富永 大王    龍王谷の龍大王の怒り anger of dragon-king lived in Ryuuou-dani valley


昔、昔、富永大王Taiouの龍王谷の龍王宮には 龍の大王が 住んでいました。天正2年の備中兵乱の後、地元の伊賀久隆は 同盟国であった安芸国の毛利輝元と 袂を分かち、織田方に付くと 天正8年(1580年)4月に 毛利軍が 攻めてきまし。 藤沢城から 加茂市場に向かう 毛利の大軍は 擦れ合う鎧の金気の音や、馬の蹄の音を響かせ 進軍しま した。金気や騒音を嫌う龍神は その物々しい不快さに 怒りました。怒りの炎は付近の川に霧を起こし、村中を霧の海にしました。それでも久隆の虎倉城の出城 鍋谷城 常江田城 福山城 等には 兵も民もなく、無血で占領できたので 気分よく 進軍していました。ところが 道案内をしていた 元 鍋谷城主の河原六郎右衛門は 霧の海に 道を誤り 毛利軍は上加茂に 導いてしまいました。止む無く兵が一人もいない清経城を占領し 戦いに挑みました。 地の利のある 久隆軍の弓矢 鉄炮の攻撃に 堪らず 総崩れ加茂崩れしました。敗北した毛利軍は  龍王谷の近くの船山城に退却、富永城勝山城を 築き 反撃を試みました。富永城は 龍王の滝の隣地でしたので 金属の擦れ合う音に 大王は 再び怒り、大雨と山崩れで 毛利軍に 大惨事を見舞ったのです。度重なる不運に 「どうも この地に 留まる事は 天が 許していない」と 毛利輝元は 伊賀久隆に 占領地を 返還し 毛利軍兵士の犠牲者を 悼んで 建てた 千人塚 等の供養の使節の入国を許す事を 約束させ 安芸国へ引き返しました。其の後も 時々 龍王は怒り 和田川付近は大雨で 崖を崩れを繰り返しました。

昭和29年1954年頃は 和田川に沿う道は まだ整備されていませんでした。それでも 都会でも 左程普及していないと言うのに 高価な単車(オートバイ)を操る 若者の集団が 爆音を轟か(せ、交通信号等ない 山間部を 機嫌よく 走り抜けました。龍王は 不埒な金属的な爆音に 腹を立て 付近の山筋を 雨水で破壊しました。 「三谷野呂の百怪談」 今日も 崖崩れの修復工事のための 法度張りHattoubari通せん棒が 置いて有ります。和田川に向く 法面Norimen崖崩れ防止のために設けられた  ロックボルト工法のコンクリート構造体の連続は、あたかも 鱗をまとった ウネウネとくねる龍の体のようです。

龍王宮:明治初期に土井神社に合祀されました 大王集落:富永大王 北緯34度52分59秒東経133度45分17秒付近 龍王谷・竜王滝:富永34度52分4452分44秒東経133度45分13秒 ここの近くに 地獄谷と呼び昔の共同墓地がありました   逗留田上池:富永大王 北緯34度53分5秒東経133度45分6秒    逗留田下池:富永大王 北緯34度53分10秒東経133度45分13秒    せいひろ城富永跡:富永大王 北緯34度52分44秒東経133度45分20秒    藤沢城:田土加茂市場 北緯34度51分40秒東経133度44分57秒    船山城:下土井倉城 北緯34度52分58秒東経133度45分45秒    勝山城:下土井桑ヶ市山端 北緯34度52分40秒東経133度15分40秒    平岡の千人塚:上野八十原 北緯34度50分53秒東経133度47分7秒    裕園の五輪様:川内田五輪山 北緯34度48分42秒東経133度45分35秒  河原六郎右衛門:作州寺畠の城を 落とした時 伊賀久隆が 虎倉へ連れて来て 鍋谷城を与え、虎倉城の家老としましたが、同僚達に毛利のスパイと懺悔され、常光寺合戦で 死んだことになっていますが、三村方に逃亡し、備中兵乱の時 三村元親を裏切り 毛利方に付きました  宇喜多直家が 織田方に就くと、伊賀久隆は 直家に続きました。毛利輝元の怒りをかい 毛利方の粟屋与十郎は 河原を道案内させ、虎倉城に向おうとしましたが、霧で道を失い 毛利軍を上加茂に導いてしまいました。ここで上加茂合戦となり、河原は 土井三郎右衛門を 討ち取りました。土井は 上加茂合戦での伊賀方の唯一の犠牲者です  平成24年(2012年)8月20日