地の西側に かつて日名集落の下から 登る道が ありましたが 開発により 無くなりました。昭和中期の日名集落の小学生は 現在も残る この墓地の東寄りの道より 神子坂を 上り 塚ヶ乢 を超えて 大木の岩崎橋に出  西に向い 豊岡小学校に 通いました.,その途中に古墳があり、下校時の遊びにしました。訪ねて 行こうとしましたが、道は 植物の繁茂で 判別できなくなっていました。この写真は 1973年2月に撮った物です。横穴式で 東に開氏口し、石室の長さ2m程 幅も 高さも 1m強であった と記憶しています。平成.25年(2014年)6月12日

 

尾原 塚原の俚人軍塚様 Rijin-gun-duka in Tukabara

俚人軍塚様と呼ぶ塚が 尾原塚原1146番地 北緯34度55分16.秒東経133度45分16秒重岡神社の北、塚原橋の南)の庭にあります。その横に立つ小祠は 塚様と呼ばれ 家運隆昌 子孫繁栄が 願われています。道沿いにあったものを 道路整備の折 ここに 移動しました。この塚が 有るので この辺りの小字名を 塚原と 呼びます。弥生時代の中期から 後期の墳墓と 推測されます。古墳の蓋石は 露出しており、長さは 約6尺(1.8m位)、幅は約4尺(1.2m位)です。宁評は 2枚で、石幽室の間口は 約1間(2m位)です。堆積物で 埋まりどのような構造だか 解らなくなっています。俚人とは、中国の三国時代(184年:後漢滅亡~280年:西晋中国統一)、日本の 弥生時代の中期に当たる頃、桂南(中華人民共和国広西チワン族自治区)から越南(ベトナム人民共和国)辺りに勢力を持った民族です。弥生人は 東南アジアの民族が 中国大陸 朝鮮半島を経由し 日本に辿りたどり着いたと されます。身分の高い俚人が この地に居たとしても 不思議ではありません。だとすると ここの塚は 弥生人が 東南アジア由来の民族の末裔である事の 間接的証明物件である 可能性もあります。日本では 俚Hinabiruとは、田舎っぽいと言う意味で、反対語は雅Miyabiです。俚謡Riyou(俚び歌Satobi-uta、鄙俚Hiri)とは田舎っぽい歌、俚言Rigen(俚諺Rigenn、俚語Rigo、俚耳Riji、俚び言Satobi-goto、俚び言葉Satobi-kotoba)とは俗言、俗諺Zokugenn、方言、集団や一族間の隠語等のように使います。俚人軍とは、田舎の軍隊 非専の戦闘員 武士でない戦闘員 臨時雇いの農兵 雑兵 等の印象を持つ 軍隊の意に とれます。いずれの意味でも 見下された軍隊の意と なります。見下された者が 弥生時代の塚に 葬られる筈がないと 考えます。この古墳が 俚人軍塚と 呼ばれる理由を、地主も他の村人も 知らないそうです。塚原:1128・1134・1162番地等 重岡山:1102・1103番地  令和5年(2023年)3月5日

 

上加茂 奥谷の古墳 Ancient tomb in Okutani

429号線添いの コメリ「コメリハード&グリーン加茂川店」の北から西に220m程進むと 奥谷川を渡り T字路になるので西に 分岐を30m程進む とY字路になります。西北西に向く道は 再び奥谷川を渡り 北北西に曲がります。220m程進むと、北東に曲がります。曲がり角に上加茂薬師267番地があります。その南に 右(東)に「流れ柿」に 誘導する 標識のある山道が 有るので 山道を東に 120m程進み 「流れ柿]」方向に進むと 畑跡と思われる所 北緯34度51分15秒東経133度48分22秒の近く(上加茂末木128番北の崖上)に 古墳時代後期のものと思われる 古墳が有ります。竹藪の崖側(南)に 開かれます。径は 約10m  高さは約1mです。酷く荒されています。畑跡側にも開口しています。

429号線上加茂のコメリハード&グリーン加茂川店北緯34度51分14秒東経133度48分34秒)より西に進むと 野仏が立ち その奥が 墓場に なっています。その西 上加茂未木前113番地から 東に延びる山道があるので 道なりに  山を登ると 北緯34度51分15秒東経133度48分28秒(上加茂八万113番地)と推定する所に 作平地が有り 手水鉢を備えた 石組みの上に 祀られる小社八幡神社が 建っています。その奥に 経10m程の 墳丘らしき高まりが 北緯34度51分16秒東経133度48分27秒と 推定する所に あるとされます。八幡神社の付近と その尾根筋を 探索しましたが 古墳らしき物を 見つけられませんでした。尾根筋を登ると後述する古墳に至ります。

元の山道の北にも 「流れ柿」に向かう山道があり、流れ柿の手前に 墓場があります。墓場の東側に 北に向う山道(ほぼ笹薮になっています )ので 北に150 m程進むと 山道の左手 北緯34度51分19秒東経133度48分25秒(上加茂高尾183番地)と推測する所に 径約4m 幅約1m 高さ約80cmの南に 開口する墳丘があります。北側奥も 開口しています。石室の長さは4m強 幅1m程で 高さは80㎝位です。酷く荒されています。

北北西に 上方に 山肌を30m程登ると、西側に  北緯34度51分20秒東経133度48分25秒(上加茂高尾183番地)と 推測する所に 南に開口する 径約15m 高さ約2mの後方が 潰れている古墳があります。墳丘は ひどく 荒れています。墳丘の周りは 窪みになっています。石室の長さは2m50㎝程で 幅は約1m 高さは約80㎝です。古墳時代後期のものと推定されます。元の山道に戻り北に30程登り 右(東)に15m程進んだ所(後方が潰れた古墳の西約45m)北緯34度51分20秒東経133度48分26秒と 推測する所に 径約8m 高さ約1m50cmの 南に開口する 横穴式の古墳があるとされますが、著者は 見つけることが出来ませんでした。

前述の後部が陥没した古墳から 前述の著者が発見できなかった古墳に向いて斜面を下っていると北緯34度51分21秒東経133度48分26秒と推測する所に径約1m50cmのほぼ円形の穴が開いていました。「奥谷野田古墳群(吉備中央町上加茂奥谷) - YouTube」では「明治25 26年の大水害復旧工事の石材採取のため乱堀され多くの古墳が消滅した模様 」と記されています。 明らかに人工的な穴である事から、古墳の石材の盗掘跡の可能性があります。

北緯34度51分20秒東経133度48分26秒と 推測する所に 径約8m 高さ約1m50cmの 南に開口する 横穴式の古墳があるとされる所から 植林されている尾根を 下っていると、北緯34度51分19秒東経133度48分28秒(上加茂オノハナ74番地)と 北緯34度51分20秒東経133度48分26秒(上加茂高雄183番地)に 墳丘らしき高まりが 並ぶように 見つかりました。記憶では 2基とも 径5m程 高さ1m程で、後部は削り取られています。高雄の墳丘様構造の付近には 数個の岩があったと記憶します。隣地は 小さい沼です。古墳の石材の盗掘跡かも 知れません。この尾根を下りきると 上加茂八幡谷下62番地の北に 出ます。この山の西側の 北緯34度51分21秒東経133度48分8秒に 頂点を持つ 標高306mの山にも  数基の古墳があると 地主の方は 言いす。しかし 子供の頃に 登って以来 手入れもせずにいるので それらの有り場所を よく 覚えていないそうです。 急峻である上 登山口も判らない程に 荒れており また広大で 当てもないため 山に 踏み入る事を 諦めました。 奥谷野田古墳群(吉備中央町上加茂奥谷) - YouTube」  令和5年(2023年)3月5日

 

