円城 円城寺 深山大沢必出龍蛇 Dragon or snake "outstanding person"  appear inevitably ondeep mountain or great stream " outstanding place "


重岡神社社務所に岸田吟香鎮護蒼生」と 書かれた額が 掲げられています。円城寺に 岸田吟香の落書きが 有ります。鎮守提婆天護摩堂東側の白壁に 落書きされた「深山大沢必出龍蛇 Sinzan-daitaku Hitusyutu Ryuu-da」の 八字と 本堂の正面左側 二本目の欅柱に「男児立志出郷関若不成学死不帰」の 二行です。「加茂川町史」 深山大沢必出龍蛇」は 間違いなく岸田吟香の手によるものですが、「男児立志出郷関学不成学死不帰」は 前者と 筆遣いが異なるので 岸田吟香の落書きかどうかわかりません。後者は 良く拭き掃除されたので 現在では 読み取れない程 薄くなっています「提婆宮稚児行列指導者より口伝

 

岸田吟香 Kisida-Ginkou

岸田吟香の幼名は 辰大郎 名前は 岸田大郎Tarou 岸田大郎左衛門 岸田達蔵 岸田称子麻呂 岸田清原桜 岸田作良Sakura 岸田さくら 岸田まゝよ 岸田銀次 岸田銀次郎 墨江岸国華 墨江桜 墨江岸桜 岸国華 岸吟香 岸大郎 岸桜 小林屋銀次 岸田銀治 岸田屋銀治 京屋銀治郎 桜井銀治郎  等と 名乗りました。号は 岸田吟香 岸田東洋 岸田桜草、筆名は 岸田吟道人です。

『平田達次は「福沢津島の慎爾Sinjiの祖父が 親戚の垪和村Haga-muraに 帰郷中の岸田吟香を 訪ねました  同行した福沢の江川虎三に 吟香が〔お土産を差し上げたい〕と 申し出ました  江川は〔個人的に頂きたい物は有りませんが 氏神様の大国主神社宝前へ 奉納したいので 書を認めsitayameて下さい〕と お願いした所、吟香は快く引き受け 書いてくれた  揮毫Kikoubiは 明治30年の冬至の二日後でした」と 言っています』と言い伝えられます。 大国主神社は 明治43年 重岡神社に 合祀されました。「加茂川町史」

 

落書き graffiti.

円城寺の落書きは 鎮守提婆天護摩堂Daibaten-Gomadou東側の白壁に 書かれた「深山大沢必出龍蛇」の八字です。意味は「深い山や 大きな沢に 龍や 大蛇が住むように この自然豊かな地に 龍蛇Ryuudaのような大人物が 必ず現れる」で、「併和住」と 落款Rakkanが あります。もう一書あり、本堂の正面左側二本目の欅柱の「男児立志出郷関若不成学死不帰」の二行ですが、現在 肉眼で 確認できません。「男児立志出郷関学若不成学死不帰」と書きたかったのでしょう。意味は「男と言うからには、目的を達する志を 持って 故郷の境界を 越えて出て行くのであれば、もしも 学問を 究める事ができないなら 死ぬまで 努力し 目的達成するまで 故郷に 帰らない」です。2書は筆致が 異なるとされます。吟香は 十三 四才の頃、東京へ出る時、円城寺に 参詣したと言います。住職は「柱の落書は 志を持つ少年らしい文句で、筆跡も 若々しく、筆壁の書は 落款ある上、語意と 筆勢から 当時の吟香さんを 偲ばせる  しかし 悪戯(Itazura盛りの少年とは言え 貴重な文化財を 汚すとは、ましてや 両方が 本物の彼の書だとすれば、言語道断と 言えよう しかし 成功者であり、皆も 私も笑って 有り難がるので あるから 岸田吟香も 草葉の陰で 安堵を 感じているだろう」と 言っています。www.sanyonews.jp/kikaku/jisha_detail/175538/?rct=mairarelimestone.blue.coocan.jp/outdoor/iroiro/kamogawa/kamog1.htm」 

 

