竹部    本堂の策略  trick at Hondou in Kamigamogassen battle


天正8年(1580年)4月  毛利尖鋭軍 約3万余が 妙本寺や 竹荘の陣屋を 引き払い 藤沢城へ移り、虎倉城に 総攻撃する動きを 見せました。迎え撃つ 虎倉方は 百姓を交えた 俄かNiwaka軍 およそ 1万6千で、一気に 踏む潰される状況でした。虎倉城は 主家 宇喜多直家の援軍が期待されないと 判断した 伊賀久隆は 領内の全ての小城も 民家も 捨て 兵も 住民も 虎倉に移し、点在する小城を 無血開城する事で  虎倉軍の戦意は 低いと 思わせ、慢心し 油断し 密集した毛利軍に ゲリラ戦を 挑もうと 計画しました 。この作戦に 住民は反対する者は無く、続々と  虎倉に集まりました。すると4月13日に 毛利軍は 藤沢城を発ち 下加茂から虎倉に兵を 進めようとしましたが、大変な 霧に惑わされ 上加茂 に出てしまい、止む無く 清経山に陣を 張りました。霧により制限された視野の中、地の利の無い毛利軍は 加茂崩れと言う大敗をし、下土井勝山に 城を 築き 安芸国に 帰る準備をしました。「上加茂原の村人のより口伝」「賀陽町史追補版」  この上加茂合戦の直前 伊賀久隆は 何かの理由があって 夜遅くなり、虎倉に 帰れなくなりました。止む無く 清経の農家2軒に 頼み、宿を乞うと 農家は 快く宿泊させてくれました。この農家を「借り屋」と 呼びました。又 仮屋と も 呼び、鴨神社が 大明神屋敷から 麓に下ろされた時の 仮の社を 祀った所ともされます。「竹部坂元付近の村人もより口伝」  伊賀一族は 長田庄の地頭(荘園の管理の役職)として 赴任してきました。戦国時代に入り 荘園と 豪族の対立が 生まれると、伊賀久隆は 神社 寺院を 保護し、民衆の心を掴み(つかみ)ました kibi2011.blog81.fc2.com/」「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-category-2.htmlkibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-94.html」「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-category-1.htmlkibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-5.html

 上加茂合戦の折り、法華宗の寺院の重友山法福寺本堂を 焼き 虎倉軍の本隊が 竹部に 居るように見せかけ、毛利軍を 惑わせる事に 成功し 毛利軍の加茂崩れの要因となりました。