下加茂 上台古墳Kami-Dai-kohun 台古墳Dai-kohun

此谷川に沿って 北に曲り 下加茂權兵衛田1354番地の東の山王橋を 西に 此谷川日吉神社本殿 稲荷神社本殿と記された標識が掛rimasu)を 渡ると 三叉路があり 左手に 小社(稲荷神社)に続く石の階段があります。道なりに 東に山道を60m程進んで 大きな配水管が皿側に開いている辺りから 小沢を 強引に 渡ります。対岸の平坦地北緯34度51分36秒東経133度49分21秒と予測する所に塚状の石を積まれた上を封土したような高まりがあります。古墳であるかどうかわかりません。

そこから 尾根脇を 南東に進むと 尾根の上北緯34度51分34秒東経133度49分22秒と予測する所の 径 目通し70m 高さ 目通し2m50㎝の塚状の丘(尾根を 覆い尽くしていたので  山の頂上と 錯覚しました)の上に 小さい古びた 社(神様はお留守 奉建立明治三十五年五月初立 加茂 本請森田慎太郎 大工 森田國太郎)が 祀られていて 神カップのお酒が奉納され、新しい榊が生けられています。下加茂臺新田1587番地から 此谷川に沿って 東に進み コンクリートの壁の北側の山道を 登っても 辿り着けます。この位地は上台古墳(吉備中央町下加茂台) - YouTube台古墳 | 日本ロマン100年 古墳 (gicz.tokyo)で示す地図の台古墳の位地とほぼ一致します。

 それを過ぎ山道に沿って登ると 割られた石があり その先の尾根の高い処(沢を渡って約150m)に 開けた地があり 北緯34度 51分 34秒東経133度49分25秒と予測する所に 上台古墳(吉備中央町下加茂台) - YouTubeの映像で示される 上台古墳と 一致するらしい 古墳があります。古墳は2基あり 南に開口しており 両方とも 幅約1m 高さ1m弱 長さ2m強で 保存状態は良好です。下側にある古墳は東側にも開口しています。

上台古墳(吉備中央町下加茂台) - YouTubeの映像によると 上台古墳から  尾根先を目がけ、道なき山肌を進むと尾根先  北緯34度51分35秒東経133度47分23秒に2基の破壊された古墳から成る台古墳があるそうです。著者は 訪ねていません。上台古墳(吉備中央町下加茂台) - YouTube」「台古墳 | 日本ロマン100年 古墳 (gicz.tokyo)」「上台古墳 | 日本ロマン100年 古墳 (gicz.tokyo)

上台古墳(吉備中央町下加茂台) - YouTubeの映像で示される 上台古墳と 一致するらしい 古墳から山山道に沿って 南東に向き 山を登ると 感覚的には 北緯34度51分34秒東経133度49分28秒と思うのですが、尾根一杯に 広がる程の大規模(径 目通し約7m 高さ目通し2m)な 塚状構造の高まり(この山の頂上かと 錯覚しました)があり、高まりの麓に 摩利支天幸魂串を祀る 小社と、灯明用と 思われる 石組みがあります。この位地は「台古墳(吉備中央町下加茂台) - YouTube」「上台古墳 | 日本ロマン100年」の地図に 示される 上台古墳の位地と ほぼ一致しています。更に 山道に沿って登ると、先ほど述べた 塚状構造より大きい 径と高さの高まり(やはり この山の頂上かと 錯覚しました)が 北緯34度51分30秒東経133度49分30秒にありました。この丘には 神様は  祀られていません、  令和5年(2023年)3月18日

 

竹部 法福寺跡の  室状建築物 Ancient tomb like architecture in the ruins of Houhukuji temple

吉備高原都市の住区から 484号線を南下し、投打川に沿って進み、竹部加茂市場線(366号)との交叉点の手前、北に位置する竹部田元1539-1番地の分岐を進み、直ぐに北に進む分岐に入り、竹部田元1555番地の東を 道なりに山道を登ると 2枚の平坦地の上の段 北緯34度49分46秒東経133度46分53秒に1宮社然とした社が 立ちます。社の傍に 炭焼き釜状の塚状構造があります。炭焼き釜か 古墳か 何かの貯蔵施設か わかりませんが、古墳にしては新し過ぎる感じです。  平成.25年(2014年)4月10日

 

富永・和田 小阪摩利支天社の古墳 Ancient tomb like small hill at Kozako-Marusi-yen-sya shrine

小坂摩利支天神社は北緯34度53分19

秒・東経133度44分55秒、和田柏風呂1597-5番地の北の円墳ではないかと思われる丘の頂上に建ちます。小坂谷:富永931番地 供養石:富永899・900番地 平成.25年(.2013年)1月12日

 

豊岡上 上光寺の上人墓 Syounin-Baka in Jyoukouji

伝説によると、豊岡上別曽669番地の西の山 北緯34度54分6秒東経133度45分38秒付近に「常光寺城」が有りました。そのの麓に大鶴山常光寺があり、四方に五体といわれるは地 水 火 風 空の五輪塔がありましりました。鎌倉右大将の源頼朝の叔父であるらしい人が諸国を廻り修行し、この地が気に入り寂静安楽な霊地であると表現し 死に場所に選び住みつき 入滅し、その近くに葬られました。その人の墓が上人墓だと言うのです。上人墓と並んで、石塔がもう一基あり、源頼朝の姉の墓だそうで、人柱として埋められたと言われます。「加茂川町史」 写真は現在の姿と、圃場整備前の姿です。 According to legend, Jyoukouji-jyou/castle was built by Yoriuji Iga Relatives of the Gen(Minamoto)-ji family” on Daikaku-san/mountain “Kame-yama, tortoise-mountain”    There was Daikaku-san-Jyoukou-ji/temple was built at the foot of the mountain     On all four sides, four Gorin-tou “five-part gravestone representing earth, water, fire, wind and heaven” called Go-tai “five element to constitute the world”    A person who seems to be the uncle of Minamoto-no-Yoritomo who was the Minister of  Right of the Kamakura shogunate, visited around the all countries and practiced Buddhism, came to here, find favor with here because he felt here is expressed as a sacred place of peace and tranquility, determined here as Seizan “place to must die”, lived in here and died here, and was buried near here   The person's grave is called Syounin-baka “grave for the saint”    There was a another stone tomb adjusted with Syounin-baka, It is said that the tomb is the grave of the elder sister of Minamoto-no-Yoritomo, buried as Hito-basira “human sacrifice”」   平成23年(2011年)7月23日

 

細田 細田天津神社・久保田神社の円墳

北緯34度53分39秒東経133度47分6秒 細田hosoda明見myouken1372番地に久保田神社が建ちます。天津神社境内に 末社の一宮社が 3社(久保田神社)祀られており、本殿近くに円墳が有ります。かつてこの地は妙見山城であったので円墳はその城主の物と考えられています。能勢常陸介が 城主の頃は 虎倉城が栄えていた時代です。浪人をしていた能勢常陸介が 毛利氏の臣下になり、肥前国の城主と成りました。その後備前に入り、伊賀兵庫頭の時 2千貫を 払い妙見山城主となって、虎倉城落城まで 居城したとされます。「加茂川の山城」「加茂川町史」「村人口伝」  妙見山城跡:三納谷城の出城とされます  その昔、吉備津彦命がここにいた怪物を弓で射たという伝説があります  この辺り銅の豊富な所です   三納谷城跡:三納谷新屋839番地の南東東の山 北緯34度52分54秒東経133度46分56秒 妙見:細田1362・1396番地等 妙見山:細田1391・1647番地等 明見前:細田1398・1411番地等 比社免:細田1485・1494番地等 矢柄:細田1397・1549番地等    平成25年(2013年)4月5日 

 