岸田吟香の業績 performances of Kisida-Ginkou

岸田吟香は 天保4年(1833年)4月8日久米北条郡中垪和村で 生まれ、父は 秀次郎、母は 小芳で5男3女の長男で、本名は銀次です。明治38年(1905年)6月7日に 没しました。上田西 新山福沢に 親戚が有りました。画家の岸田劉生Kisida-Ryuuseiは 吟香の四男で、五男の辰彌Tatuyaは 宝塚歌劇団の演出家で ラインダンスを 考案しました。吟香の主な業績は「ヘボンと共に、和英辞書の林集成 英和辞書の和訳英語聯Wayaku-Eigo-renの編集 印刷」「ジョセフ・ヒコこと 浜田彦蔵と 共に  日本初の邦字新聞を 海外に 発行」 汽船を 購入し「横浜から 東京間の定期航路運行開始」 宣教師ヘボンに 習い「目薬の精錡水の製造と 販売」 「バンリードと 共に「横浜新報のもしほ草創刊」 「海外ニュース執筆 編集 版下作成」「氷製造販売」「東京日々新聞の記者や 編集長」「台湾事変の日本初の従軍記者」「盲唖Mousa学校の訓育院の創設」「楽善堂薬舗設立 中国へ 支店進出し、日中友好」「広告の先覚」等 で、他に「清国誌」「薬事新報」「薬剤月報」等の書物が 有ります。旭川ダムの辺に 記念碑が建ちます。https://ja.wikipedia.org/wiki/岸田吟香」    江川虎三:調査中です 平田達次:旅の道連れ(ドイツ・ロマン派全集18 郵便馬車にゆられて旅行記集:前川道介、平田達次訳)の訳者と 同一人物でしょうか  正確には 平田達治で 前書の編集者です 垪和村:今の久米郡美咲町栃原Totihara 北緯34度57分1秒東経133度50分34秒 西垪和Nisi-Hagaは 北緯34度57分46秒東経133度50分9秒 東垪和は 北緯34度58分31秒東経133度50分48秒 中垪和は北緯34度58分38秒東経133度51分40秒    斉藤慎爾:朝鮮京城府(韓国ソウル市) 昭和14年(1939年)生まれの俳人 編集者 文芸評論家 山形大学文理学部国文科を 中退後 正和38年(1963年)に 深夜叢書社を 設立 昭和48年(1973年)に 季刊俳句の創刊、昭和58年(1983年)に 雷帝創刊のために 句作を再開し、平成22年(2010年)に ひばり伝 蒼穹流謫」で 芸術選奨文部科学大臣賞受賞、平成25年(2013年)に「周五郎伝 虚空巡礼」で「やまなし賞」を 受賞しました  多くの著書が 有り、サザエさん等 多くの本を 編集しています     岸田劉生:大正~昭和初期の洋画家で、代表作は「壺の上に林檎が載って在る」「麗子肖像(麗子五歳之像)」「麗子微笑」等です   岸田辰彌:東京市銀座生まれの宝塚歌劇団の演出家であり、オペラ歌手で 妻は 宝塚歌劇のスター  浦野まつほです  モンパリ(幕なしの16場、登場人物述べ数百人 上演時間1時間30分 大階段や ラインダンス等 宝塚歌劇スタイルの確立) カルメン等 多くの歌劇を作りました  岸田辰彌が 作詞した「うるわしの思い出モン・パリ」のレコードは 約10万枚と言う大ヒットでした     ジェームス・カーティス・ヘボン:米国長老派教会系医療伝道宣教師で ヘボン式ローマ字の創始者として有名です  幕末に訪日し、宣教師 デュアン・シモンズと共に 横浜の近代医学の基礎 を築き、その功績を 称えて 横浜市立大学医学部に 講堂「ヘボンホール」が あります  また、明治学院(現在の明治学院高等学校明治学院大学)を 創設し、初代総理に 就任しています。    浜田彦蔵濱田彦藏アメ彦Joseph Heco幕末の頃の通訳、貿易商で「新聞の父」と 愛称されました

