竹部 足守藩処刑場 Execution site of Asimorihan domain


竹部村 上野村は かつては足守藩の領土でした。足守藩は 豊臣秀吉の正室の「ねね」の兄か弟の杉原家定が木下姓を 名の入り後 慶長6年(1601年)に 徳川家康より2万5千石の領地を頂き 足守藩を 興しました。寛政12年(1800年)に 幕府から 村替えを 命ぜられ、翌年 木下勝俊は 所領を取り上げられ 竹部村等は 天領となりました。大阪の陣で 功績のあった 勝俊の弟 利房が 足守藩を7年後に再興し、廃藩置県する迄 存続しました。https://ja.wikipedia.org/wiki/足守藩 その藩内の極悪人の処刑場が、竹部村内の山奥に 有ったと言われます。この処刑場が どのような役割を果たしたか 定かで有りません。江戸に おける小塚原Kozukahara/Kozukappara処刑場のような 役目だったのでしょう。「町役場職員である村人より口伝」

足守藩処刑場跡:72号線の吉備中央町岡山市北区の境 北区掛畑1596-1に 産業廃棄物処理業サンビルドの処理場があります。ここから 72号線を  超えた 広面34度49分1049分10秒・東経133度47分59秒の低い山に 足守藩処刑場跡が あります。廃棄物処理場までが 処刑場だった可能性があります。    木下㒶定Kinosita-Kinsadaと 桑華蒙求Soukamoukyuu:文化財保護委員の植木克己は「竹部の天神社に 木箱に納められた 桑華蒙求と 言う藩校の教科書が 奉納してある」と 言います。表書きは「桑華蒙求 壱部参冊備中国上房郡竹部天満宮蔵書」、裏書に「天神社の祭神菅原道真公を 尊祟し、自作の桑華蒙求の書籍を 妙福寺の寺僧を 使いにして奉納する。足守県主 峯豊子㒶定Aoi-Houhou-Kinsada享保二年」と あるそうです。足守藩第六代藩主 木下㒶定です。豊氏は 豊臣姓を意識して 使われたのであろうと されます。    江戸時代の処刑:江戸時代の死刑は 罪の重さで 幾つかの方法がありました。武士は 切腹 死罪 斬罪であり、庶民には Harituke 火罪 死罪 下手人です。死罪 下手人 斬罪は 首切りの刑です。死罪と 下手人は 牢屋敷内で処刑され、斬罪は 野外で 執行されます。下手人は 首切りで 終わり、死体は 引き取り手があれば 引き取れます。死罪は 首切りの後、刀の試し切りにされ 死体は 刑場に 埋められました。斬罪も 野外の処刑場に 首を晒さsarasaれ 死体は その近くに 埋められますした。磔は 磔刑Takkeiと呼び、市中引き回しの上、十字架に 縛り付けられ  左右から 槍で突き、遺体は 処刑場に 埋められました。火罪とは 火焙りHiaburiの刑で 主人殺し 等した重罪の者が 受け、焼けた 遺体を 犬やカラスの餌にしました。残酷な死刑としては 鋸挽Nokobiki刑で 両肩を切り、鋸を 付けて 野外に晒しその後 首だけ出して 埋め通行人に 自由に挽かHikaせ、最後は 市中引き回しの後 磔刑にしました。野外での首切りは 獄門と呼び、晒し首にしました。足守藩の処刑場は 斬罪や 獄門目的の施設だったのでしょう。大抵の犯罪は 5人組が私刑Rinntiし 5人組が 手に負えないものだけが 御上Okamiに 通報され、公の刑罰を 受けたので 江戸時代には 裁判は 殆ど有りませんでした。そのため 5人組の手におえない 重罪犯を 減らすため 惨い見せしめに したのです。江戸中期以降、太平の時代になると、処刑は 残酷にと エスカレートしました。釜煎Kamairi 釜茹 牛裂 車裂 簀巻Sumaki 等が 登場しました。https://ja.wikipedia.org/wiki/死罪_(江戸時代)」「wheatbaku.exblog.jp/23705837/

 

山田朝右衛門 Asauemon Yamada

山田朝右衛門と 言う獄門の処刑人がいました。皮一枚を 残し 一刀の元に 首を切り落とし、切り落とした首を 抱えるように 死体を 崩れさせる首切りの名人でした。臍Hesoに 挨拶Aisatuして死に、苦しみが なく 死後も 人のためになる と牢番 に聞かされるので、処刑される者は 山田朝右衛門に 切って貰う事を 望んだのです。彼のこの業を「首抱き」と 言いました。山田朝右衛門の本職は 獄門で 処刑された遺体を使い、刀の試し切りをする事だったのです。ところがこの男は 遺体から 肝臓を取り出し 乾燥させ「人胆丸 」を 作り販売し、大名程の力と 財を成しました。 「大江戸下遺構―人斬り浅右衛門の時代・氏家幹人著・平凡社新書」「https://ja.wikipedia.org/wiki/山田浅右衛門」 山田朝右衛門は 8代迄、継がれました。代々の朝右衛門は 処刑の有った夜は 血に酔って 不快感を覚え、大酒を 飲んだそうです。人々は 朝右衛門の気持ちを 察せず、死刑者の怨霊に 取り憑かtukaれたと 悪評を立てたそうです。人胆丸は 山田丸 浅右衛門丸Asaemon-gann 仁胆 浅山丸とも 呼びました。胆石や 胃潰瘍激痛 等の激痛や 肺疾患の効果があり、鎮静作用があると されました。製造、販売は 山田朝右衛門だけに 許可され 侍社会に 販売され、巨万の富を 蓄えました。又、死刑囚の小指を 娼婦に 販売しました。娼婦は その小指を 馴染Najimiの客に 愛の証しとして 使ったようです。もう一つの副業は 刀の鑑定でした。https://ja.wikipedia.org/wiki/山田浅右衛門」「www.uraken.net/rekishi/reki-nihon012.html」    人胆丸の販売とは 物凄い話ではあります。しかし、当時は 法令上  宗教上の理由で 獣肉を 食べる習慣はなかったので、イモリ 等の黒焼き 等 と同様に 良質の蛋白源として、また 脂溶性ビタミンの補助食品として 著効があったたでしょう。禁断の獣肉を 食べさせ 治療する 医者や 祈祷師Kitousiも いたようです。岡山藩は狐Kituneや 嘴太鷹を 薬として 加茂川の庄屋に 注文しています。明治3年(1870年)明治政府は 人肝 人脳髄 人陰茎の密売を 禁止しましたが、闇売買が 流行ったと 言われます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/カニバリズム」「加茂川町史」

 平成24年(2012年)5月6日