細田 的石 Target stone

松尾神社(旧円城寺小学校の隣)より やや円城側に 左に入る山道が分岐します。山道を左に入り、民家上田東ナカㇷ田563番地)の横の道標のある分岐の右手を見ながら 坂を下る途中 2m程奥の藪の中(細田) 北緯34度53分44秒東経133度47分47秒の近くに「的石」が立ちます。地頭として野山(北地区等)に赴 任してきた 伊達弾正朝義が 馬に跨りここから、化気神社に向かい 矢を放ったとも言われます。矢を射たのは九州平定をなした 嵯峨皇子だと言う人もいます。最も有名な 伝説は 五十狭芹彦命Isa-seri-hiko-no-mikoto(第2代吉備津彦命・大吉備津彦命)の「化気神社の鬼退治」でしょう。「化気宮の辺りに 鬼と言う妖怪だか山賊だか解らない者が 住み付いて 村人に災難を齎している」と聞いた吉備津彦命は、鬼退治にやって来ました。鬼の大将は 神出鬼没の不思議な術を使うので 戦いになりません。そこで 吉備津彦命は、馬に乗り鬼の正体を「伺いの松」より窺い、近くの大岩(駒石)に馬の片足を乗せ 弓を放つと矢は「的岩」の脇の「矢係の松」の枝に掛かってしまいました。聖の馬でしたので その大岩に馬の蹄の跡が付き、駒石と呼ばれるようになりました。千鈞の強弓を取り出し、再び引き絞り 矢を放つと、鬼は射抜かれまいと 大岩に変身しましたが 大矢の神力が勝り 射貫きました。岩となった鬼は 大爆発を起こし2組 計4つに分かれて飛んで行きました。一つは松尾神社近くに残り的石と 呼ばれ、一つは立石に落ち 「立石」と呼びます。一つは城山裾の細田公民館近くに落ち、4つは大畑の近く旧街道沿の「植松」に落ちました。壊れた夜は、目無では見えず、高平をひらひらと飛び、大畑をバタバタと飛び、矢柄と矢原に落ちました。  平成28年(2016年)4月1日

 

三谷 陰地の一心紳門の塚 Anvcient tomb in Onji

三谷野田尾93番地から北に登ると丁字路に成り、左手の奥に円墳があり 墓石造群が祀られています。その中の中心的な石碑に一心神門と刻まれています。その後側に石組みの祠が有ります。村人が「いつの事か分りませんが、陰地を訪ねて来た僧侶が旱魃で悩む村人のために自らを人柱にして雨乞いを三谷城の聖地で祈祷しました。その僧侶の供養碑がこれだ」と語りました。 If you climb toward the north from 93 Mitani-Notano-o to the T-junction, you will find a round burial mound on the left    Stone-works such as tombstones are enshrined on the mound Among them, the characters of Issin-sinmon is engraved  on the main stone monument   There is a stone shrine or temple on the back side  A villager told me that 「I do not know when it is    A monk who came to visit Onji,  prayed for villagers suffering from drought, making himself as human sacrifice, and begged for rain at the Holy land of Mitani-jyou/castle  This is the monk's memorial monument」 一心紳門碑:北緯34度54分48秒・東経133度47分50秒     平成24年(2012年)12月22日

 

 

三谷の古墳群 Ancient tombs in Mitani-Hina

三谷中倉928番地の 東上の道を 北に進むと 中倉1207番地跡(現在は葡萄畑跡)の管理する墓地が あります。墓地の西側に かつて日名集落の下から 登る道が ありましたが 開発により 無くなりました。昭和中期の日名集落の小学生は 現在も残る この墓の東よりの道より 神子坂を 上り 塚ヶ乢 を超えて 大木の岩崎橋に出  西に向い 豊岡小学校(現在廃校 豊岡いきいきプラザに 通いました。塚ヶ乢の東の山の 炭焼き釜の北 北緯34度54分29.秒東経133度47分20秒付近に、即ち 古墳が先述の墓地の西道向かいの古い墓地の北側の山の中腹に 古墳があります。昭和30年代に著者の叔父と 豊岡小学校の教頭が 面白がっては発掘すると、須恵器2個出土しました。叔父が無くなったので著者が 代行して 坪型須恵器は 御北小学校に寄付されました。もう一つの高盤の器の行方は不明になりました。 平成24年(2012年)12月22日

 

三谷日名摩利支天社 Marisiten-sya shrine of Mitani-hina  中倉野呂の墓地の西脇 北緯34度54分27秒東経133度47分19秒に 摩利支天が 祀られています、摩利支天の後ろに 古墳の開口部らしい石組みがあります。墳丘らしき膨らみがありますが 明確でなく 開口部が 狭いので、発掘してみなければ、古墳であるかどうか解りません。このお地域の者は 源平合戦の平家方に付き 敗戦しました。そのためその後の戦国時代には 虎倉城主 伊賀久隆の元小森城(三谷)あるいは細田城(細田)の足軽として参戦したのでしょう。そのため 神聖な古墳の上に 戦いの神である摩利支天を 祀ったのでしょう。この墓より 西に 三谷中倉928番地の北を通り100m進むと炭焼き釜の跡がいくつかあり、植林がされています。その東側辺り北緯34度54分27秒東経133度47分27秒に 古墳が3基だったか 4基ありましたが 作業道路を 作るため 破壊され、石は 庭石にするためか 持ち去られました。中黒野呂の墓場の西が駐車場になっています。真砂土が 採取されたために 山肌が 切り取られ 崖になっています。駐車場の北側に 古墳がありましたが、土の採取に依って 完全に破壊されました。  中倉:三谷834・836・838-857・859・862-879・904-918・920-951・1025-027・1035・1037番地  平成24年(2012年)12月22日

 

三谷の野太郎田の古墳 Ancient tomb in Yatarou-da 

三谷中倉928番地の南の道を 西に向うと 鋭い角度を持った 戻る方向に向う 分岐があります。分岐を 東から北に 進むと中倉1207番地の 摩利支天社の祀られる 墓場に 着きます、分岐に入らず、西に 120m程進むと、池が あります。池の北は ブルーべリー畑に 作りかえられました。池より30m程 東北側の斜面の中腹に 古墳の開口部と思られる 石組みがあります。そのまま西に120m程進むと、塚が塔古墳群に行きます。 平成24年(2012年)12月22日

 

上竹  正力の火の釜 Hi-no-kama in Syouriki

 高梁御津線(31号線)長屋賀陽線(78号線)出会う正力交差点上竹堂ノ元4946番地や上竹マヘMae4947番地の隣地から東に210m程進むと 四差路があります。四差路から 南に270m程進み 上竹横邊4839番地を過ぎると 道が Ù字に回り 次の鋭いカーブの右手側に 墓場があります。墓場の前から 山道が 南に向うので、山道を30m 進むと Y字路となるので 左の山道を選び  約80m進むと 右土手の上に 正力下田の古墳があります。南向きの石室の大きさは 長さ3m弱 幅と高さは 1m強で、天井石は 一枚しか見当たらず 側壁の端部分は 崖に向って 剝き出しになっています。 火の釜古墳(吉備中央町上竹正力) - YouTube 令和5年(2023年)2月17日

 

 

上竹 宮後の古墳らしき高まり Anciennt tomb like hill in Miyasiro 

袈裟掛地蔵堂の変則的五叉路から北に進むと上竹ケサカケ3092-1番地に出ます。その北の道沿い 北緯34度50分44秒東経133度39分48秒に こんもりした円形の半分程破壊された 古墳状の高まりがあり、平らな岩がむき出しになっています。  平成29年(2017年)11月11日

 

