三納谷 難波立達 Nannba-Rittatu

 三納谷Minoutaniの浅太郎が 難波立達の治療を 受けましたが 死亡しました。難波立達の元に、浅太郎の子供 親類 株内(古くからの血縁者) 判頭Hangasira (5人組や10人組の頭) 名主(名田すなわち荘園公領の経営を請け負う村役人)2名の連判で 手紙が 届きました。内容は「津高郡三納谷村の浅太郎が 長期間 治り 難い病気を 患い困っていたので、その旨を お伝えしたら、治療を お引き受け下さり感謝します  万一 治療中に 病死したとしても、その覚悟が できていますので、本人は 元より浅太郎の家の者も 親類の者も 株内の者も 誰も 先生の責任を 問いません  なお、大変に 貧乏をしております事を考慮して頂き、重々 感謝します  後日のため 一札差し上げます  天保6年(1835年)末5月」と 有りました。「加茂川町史」     難波抱節Nanba-Housetu(寛政3年:17691年~安政6年:1859年)は 立達と名乗っています。名を 立愿Rituganと言い、諱Imina(目上の者から呼ばれる名前)は 経恭Tuneyasuと言い、抱節と 号していました。江戸後期の漢方 蘭法を 使い分けた医師です。備前藩家老 日置氏Heki-ujiの侍医 難波経寛(この人も 立達と名乗っています)の養子です。賀川蘭斎Kagawa-Ransaiに 産科を、吉益南涯Yosimasu-Nangaに 内科を学び、華岡青洲Hanaoka-seisyuuに 外科を学びました。侍医Jiiを しながら 備前藩金川村で 開業していました。曼陀羅華Mandara-ge(チョウセンアサガオ)が 主剤の麻酔薬を用い、乳癌や 脱疽Dasso(壊疽:組織が血栓等で死ぬ病気)等の手術をしました。嘉永3年(1850年)緒方洪庵Ogata-Kouanから 牛痘苗Gyuutou-byouを貰い、3千余人に 接種しました。コレラの治療中に コレラ菌に感染し 死亡しました。著書には「胎産新書」「散花新書」等が 有ります。難波立達経直が 抱節の跡を継ぎました。「加茂川町史」 北緯34度47分55秒東経133度55分51秒に建つ 金川龍華山.妙覚寺の側の 七曲神社鳥居の側の 石灯籠に「難波立達田使経寛 文化11年(1814年)献灯」とあ ります。加茂川町史」 渡辺恭平(1842年~1886年)と言う 高名な鳥取藩 医学寮教官は 難波立達に学んだと言われます。浅太郎を 治療した医師は、年代から 推測して 渡辺恭平に 教授した立達でしょうか


 江戸時代の町医者官医 儒医Jyu-i 幕医 藩医の非開業を除く)は 成りたい人は 誰で 成れましたし、診察料も 勝手に決めて良かったのです。だから町医者の技量は まちまちです。外科 内科 口科 産婦人科 針科 児科が あったそうです。医術に 宗教も 関わって神頼み、お札頼みの者もいました。富む者から多く取り、経済力に応じ 診療費を決める者もいましたが、多くは定料金制の者で、稀にぼったくりの威者Isyaもいました。診察方法は 問診(聞き取り) 触診(脈取り 圧迫等体に触れる) 望診(顔や舌や皮膚や結膜等の色や状態 挙動 行動の観察) 聴診(鼓動音や呼吸音の観察) 排泄物や体臭の観察 手足看法(手足の浮腫みや腫れ) 按診Ansin(臓器の部分を押して内臓の沈殿や動きを観察) 候旨(背骨の曲がりや肉付きや片寄(かたより)の観察)でした。内科等の治療は 薬種問屋の売薬を 用いる事もありますが、医者が 病状に応じ独自に 調合して 処方しました。煎じ薬や 貼り薬や 塗り薬が 主流でしたので、殆どの伝染病に対しては 無力でした。簡単な 怪我や 病気であれば 民衆は 昔からの言い伝えに頼り、民間療法として 自生薬草等で 治療しました。町医者の平均的な 診察料は 1分~2分、薬代が3日分で 約1分、7日分で 約2分、往診の初回は1分2朱、2回目から 1分に加えて 駕籠代であったと 言われます。医者は 武士では無いのですが、苗字を 名乗っても良く 刀を持ち歩いても良かった、いわゆる苗字帯刀の身分でした。悪事を 働き入牢しても 武士扱いされ、揚屋Ageya(遊女を招いて遊興させる家)に 収容されました。戦国の世 合戦場には 多くの医師が 狩り出されましたが、多くは 坊主頭をしていました。戦闘員でない事を示すために 剃髪Teihatu(坊主頭にする)したのでしょう。僧侶の形Nariをする事も、聖人の印象を与えるのに 好都合だったようです。kenkaku.la.coocan.jp/zidai/isya.htm」        平成25年(2013年)3月23日