焼け跡の輪塔 宝篋印塔等は 竹部の人達が 持ち帰り それぞれに 祀りました。寺院の有った辺りの小字名は 本堂です。

現在、法福寺は上野に移っています。「竹部坂元の村人のより口伝」

天正8年(1580年)4月 毛利軍約3万が 竹荘の陣屋を 引き払い、粟屋与十郎の守る 藤沢城へ移り 虎倉城に 今にも 総攻撃する動きを 見せました。迎え撃つ虎倉方は、大方は 農民兵およそ1万6千余で、一気に 踏む潰される状況でした。真っ向勝負では とても勝ち目がないのは 必定 領内の全ての小城も 民家も 捨て 兵も 住民も 虎倉に 移しました。この作戦に 住民は反対する者は 無く、続々と 虎倉に集まり始めました。4月11日天候は 雨で、時期に 似合わず 寒い日でした。農民達の不安が 気がかりで、伊賀久隆が 陣中を見回っている時、農兵達は 日頃の経験から「この分じゃぁ 数日は 物凄ぇMongee霧じゃ 朝方ぁ一寸先も 見えまいと話しているのを 聞きました。久隆は 日頃から神社 寺院の保護に 努めていたので、竹部に 復興させねばなるまいと 思っていた 荒れ果てた古寺が 有る事を 思い出しました。恐らく 数日中に 毛利軍が 藤沢城から 下加茂に向け 進軍を 開始するであろうとの斥侯Sekkouの報告を 受けると、急いで 毛利軍が引き払った 竹部に向い 鳴滝 鬼突Onituki坂元 等の法福寺の旧檀家を 集め「法福寺を 焼いて大騒ぎし、我が軍の本隊が 竹部に有ると 見せかけたい」と、依頼しました。村の者は 信心深い久隆の この信じ難い言葉に 大いに 驚き 反対しました。両者の話し合いは 夜近くまで続き「戦後 必ずや 復興する」と 久隆が 熱く語ると、以前より久隆に 絶対的な 信頼を持っていた住民は 納得し、燃やせる物は 何でも本堂の丘に 集め 虎倉からの指図を 待つ事にしました。急ぎ 虎倉に帰る久隆でしたが、立ち込める霧の中を 夜の山道を 進む訳には ゆかず、清経に差し掛かった時 止む無く農家に一夜の宿を 頼みました。頼られた栄光に 鴨神社氏子衆は 大喜びし 2軒の農家を 紹介しました。久隆は「この2軒を 今後、借り屋と呼び 後々迄の名誉とし 必ずや礼をする」と 約束しました。霧の薄まる12日、虎倉に 付いた久隆は 明日は 濃い霧が立つ事を 祈っていました。毛利軍は 霧が治まりかけたので、13日に 藤沢城を発つ決心をしていました。13日 薄霧の早朝 福山城 十力城を攻め僅かの抵抗で落とし、破竹hatikuの勢いの初戦勝利に 機嫌を良くし、意気揚々と 本体が 出陣すると、間もなく 霧は深まり 進軍は儘amaならず、戸惑い 戸惑い進む事に なりました。かつて虎倉方の老中役であった 河原六郎右衛門は 訳合って毛利配下に加わり 毛利軍の道案 内役をしており それなりに 正しい道を 案内していましたが、突然西の空が 明らむと「虎倉方は 遥かharuka遠い西に 陣取っている そこは 虎倉から 最短距離にある 上加茂に 違いない  そうであれば わが軍は下加茂の遥か東を 進んでいる事になる  だとすれば、西に 進路を 変える必要があるだろう  現在の場所 を村人に尋ねよう」と 軍議をしました。しかし どの民家を 訪ねても 人っ子一人いず、斥侯も 霧に惑わされ 現在位置を 確認できませんでした。頼る情報は 夥しObitadasiiい数であろう篝火Kagaribiの西の空の明かりだけでしたので、西に 進路を 変えました。すると 岩井谷に 出てしまいました。清経山の城の虎倉方は 虎倉に移動しており 蛻Monukeの殻でしたので、毛利軍は これを占拠し 本陣としました。地の利を 生かした虎倉方の諜報員は この様子を、各地に 張り巡らした 狼煙台Norosidaiを 通じ 虎倉に 知らせました。虎倉方は 野山Nosaanに 集結し 三宅坂に 兵 村民総出で 出向き、あらん限りの篝火を 焚き あらん限りの幟Nobori を山々に立て 一斉に気勢の声を上げました。突然の 思いもよらぬ 大軍の出現でしたが、圧倒的な兵力に 驕りOgori 田舎侍の力は いかなるものか見てやろう」と 毛利軍の兵は、直ぐ最近の辛川崩れを 味わった事を 忘れ 攻めかかろうと 霧の川を 渡り始めました。久隆の案の定 霧の中での地の利を 巧みに生かした地元の者達に とって 毛利軍は 敵ではなく、毛利軍は 加茂崩れとなり 散り散りに 逃走し、常江田城 鍋谷城 等に 逃げ込み 籠もりました。「賀陽町史追補版」「竹部坂元付近の村人もより口伝」「伊賀久隆の信仰」「竹部坂元の村人のより口伝」を基にした物語です。

本堂: 北緯34度49分8秒東経秒 竹部130-132番地 藤沢城跡:田土二熊 北緯34度51分40秒東経133度44分57秒    竹荘陣屋:恐らく鶴首山貞徳寺跡 北緯34度52分3秒東経133度41分24秒でしょう。 仮屋・借家:伊賀久隆の仮の宿の他に もう一つの伝説が あります。鴨神社が 大明神屋敷から下ろされた時の 仮の祀り場と いうものです。 仮屋:上加茂861・875(北緯34度50分54秒東経133度48分15秒・876(北緯34度50分55秒東経133度48分15秒・902番地等 具足山妙本寺・野山寺:常入道1501番地 北緯34度48分34秒東経133度42分16秒付近 備中兵乱の時も毛利軍は 本陣を敷きました。    倉城:岡山市北区御津虎倉 北緯34度50分10秒東経133度50分4秒    清経山城跡:上加茂 北緯34度51分1秒東経133度47分56秒    勝山城跡:下土井山端1632-1番地の北の丘 北緯34度52分40秒東経133度15分40秒 加茂崩れ:上加茂合戦の結果を 言います。毛利軍は 死者多数を出す中、伊賀方の犠牲者は1名であったとされます。 辛川崩れ:毛利軍12000と宇 喜多軍との 辛川口での戦いの 毛利軍大敗北の事です。辛川崩れした毛利軍は 南下した後、竹荘に 陣を張っていた部隊に 合流し 上加茂合戦に向かいました。 上野の重友山法福寺:上野重友423番地 北緯34度50分50秒東経133度46分55秒 何妙法蓮華経天尊上・日蓮上人三百五十周年記念文化・十年の石碑と燈明搭・五輪塔:田内橋を渡った竹部道ノ内328番地の投打川添い 北緯34度49分45秒東経133度47分5秒 日蓮上人坐像・南無妙法蓮華経の題目石碑・三池宮氏子講中の石碑・大山道の道標:中橋の南 竹部田元1491番地34度49分5949分5133度47分2247分22秒 南無妙法蓮華経の題目石碑・燈明搭・地神: 乗木山妙福寺の道向い、北側の茂みの中 北緯34度50分7秒・東経133度47分41秒 2基の宝篋印塔と3基の5輪塔:竹部坂元2784番地を 眼下に 北西に曲がり 暫く登ると、前方に 墓場が見える地点 で山道を 右に進むと 別の小さい墓場が有ります。小さい墓場を 迂回して上った所 北緯34度49分47秒東経133度46分48秒        平成.25年(2014年)4月10日)