上竹 羽根尾の古墳 Ancient tomb in Haneo

上竹ハ子ヲ1975番地の南西約90m 上竹加藤ソ子Katou-sone2945野番地の東北 北緯34度50分50秒東経133度40分2秒に 竹荘八十八ヶ所霊場巡礼69番札所 羽根尾の大師堂が 建ちます。その辻堂の東に 山道があります。山道を 北に60m程 進むと 略 南に開口する 径3m程の円墳様の塚があります。石室の大きさは 約1m×約1m×約1mで 開口部の大きさは 約80㎝×約1mです。石室は 良く保たれていて、その中に 木製の社の朽ち果てた欠片らしきものが 残されています。保存状態が 良すぎるのと 石室の奥行きが 比較的 短いので、弥生時代後期の古墳ではないかもしれません。 令和5年(2023年)2月15日

 

上竹 山根山古墳群 Ancient tombs in Yamane-yama サイノタワ古墳群 Ancient tombs in Sai-no-tawa

高梁御津線(31号線)の正田橋上竹土井渡リ1684-2番地の南東の道向)で 宇甘川を渡り南に約600m進むと左手に 丸尾池があります。丸尾池から 更に 170m程 南南東に進むと 右(西)に向かう分岐が 竹荘簡易水道月原調整池と 上竹キクモリ281-2番地の間に 有ります。

上竹281-2番地の北西の交叉点から 山道が 北世に向いてあるので、山道を60m進むと 石柱が立ち「山根山古墳群 賀陽町教育委員会 昭和五十三年十一月二十四日指定」と 記されています。石碑より1段高い処に 盛り土の塚が 3基あります。一番西の塚(北緯34度51分7秒東経133度41分10秒)は 墓場を作る為に1割程 削り取られていま す。直径約16m 高さ約2m50㎝の円墳です。サイノタワ:上竹282-284・318-323・328・329・331・332・340番地 荒神ノハナ:上竹291番地 山根ヤシキ:上竹350番地 山子・ヤマ子・山根:上竹351-353・355・367番地 サイノタワ1号墳 | 日本ロマン100年 古墳 (gicz.tokyo)」「サイノタワ2号墳 | 日本ロマン100年 古墳 (gicz.tokyo)」「サイノタワ3号墳 - 古墳マップ (kofun.info) 令和5年(2023年)2月3日

 

上竹 宮後矢形の石碑 Stone pagoda in Miyasiro-Yakata

俵原池から 長屋賀陽線(78号線)を450m程南に進み 岡山自動車道を 潜り越えた東南東約210m先の上竹ケサカケノ田3199番付近のT字路と 五叉路からなる変則六叉路から 北に向かう道を450m程進むと上竹平田3068番地に出ます。上竹平田3068番地と 上竹平田2993番地(3066番地の北120mと 上竹矢形2964番地3068番地の東北東150m屋号・やかた) 上竹久根坂2886番地(3068番地の東南東150mに 囲まれた 北緯34度50分52秒東経133度39分52秒の広い高台を 屋形(矢形・館)と呼び、かつて 大きな城のような屋敷(館)跡 矢形跡)が あったとされます。中央の頂は 丸みを帯びた丘で 3基の塚「径約1.5m 石室入口約30cm×約50cm」「径約2m 石室入口は堆積物で埋まっている」「径約2m 石室入口 約80cm×約50cm 」があります。中央の塚には 石仏が祀られており 「(ウ冠の字)(糸偏の字)(草冠に 一の下に化)房資(祐に似た字) 明治十九年六月建之」と 記されています。基とも 円墳と思われます。石仏は 館の主の供養塔でしょうが 古墳と同時代の物かどうかわかりません。一番奥の塚の石室には  陶器製の祠が 納められています。上竹矢形2964番地の人が 管理しているようです。 If you go toward the south from Tawara-bara-ike/pond, cross under Okayama expressway, go toward east southeast to complexed junction where is near 3199 Kamitake-Kesakake-no-ta, go toward the north about 450m, you will reach the west of 3066 Kamitake-Hirata    The area surround with 3067 Kamitake-Hirata, 2993 Kamitake-Hirata, 2964 Kamitake-Yakata and 2886 Kmitake-Kunezako is called Yakata    It is said that there was a big house like castle in the past  There are three round burial mound on the center at 34 degrees 50 minutes 52 seconds north latitude and 133 degrees 39 minutes and 52 seconds east longitude    A stone statue of Buddha is enshrined in the central mound, and another two mound have a round room with an entrance made with stone arrangement  The stone statue of  Buddha is the memorial tower for the owner     俵原池:北緯34度50分56秒東経133度39分35秒   ヤカタ・矢形:上竹2897・2964(北緯34度50分53秒東経133度39分55秒)・2981番地等  平成.25年(2014年)4月15日

 

上竹 俵原古墳 Tawarabara ancient tomb

南に開口する  現存長さ約7m50m  高さ約60cmの横穴式石室を持ち 墳丘径13m×約2m50cmの歪みのある円墳です。 俵原池の南から南西に向う道が 120m程で 長屋賀陽線(78号線)と交差(岡山自動車道の約150m西 『「陣山と首塚」の案内板がたちます。案内板には「 この高い山を陣山と呼ぶ。約四百五十年の昔 陣営が置かれた山である。「其の一」永禄三年(五六〇)備前の宇喜田軍は 竹之荘を後略しようと 大軍で進出してきた。尼子氏と同盟している備中松山城主庄 勝資(しょうかつすけ)の備中軍は 矢倉城(枡形山)の麓の地蔵ヶ鼻付近で迎え討ち 大激戦を展開した。勝負は一進一退であったが 成羽城主、三村家親は松山城の留守をねらって急襲し 小人数の庄高資(しょうつぁかすけ)以下男女全員を殺戮(さつりく)した。その訃報(ふほう)を聞いた竹之荘の庄軍は戦意を失し 陣山の本陣さして逃げかえるが 陣山の前面で凄まじい血戦を行なう。打たれた兵士の死屍は 累累として数知れず。戦後、大村寺の僧侶が懇ねんごろに埋葬して 首の数だけ石を積み 供養したとつたえられる。「其の二」永禄十年八月(一五六五)備前虎倉こくら城主伊賀左衛門尉ひさたかさえもんのじょうひさたかを大将とする宇喜田軍、九千騎は松山城を攻略せんと攻め寄せ堅守する竹荘郡と激闘三昼夜お及んだという。戦いに飢えて疲れて 多くの兵士が斃たおれた坂を「かつえ坂」と呼んでいる。「其の三」永禄十一年八月(五六八)毛利が九州に出陣しているるすをねらい宇喜田忠家をたいしょうとした備前軍は  再び松山城を奪取しようと 大軍で押し寄せた。この情報を得た竹荘の工藤次郎兵衛は、すぐさま国中に触れを廻し、植木 三村 野山 等の備中軍は結束して迎え討ち 一日三度まで激闘するも勝負決せず。宇喜多兵は 日暮れとともに引き上げた。その後天正二年(一五七四)~天正三年(一五七五)の備中兵乱を含め 度々の兵乱で 竹之荘は焼土と化した。大八幡神社も大村寺も焼け落ちた。「注」合戦の年号については史書により多少の五さがある。 賀陽歴史顕彰保存会』しますが 道なりに南西に150m程進むと 上竹新デン上3638番地の南西  上竹ケサカケ3409番地の西に 三叉路があります。三叉路から 南西に約60m程進んだ所に 道を斜めに横切る溝があります。そこから 左斜面を30m程下った所(笹薮の仲)北緯34度50分43秒東経 133度39分'28秒に 笹の茂る所に 俵原の古墳があります。 南側に 径約12m 高さ約2mの墳丘らしき高まりがあります。俵原古墳 - 古墳マップ (kofun.info)」「俵原古墳 - 吉備中央町 (fc2.com)」「古墳のお部屋ブログ館 吉備中央町 (fc2.com)」「俵原古墳 | 古墳のお部屋ブログ館 (fc2.com)」「俵原古墳(吉備中央町上竹) - YouTube