精錡水:この頃の日本では 木造家屋の中で 炊事や 暖房に 火を用いたので、煙によって 目を 患う人 が多く、当時は 瞼に 軟膏を 塗る、或いは 薬水で 洗眼する 眼病治療が 主流でした  岸田吟香は、硫酸亜鉛が 主成分の液体目薬の処方を ヘボンより 授かり、東京の銀座に 楽善堂を 構え、日本最初の液体目薬を「精錡水」と 名付け 販売しました。明治時代の風俗を 盛り込んだ 錦絵広告や、新聞広告等で 巧みに宣伝し、液体目薬は 明治時代の主流製剤となりました     ユージン・バンリード:明治維新の頃、近代化が 推し進めると、農村部では 余剰労働力が 生まれました  横浜在住アメリカ商人ユージン・バンリードは 政府の許可や 旅券を受けないまま、1868年、約150人の日本人を ハワイの砂糖プランテーションへ、又40人をグアムへ「元年者Gannen-mono」と 言う労働者として 送りました  この出稼ぎ労働者達は 渡航地で 奴隷の如く扱われたため 国家の体面保持のため 明治政府が 救出しました  これを反省した政府は 北海道開拓を推進し、20年近く 海外移住を 許しませんでした  幕末の頃 文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡Musasi-no-kuni Tatibana-gun 生麦Namsamugi-mura(現・横浜市鶴見区生麦)で、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父である島津久光の行列に乱入した 騎馬のイギリス人を、供の藩士が殺傷した 生麦事件の現場を 見ていた バンリードは「英国では 貴賓者の列が通れば、馬から下り 敬礼し 見送るのに、日本の貴賓者の列を 乱した事は 英国人が 日本を 見下し軽蔑していたからで、成敗されて当然である」と の趣旨の発言をしています    旭川ダム:左岸・岡山市北区建部町鶴田 右岸 吉備中央町大字神瀬 北緯34度54分49秒東経133度51分23秒に有ります。

  

岸田銀香の書より上 better handwriting than by  Kisida-Ginkou

 昔 円城寺の裏の鎮守提婆天護摩堂東側の白壁に 落書きがありました。「深山大沢必出龍蛇と書かれ、併和住人」と 記されていました。時々 美咲村併和から 遊びに来る少年が いたので、住職は 少年を呼び付け「この悪戯きは お前が書いたんか」と 尋ねると、少年は 堂々と「じゃ  それがどうじゃと言うん」と 答えました。住職は「この寺は 由緒正しい寺じゃ  文化財を 汚損するたぁ 何事じゃ  文化財じゃぁのうても 他人の物に  落書きしちゃぁおえん事位の分別は 有ろう  綺麗に消されぇ」と 叱りました。少年は「糞坊主ぅ  俺は 死ぬ気になって龍に なるつもりじゃ  その覚悟を 是婆宮 に誓うたんじゃ 俺の誓約文じゃ  大物になるまで消すもんか」と 口答えするのです。住職は 肝の座った少年に 逸材である素質を 見抜きました。そう思い 落書きをじっくり見ると、大きく書かれた文字に 若者らしい勢いがあり 名書に見えて来たのです。住職は「解った  書かれた文字の意味も良ぇ  消さんでおこう  龍に成りに 旅立つ前にゃぁ 挨拶に来るんじゃぞ  本尊の千手菩薩に 龍になる梃子Tegoぅ頼んでやる  わしが 居らなんだら 手紙でも 置いとかれぇ」と 言 って赦してやりました。すると その少年は  暫くして寺を訪ねましたが 住職が留守にしていたので 本堂に 決意を記し 東京へ 旅立ちました。次の日に 他の少年が 落書きをしました。書き主が 書かれておらず 犯人が 解りませんでした。住職は 子供等に「誰が書いたんかのう 自首せられぇ」と 言いましたが、誰も 肝が座っていないので 名乗る者は 居なかったのです。すると 寺の大檀那Dai-Dannaが「そこの落書きは 岸田銀治が書いた  なかなかの書の上、正直 に名乗り出たので 褒めてもらえ 赦してもらえたぞ  この落書きは もそっと その上じゃのう  名乗り出れば 褒美にこの菓子をやろう」と 言うと、悪たれ坊主が「俺が書いた  褒めてくれぇ  菓子をくれえ」と 名乗り出ました。大旦那は「なかなかの正直者じゃ  菓子はやる   じゃが後で和尚の有り難い お説教が有ろう  肝を据えて 待ちねぇ」と 言いました。住職は「馬鹿垂れぇ  岸田より下手さ加減Hetasa-kagenが 上じゃと言うたんじゃ」と 言って、厳しくし 諭しましたとさ。「岸田吟香の落書き」を 基にしたj冗談物語  城寺吟香の落書き:提婆宮 北緯34度53分33秒東経 133度48分24秒    岸田吟香記念館:久米郡美咲町西川1001-7番地に 建ちます  入城料金は無料で定休日は第3日曜日 毎 週月曜日 祝日 月末 年末年始です JR津山線福渡駅 さくらバス久世駅行きで40分 西川下車徒歩3分 中国自動車道院庄ICより車で30 分です  問い合わせは電話番号(0867)27-9012 北緯34度58分6秒東経133度49分37秒で 旭町総合支所の近く        平成24年(2012年)2月16日