 

上竹 立の七人御崎 Memorial mound for seven soldier's souls who  have no relatives in Tati

高梁御津線(31号線)沿いのコメリの西の道を北西に登った十字路の辺り、上竹立801番地の北東 竹荘と上竹に境の四差路の南側 北緯北緯34度51分23秒東経133度40分39秒に七人御崎塚が 有ります。備中兵乱のおり 矢倉畦城落城時 7人の兵士が 有漢に逃れようとしましたが 追手に討たれました。「賀陽町史追補版p794」 案内板には「この塚(祠)は7人御鋒塚と言われ、戦国時代のこの地において討死した七人の武士の霊をまつったものである。今から四〇〇年程前の天正二(一五七四)年、備中松山城主、三村元親毛利宇喜多両軍の攻撃を受けた備中兵乱の時、当時 竹荘の土豪として三村氏に従属していた田中直重は 一族地侍等数千人を率い 矢倉畦城に於いて 毛利の大軍を迎え討ち よく戦ったが、天正二年十二月二十七日落城した。この時 矢倉畦城より 落ちのびた守兵の内七人は、この土地において 攻撃軍につかまり、乱戦の中に討死したという。上地の人々は 悲運の武士の為に 塚を立て、霊をまつったと 伝えられている。元の塚は 現在より南約五〇メートルの処にあったがこの度、圃場整備により塚を移し 新たに祠を立て無名非○○○まつられる事になった」と 記されています。    タチ・立:上竹792-795・800-803・832-838・842・854番地  平成26年(2014年)8月15日

 

竹荘 山田尾花の塚 Mound in Yamada-Obana

竹荘山田恋田に岩泉池があります。池から北に向かうと竹荘尾花2723番地に着きます。そこから南を見ると北緯34度52分2秒東経133度40分29秒に2基の塚があり手前の塚に仏像が祀られています。地元の人は山上様と呼んでいます。塚は古墳に見えますが、地元の人は古墳では無いと言います。手前の塚は 著者には 古墳に見えます。  カイセン:竹荘2104・2111・2351・2353・2360-2363・2352・2365-2372・2596番地  尾花:竹荘2523-2526・2531-2535・2545・2549・2550・2552-2557・2560・2563 ・2723・2726-2730・2732-2736番地 ヲバナ:竹荘2725・2559番地   尾鼻:竹荘2546-2548・2551番地 尾ハナ:2558番地 ヲハナ:竹荘2731番地  There is Gaisen-ike/pond in Takesyou-Yamada-Koida    If you go toward the  north from the pond to 2723 Takesyou-Obana    If you look south from there, there are two mounds at 34 degrees 52 minutes 2 seconds north latitude and 133 degrees 40 minutes and 29 seconds east longitude, and a statue of Buddha is enshrined on the mound nearer to you    The locals call it Sanjyou-sama   A local people told me that the mounds are not ancient tombs, but I think they are  ancient r\tombs     平成29年(2017年)11月14日

 

竹荘 匕塚古墳Sajiduka-Kohum]

豊野小学校の南の賀陽有漢線(156号線)を北西に進み下市川を越え、峠集落を超え、しばらく進むと大曲が有り道は南西に向きを変えます。150m程の所に 竹荘イサカ3635番地が有ります。その家の誘導路の南の道向うにK字型の分岐が有ります。どちらの分岐を選んでも良いのですが 東に向く急な坂を進めば 耕作地等を 通らないでので お勧めします。下り切り 東を見ると岩の積載があります。南側に 開口部が ありますが 堆積物でほぼ埋められています。いいかえると「道路下のビニールハウスの東側約 2mの所 北緯i34度52分13秒東経133度41分12秒に 匕塚古墳があります。開口部の幅は 約1m強で 高さは 約20cmです。墳丘は無くなっています。 平成24年(2012年)7月10日

 

竹荘 大久保伊坂の鎮魂碑 Monument of the Soul(Tinkon-hi) in Ookubo-Isaka

 賀陽有漢線(156号線)沿いの大久保集落から 南東に下市に向かう途中に S字状の大曲があり 川砂池が 左手にあります。池より240m程南東に下った道が 北に張り出した所の北側の高台 北緯345217東経133417秒に 鎮魂碑が立っています。そこより南西に90m程進むと 竹荘伊坂640番地が有ります。かつて 鎮魂碑の場所に 横穴式の大きな古墳があって それを 取り壊し この碑を造った もっと南にも 同規模の横穴式古墳があったが 畑を造るため地中深くに 埋めた」と  話してくれました。この鎮魂碑は 遥か昔の人を 悼んだ物なのでしょう。 大久保:竹荘3690・3831番等 堂ノ峠:竹荘3717・3744番地等 石佛:竹荘3745・3746番地 イサカ・伊サカ・井坂:竹荘3578・3638番地等  令和5年(2023年)2月7日

 

竹荘 上岩村風ヶ畑の古墳 Ancient Tomb inn Kaze-no-hata

 賀陽有漢線(156号線)沿いの大久保集落から 南東に下市に向かう途中に S字状の大曲があり 川砂池が 左手にあります。池より240m程南東に下った道が 北に張り出した所の北側の高台 北緯34度52分17秒東経133度41分7秒に  鎮魂碑が立っています。そこより南西に 90m程進むと 竹荘伊坂640番地が有ります。そのまま南東からほくとうに曲がり伊坂地蔵堂を左に見て南に曲がり 南に曲ると上岩村区公会堂が 建ち その南東30m程の右下 北緯34度52分10秒東経133度41分17.秒に 塚があり 陶器製の祠が 祀られています。古墳のように思えます。古墳でないかも知れません。竹荘風ヶ畑3554番位の北北西約 120mに 位置します。平成5年(2023年)5月7日

 

竹荘 板屋新家の古墳 Ancient tomb in Sinya

高梁御津線(31号線)沿いの 上竹宮ノマエ753番地に 「特別養護老人ホーム吉備高原賀陽荘」が 建ちます。その東の分岐を 北西に300m程進むと 十字路になるので 北に曲がり、900m程進むと 右手 竹荘池尻2356番地の東に 岩泉池があります。そのまま 北に330m程 進み クランク状に曲り 更に北に約160m程 進むと 竹荘新屋2753番地の北北西 北緯34度52分8秒東経133度40分32秒に 土の高まりがあり 石祠が 中腹に 祀られています。古墳と 思われますが 石室はありませんので  断定できません。東を除く3方は 道を造るため切り取られています。 令和5年(2023年)2月11日

 

田土 大原城の塚 Mounds in the ruins of Oohara-jyou castle 

大原城跡」は 田土大原3214番地の南西 黒土土生の北緯34度51分24秒東経133度43分47秒辺りです。頂上付近の大きい平坦地に2ケの土の盛りが 認められ、右手は空堀です。大原城は 上加茂合戦では、戦わず 兵も民もi伊賀久隆の護る虎倉に避難しました。戦死した兵士の埋葬塚と思われますが、いかなる資料も伝説も残っておりません。    大原田土3161・3176・3177・3179・3180・3184・3189・3190・3192-3200・3203-3214・3216・3217番地 城東:田土3228-3230番地 城山:田土3231・3235番地 城ノタワ・城乢:田土3236-3241・3244・3245・3250・4258・3262-3264・3266-3272番地   平成24年(2012年)4月1日

 

 

豊野ヌクユ古墳 Ancient tomb in Nukuyu

尾原賀陽線(369号線)豊野北ヤ4238番地の南に地蔵菩薩堂が立っています。そこより南に山道を下ると廃屋の南 北緯34度52分8秒東経133度41分58秒に円墳と思われる小さい丘があり地蔵が2尊祀られています。丘の反対側には燈明用の石グロが有ります。その東側に南に向かう道があり道なりに進むと城の辻を通り ヌクユ池に出ます。その途中に 南西西に道が折れ 再び南に折れる辺りの城の辻の北緯34度52分秒東経133度42分1秒に円墳と思われるい丘があり、燈明用の石グロが有ります。そこの東側は桧の植林地になっており町指定史跡ぬくゆ古墳群の碑が立つ古墳が有ります。 ヌクユ・ぬくゆ・ヌクビ:豊野4253-4255・4259-4265・4282-4285・4288・4314・4316-4320・4322・4394番地 A Dizou Bodhisattva Hall is built on the south of 4238.Toyono-Nagate     If you go down along the mountain road toward the south from there, there is a small hill that seems to be a round burial mound at the south of abandoned house, and two statues of Djizou-bosatu/bodhisattva are enshrined on the hill    There is a road to the south on the east side, and if you go along the road, you will go out to Nkuyu-ike/pond via the Siro-no-tuji ”castle's street”  On the way, the road turns toward the west southwest and it turns toward the south again, you will find a hill that seem to be a round burial mound at  34 degrees 52 minutes seconds north latitude and 133 degrees 42 minutes 1 second east latitude in Siro-no-tuji   On the east side of it is a forest planting area of cypress, and there is an ancient burial mound with a guide pillar that is written [town designations, historic sites, and Nukiyu-kofun groups ”ancient tombs” in the forest 平成29年(2017年)6月1日

  

豊野 ヌクユ池北岸の古墳 Ancient tomb in the northern shore of Nukuyu-ike

尾原賀陽線(369号線)豊野長手4238番地の真南に地蔵菩薩堂が立っています。そこより南に山道を下るとヌクユ池が有ります。その東北の道向かい北緯34525秒・東経133420.11に円墳があり その東側斜面に小さな石が祀られ 灯明用の石畝の釜が有ります。 The Dizou-dou “Diou Bodhisattva Hall” is built  just south of 4238 Toyono-Nagato 4238 along Obara-Kayou line   If you go down along the road toward the south, you will reach Nukuyu-ike/pond  There is a circular ancient tomb mound across the road in the north east  There is a chamber made by stone arrangement for lighting    平成29年(2017年)5月12日

 

豊野 ヌクユ古墳の地藏菩薩 Dizou-bosatu on Nukuyu ancient tomb

尾原賀陽線(369号線)豊野長手4238番地の真南に地蔵菩薩堂が建っています。そこより南に山道を下ると廃屋の南 北緯34度52分8秒東経133度41分58秒に円墳の小さい丘があり刻字のない地蔵が2尊祀られています。この丘の反対側には燈明用の石グロ(石組で作られた小さい室)が有ります。 A Didou-bosatu-dou “竹荘八十八所霊場巡礼16番札所” is built on the just south of 4238 Toyono-Nagate    If you go down the mountain path to the south, there is a small hill of circular burial mounds at 34 degrees 52 minutes 8 seconds where is the south of the abandoned house and two statues of Dizou-bosatu/bodhisattva is enshrined   A little chamber for light made with arranged stones is dedicated on the other side of the hill     平成29年(2017年)5月12日 

 

豊野 大黒山古墳 Daikoku-yama ancient tomb

東豊野神社から尾原賀陽線(369号線)を北上すると豊野早瀬4144番地に出ます。その西が竹藪になっているので細道を竹藪の北に回り込むと 豊野松ノ元2189番地が右手にあり 少し進むと 左手に墓場が有ります。墓場の北西 2189番地の南西 北緯34度52分35秒東経133度42分5秒の山が大黒山です。尾根の端の高い部分に径5m程 高さ4m程の円墳があり、横穴式石棺の一部が西側に露出しています。頂点に石碑状の岩が立ち、頂点のの周りに石積みがあります。70m程登るともう一つの径7m程 の高さ50㎝程のの円墳があり、頂上に2個の石が露出しており、近くに何か祀ってあったらしい石組みの台座があります。  平成28年(2016年)9月16日

 

豊野 下市大塚古墳 Ootuka ancient tommb in Simoiti

町立豊野小学校と町立豊野保育園に 挟まれる道を北に登りT字路を右に曲がると 直ぐに道は 北に向かうので 道なりに進むと 豊野塚原300番地に 向かう誘導道が有り、その途中の右側 北緯34度52分5秒東経133度41分47秒に下市大塚古墳が見つかります。

この古墳から北に観音池に向かって進むと、観音池の手前で 東豊野神社から向かってきた道と 立体交差します。東豊野神社から向かう道に入り、南西に下市公会堂に向かって進むと 公会堂の手前で 十字路を形成するので 北に向かうと 道標が有り「右備前湯 左有漢」と刻まれています。その辺りに 豊野516番地が有るので その南の小道を西に進むと 豊野高下500番地の竹藪になっている裏山に出ます。その山の中 北緯34度52分7秒東経133度41分36秒に崩れた古墳が有ります。村人は「子供の頃には 周辺に30基程の古墳があって 毎年正月や盆に 灯明するのに苦労した。現在でも 20基位残っていると思う」と語りました。   塚原:豊野298・300・301・309・316・324・325・327・333・334・358-365・368・374・379・382-385・392-395・397・398・401・449・450・452・463・464・467-48・8491-494・496・497・501・502・510-515・539-542・545-569・574・575・578・579・581・582・585-595・638-644・653番地 高下塚原:豊野310・378・389番地番地 塚原道ノ下:豊野323番地 町ノ上塚原:豊野394番地 塚原開:豊野396番地 塚原新開:豊野500番地 觀音堂・観音堂:豊野544・597・612-614・5336-5343・5361-5363番地 塚原後:豊野630-632・635-637番地  平成28年(2016年)9月16日

 

西 原下古墳(柚子の木塚) Harasimo-Ancient tomb

大和郵便局から総社賀陽線(57号線)が北西から北東に曲がる交差点から北東に100m程進むと 西竹之下287番地の西から  鋭い角度を持つ分岐が 北側にあります。分岐を390m程進むと西矢城子165番地の東から 北に向う分岐大和小学校の北 約100m)があります。北に100m程進むと 常夜燈が 右手に立ち 左手に 稲荷神社が建ちます。そこから西に 10m程進むと 北に向き 田の畔に向う分岐があるので 畦道を60m程進むと 総社賀陽線沿いの西岡田92番地付近から 溝に沿 北北西に登る 山道と 三叉路を作ります。北北西に山道を30m程進むと 墓場があるので 更に20m程進むと 右手前に向く分岐があります。分岐を進むと 暫くして コンクリート製のU字溝西岡田92番地付近から登るがあります。溝に沿い 右上を見ると 原下古墳(柚の木塚) 北緯344745東経1334116秒に見つかります。南に開口する横穴式石室で 墳丘は少しばかり残り 天井石2枚は 露出しており、羨道 壊されています。奥壁の上部の石が 一枚無くなっています。側壁は 持ち送りがなく 奥壁は面が揃えられていて 四角い巨石の上に 平石が乗っています。後側壁は 残りますが 上部の石が無くなり 開口しています。 石室残存長さ3.6m、幅1.5m、高さ1.6mとされます。 令和5年(2023年)1月20日

 

湯山 天王山の古墳 Ancient tombu on Mt.Tennnou-yama

龍角山清水寺Ryuukakusan-Seisui-jiの天王山 北緯34度51分2秒東経135度43分26秒に古代信仰遺跡があります。清水寺前の竹藪takeyabuに向かう小道を 天王山の案内標札に 従い250m程進み、左手の急勾配を 滑らないよう注意し 山頂に辿り着くと 遺跡が 見られます。南側に古墳時代末期の 古墳があります。平成23年(2011年)10月5日

 

湯山 大岩の古墳 Ancient tomb in Ooiwa

484号線添いの湯山平ヶ市2032番地や 大岩公会堂の北で 吉川川を渡り、北西に約90m 登りカミヤ1876番地の北の急カーブを廻り 南西から西南西に約500m登ると 三叉路になるので 右に急カーブし  暫く北に進み 右側に特徴ある石がある先から北に 山道に入り 左右に岩がある場所を通り抜け 山の頂上をやり過ごして 下り道を進み右手(東側)に散乱する岩を 探しながら進むと 北緯34度50分53秒東経133度44分26.秒に 大岩の古墳が有るそうです。 大きさ幅10m高さ1m程。円墳ですが封土は無く天井岩が露出しているそうです。室には土砂が堆積していてその大きさは長さ約5m 幅約1m 高さは 約70cmだそうです。古墳時代後期のものと推定されてます。 「塚の本古墳(吉備中央町湯山大岩) - YouTube」に従い 探索しましたが見つかりませんでした。再調査します。T令和5年(2023年)2月17日

 

 湯山 大畑二日原の古墳Ancient tombs in Daibatake-Hutuka-hara

 高梁御津線(31号線)総社賀陽線(57号線)が 出合う 川合橋上竹荘郵便局川合神社の北東〕から 東に 高梁御津線に沿って 約330m程進むと 高梁御津線の北隣地の 湯山二日原1167-5番地 (北緯34度51分3秒・東経 133度45'分1秒)が あります。その家の裏山 (藤沢山)の麓に 円墳があります。湯山1167番地 は 空き家になり 朽ちかけています。

だい畑古墳(仮) - 古墳マップ (kofun.info)」によると 「県道脇の民家の方に聞くと、古墳は知らないが 家裏の石垣に 大きな石が有ると 案内して下さるのでついて行く。見ると 枝木が茂った石垣に 天井石が1石載っていた。隙間が 僅かに開いていますが、中は 埋まっているように見えます。石室の幅、高さは ほぼ情報通りの大きさです。墳頂は開墾で平らになっていて、天井石が1石露出しています。」と の事で 紹介文として 「南に 開口する横穴式石室も 入口は 石垣でほぼ塞がれている。封土は 開墾で削平され、天井石2石が 露出している。石室幅1.8m、高さ1mとされる。」と 記されています。  石垣の古墳については 著者が 探索すると 湯山1167-5番地の東隣家の石垣 北緯34度51分3秒東経133度45分4秒に それと 思われる石垣があり、その上の北隣地に 天井岩らしき岩が 露出していました。 令和5年(2023年)2月17日

 

吉川    藤田向山古墳 Ancient tomb in Hujita-Mukou-yama

藤田集落の北東部 吉川坂2572番地の西の山道を進み2572番地の北の墓地の北 北緯34度48分54秒東経133度44分18秒に石組みに石柱を立てた遺構が有ります。古墳であるされますが、比較的に新しく見えます。かつてここら辺りには宝篋印塔と多くの五輪塔が有ったそうです。道路拡幅工事等の理由でそこ等より藤田土橋の西の変則四差路の一番南の分岐を南に行き 直ぐ道なりに西に曲がった所の右手の墓場の東隣地 北緯34度48分56秒東経133度44分9秒に集めて移されました。この藤田の地で天正2年(1574年)備中兵乱の折り 伊賀毛利方)三村備中松山城方)が 激しく戦い 三村軍に多くの戦死者を出したとされるので、それらの兵の供養塔なのでしょう。付近に戦いに関りそうな地名が有ります。  If you go along the mountain path from 2572 Yosikawa-Saka to the north of the graveyard at 34 degrees 48 minutes 54 seconds north latitude and 133 degrees 44 minutes 18 seconds west longitude where is the north of 2572 Yosikawa- saka, you will find the remains of a stone pillar on pedestal made stone arrangement in the north of the graveyard    It is said It is an ancient tomb, but it looks relatively new    It is said that there were a Houkyouin-tou “pagoda for keeping the Buddhist scriptures and the memorial service” and Many  Gorin-tou “five-part gravestone for memorial service”     They were gathered and moved to 34 degrees 48 minutes 56 seconds north latitude and 133 degrees 44 minutes and 9 seconds east longitude where is the east neighboring land of the graveyard, for reasons such as road widening work If you go along the southernmost branch of four-way on the west of Hujita-tuti-basi/bridgh to the south short distance , and turn to the west along the path, you will find the graveyard on the right     Because it is said that Iga’s army “Mouri’s side” and Mimura’s army “Bityuu-Matuyama castle’s side” battled violently at Hujita during Bityuu-heiran/war in 1574, many soldiers of Mimura’s army who killed in the war, were reported, they are may a memorial tower for those soldier   There is a place name in the vicinity that seems to be involved in the battle., for example Kurami-zaka/slope     A legend is remained that Mimura army’s soldiers were chased by the Iga’s army and were deprived of their eyesight because they were too hungry on the slope    クラミ坂:吉川2493・2680番地等 備中兵乱の折り 三村方兵士が、伊賀軍に追われ空腹のため目が眩んだと伝説されます 倉見等の地名は陽の照り具合に関わる地名とされます 黒見の転訛であれば砂鉄が取れたのでしょう    鐙坂:吉川2267・2269・2308・2309番地 吉川八幡宮の黒山から遷宮の折り神馬の鐙あぶみが落ちたと伝説されます    釼持・剣持、堅物・ケンモツ・堅モツ:吉川1914・2052番地等 八幡宮の大祭の時 その地の鋒を迎えに行く途中の峠を鋒の乢(行寄乢:吉川3062番地 北緯34度49分9秒東経133度44分25秒)と呼びます この時の太刀持ちを剣持神と呼び その役の者が住んでいた地を 神屋 kamiya(紙屋・屋敷:吉川1885番地、北緯34度48分36秒東経133度44分38秒 紙屋池:北緯34度48分35秒東経133度44分35秒・カミヤの多くは金屋の転訛です)と呼ぶと伝説されます    鋒ノ乢:3062(北緯34度49分8秒東経133度44分21秒)・3065番地 供養塔があるとされます    剣持橋:北緯34度48分31秒東経133度44分20秒 藤田集落の南端の勝負坂:吉川2373・2563番地等 備中兵乱と関る可能性は否定できませんが、殆んどの勝負菖蒲地名はソブの転訛で砂鉄地名です    本陣山:吉川2387-2389番地  平成29年(2017年)3月19日

 

吉川 西庄田火の釜 Hi-no-kama in Nissyouda

西庄田集落の北の地域 吉川yosikawa中倉nakagura3734番地の南に有る岩群です。上古時代の古墳ですが、崩れかけ危険であると判断し、地主の方が 現在の形に変えました。この辺りを 大後と呼びます。黒山から 松原八幡神社を 現在の吉川八幡宮に奉遷の時、羽車haguruma(神輿の一種)の台を立て祀った所を 台後と呼びました。現在は大後と書くようになりました。近くに八幡神社の神馬を育てていた所があり、上厩uemari 下厩sitamariと呼んでいました。現在は上前 下前の屋号の名前として名を残しています。下厩の屋敷跡を 中倉屋敷と言い、吉川八幡宮の祭の時、中座に座る人達であったため上前 下前の者の一族の住む地域を 中倉と呼びます。  火の釜:西庄田大後 北緯34度49分32秒東経133度45分2秒 上厩 下厩(中倉屋敷)現在は西庄田の上前(北緯34度49分33秒東経133度45分3秒)下前(北緯34度49分32秒東経133度45分1秒)   吉川八幡神社:北緯34度49分11秒東経133度45分07秒 吉川苅尾3932番地   大後奥:吉川3416・3424番地等   門口:吉川3526番地(橋の元:3527番地 北緯34度49分23秒133度44分59秒)門大後:吉川3510-3513番地 神主:吉川3539・3567(北緯34度49分27秒東経133度44分57秒)・3606番地等 西庄田:吉川3557・3702番地等 神主乢:吉川3582番地 山ノ神:吉川3583・3623番地等 中倉:吉川3622・3749番地等 神ノ木ハナ・ハナ:吉川3697・3715番地等 若宮:吉川3720番地 塚ノ元:吉川3726・3741番地等 中倉藪後:吉川3745・3749番地  平成26年(2014年)8月8日

 

吉川 千木の伊賀主計大明神 Iga-syukei-daimyoujin in Sengi

千木集落の西端、そね池の北 吉川yosikawa奥oku7170番地の西の林の中の守奥に有ります。古墳(火の釜)で、石の下に金製の剣や器、宝塔等の宝物が埋められていると言われます。昭和の初め頃、「宝物を掘り出そうとすると、異常な数の烏が 集まって来て、不吉な鳴き方をし続けたので、恐ろしくなり、発掘を中止した」と言い伝えられます。大岩が 乱雑に並んでおり、古墳を感じさせる状態ではありません。奥側にも 巨岩が2個と 数個の小岩が有ります。伊賀家の守り神として祀られています。    主計:主計寮Syukei-ryou/Kazue-no-tukasaは 令制の民部省に属した機関で、税収(特に調)を把握し監査する事務所です 主計局は日本の旧大蔵省の内部部局の一部門で、主計官とは日本財務省の主計局の役職、或いは日本海上保安官で総務 経理補 船舶衛生等を職務とする職員で、主計科とは軍隊の経理 被服 烹炊等を担当する兵課を言います  主計は江戸時代の武士によく付けられた名ですが、会計と関わりなく付けられたようです   吉川7170番地:千木 北緯34度50分9秒東経133度44分52秒 伊賀主計大明神:千木 北緯34度50分10秒東経133度44分51秒 曽根・曽祢:吉川7065・7188番地等 薬師堂:吉川7120-7122番地 奥:吉川7159・7174番地等 池ノ奥:吉川7180-7186番地 狸岩:吉川7187・7301番地等 ノロ:吉川7204-7206番地    平成26年(2014年)8月9日

 

吉川 樟塚古墳 Kusunoki-duka sancient tomb

千木集落の祇園宮の南の道を 西に進み、金福寺の西を北に進むと 吉川前7106番地の東のT字路の手前に古墳有ります。かつて楠の木の大木が 生えていましたが、現在は枯れて 跡形も有りません。円墳でしたが 開発され 約半分が削り取られています。ここに 薬師堂 迫荒神社等 数社が建っていましたが、現在の薬師堂に移されています。    千木祇園社:北緯34度50分29秒東経133度44分44秒    仙久山金福寺:北緯34度50分1秒東経133度44分55秒       樟塚古墳:北緯34度50分7秒東経133度44分59秒    薬師堂:北緯34度50分7秒東経133度44分52秒 前:吉川7087-7089・7091・7092・7099・7105-7108・7131・7133・7135・7137・7139・7222番地  平成26年(2014年)8月9日

 

吉川 高塚古墳 Taka-tuka ancient tomb 

吉川八幡宮の北東側の県道の道向にある忠霊社の奥の丘の頂北緯34度49分15秒・東経 133度45分10秒に 高塚古墳があります。前方部を北東に向ける帆立貝式の前方後円墳で 後円部径26m 高さ5m 前方部長さ10~12mのホタテ貝式古墳で、周溝が残存しますが不明確です。古墳からは、鏡1枚 勾玉3個 小玉と丸玉多数 祝部土器埴輪が2個が出土埴輪は近くにある吉川歴史民俗資料館に保存されています。案内板には「高塚古墳  年代 古墳時代後期  形式 帆立貝式 古墳時代後期(一四00年位前)のものである  吉備高原北部に位置する古墳としては有数の大型墳であり、横穴式石室を有するものと想像される。形式は帆立貝式で南面しており、北側は帆立貝の縁を半円形に引きまわしている  明治末年の頃、神獣鏡と埴輪が出土したといわれる  伝説によれば、大吉備津彦命鬼の城にいる温羅を 鎮圧された時、その臣として活躍した吉川の人物楽々森彦という人物を葬っているという説もある」と示されています。楽々森彦命:岩を穿ちて水を出す龍泉寺の龍王池神通力を持ち、一日に百里を走る(温羅と吉備津彦の会戦を知ると一日で丹後から吉備に走り着いた)健脚の持ち主とされます。備中史によると「楽楽森彦(サル)は大井(足守)吉川の豪族で、恩羅と吉備津彦の激戦に怖気付いた遺霊彦留玉臣 キジ)が  鼓山から高田(鼓神社)に敵前逃亡を試みた時、吉備津彦(五十狭芹彦 モモタロウ)の命を受け、大井に食い止め 温羅戦の最前線に送った」とされる豪傑です。    刈尾:吉川3924・3925・3930.・3931・3935-3937番地    苅尾:吉川3932・番地 宮ノ前:吉川3933・3934番地  平成27年(2015年)11月28日

 

吉川 犬塚古墳 Inu-duka ancient tomb

吉川八幡宮の北のY字路に囲まれた地が 吉川松山4036-2番地で、その家の北側に犬塚古墳が あります。近くの忠霊社の東の高台に 高塚古墳があります。吉備津彦命(モモタロウ)の家来に 楽々森彦命(サル)留霊臣命(キジ)犬飼健(イヌ)が居りますが、犬飼健の墓ではありません。   松山:吉川4024・4029・4430・4033・4035-4039番地   平成29年(2017年)3月10日

 

吉川 丸山火の釜古墳 Maruyama-Hi-no-kama  ancient  tomb 

吉備中央公園から 西に延びる道と吉川槇谷線(307号線)との交叉点から 北に吉川槇谷線を150m程進むと、左手に橋の供養塔(舟形地蔵菩薩像)が 立っています。北西に向かう分岐があるので 沢を渡り 60m程進むと 角度の大きいY字路があります。東(右)の道を進むと90m程で 吉川丸山4936番地に 着きます。その南の畑の西側 北緯34度49分52秒東経133度45分8秒に幅約1.5m 高さ80㎝程の土の高まりが あります。頂に家形の石祠が 祀られていますが 古墳であるかどうか分りません。

元に戻って 沢を渡って吉川4936番地に向う途中の左手の法面 北緯34度49分52秒東経133度45分8秒 南北に細長い石室約2m50㎝×1m弱の封土を失った古墳時代後期のものと思われる 古墳が見つかります。天井石2石と側壁の一部が露出しています。丸山火の釜古墳 - 吉備中央町 (fc2.com)」「吉備中央町 - 1ページ目20 - 岡山の古墳を訪ねて (fc2.com)」「丸山火の釜古墳 | 日本ロマン100年 古墳 (gicz.tokyo 令和5年(2023年)1月10日

 

吉川 千木古墳 Ancient tombs in Sengi

吉川千木集落に「金福寺」が 建ちます。金福寺の引き込み口から北西に に50m程進み  み千木公会堂の引き込み道から北に約100m進むとY字路になるにで 西に60m程進み 更に北から北東に150m程進むと 左手に石垣が見えます。石垣の西 北緯34度50分7秒東経133度44分58秒に 半分程 削り取られた 径1.5m 高さ80㎝程の塚が あります。その塚の北に 削られた塚より やや大きい塚が あります。吉川前7106番地の北東、川水野御女7061番地の南西に当たります。 令和5年(2023年)1月10日