下加茂    大山原騒動  Disturbance at Daisenbara


 岡山藩は 幣価を 安政元年(1854年)徳川幕末の頃に1割に 切り替えました。その原因は ペリー来航の影響に 対処するために 幕府の命令で 安房Awa上総Kazusaの沿岸防衛に 当たり 下津井や 小串や波崎Hasaki等に 砲台を 築いたからです。そうでなくても 岡山藩の財政は 逼迫していたので、幕府の命令に 従がう事は 無謀だったのです。止む無く 安政2年(1855年)岡山藩は 29条の倹約令を 発しました。諸物価は 高騰し、金の値が 急上昇し、藩札相場が 暴落しました。「安政の札潰Satu-tubure」と 言います。この暴力的な 処置に 領民は 怒りの行動をとると 藩は これを 弾圧しました。「下加茂の村人のより口伝」「加茂川町史」「幕末銀遣い経済圏における金流通の条件:浦長瀬隆  岡山藩の安政の札潰により、下加茂を始め 加茂川の村々の農民達は 困窮しました。生活が 成り立たないので、安政2年11月8日、山王宮(現在の日吉神社の祭礼の日に 氏子達は 地震除害祈願の集会 と偽り、9日と10日に 大山河原に 集まろうと相談しました。2日共 大雨だったので 集まる者は 僅かでした。そこで 幸之丞 が集会を言い出し、勘蔵が話に乗り 村人を扇動し、定次郎 等56人が 集まりました。

こうした無許可集会は当時禁じられていたので、騒乱罪で定治郎ほか4名は「厳敷叱Gennbu-sikari」や「追込Oikomi」、庄之助ら2名は「叱追込」、他46名は「叱」の罰を 与えられましたが、4月26日から 5月14日にかけて 御免(釈放)されました。「加茂川町史」        下加茂村の百姓の勘五郎他 8名が「御嘆口上On-Nageki-koujyou」なる手紙を 名主の台蔵 朝太郎と 5人組宛てに 書きました。「藩への報告を 取り下げて下さい」と 言うものでした。加茂川町史」  房次郎他9名も「乍恐口上Osorenagara-koujyou」を 書きました。要約すると[ 此度、御銀札が歩下げになったので、御銀札の拝借と村方の諸費用の年延べをして頂くよう願い出ましたが、不都合な事でしたので、その願いを下げさせて欲しい」と 言うものでした。「加茂川町史」

地震除害祈願:安政元年(1854年)12月24日に 安政南海地震が 起こりました。吉備中央町では 液状現象は 殆ど起こりませんでした。震度は 4~6と 推測されます。 厳敷叱・急度叱Kitto-sikari厳重注意ですが、庄屋 家主等 居住地の責任者や 顔役が 立会い 与力等が 罪状を叱り、再犯の無いよう言い渡し 保証人連署の請状の提出を 求めましたhttps://kotobank.jp/word/急度叱」    追込:厳しく叱られ 外出禁止押込め(おしこめ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)    叱追込:叱と 追い込み    叱:役所の中で 責奉行が「」を 言い渡し、与力が 差添人連印の請書を 取って 放免する 最も軽い刑罰

大山河原:下加茂倉庫町 北緯34度51分34秒東経133度48分49秒    三王宮・日吉神社:下加茂阿部谷 北緯34度51分44秒東経133度49分23秒    穢多:革製品の製造販売 刑吏(処刑係)捕吏警察官番太(夜警)浮浪者取締拘引Kouin(連行 牢獄や 刑場等の雑用係り)山番水番祭礼等での清め役 芸人芸能人履物製造販売灯心等の製造販売Osa等 高度な専門的技術を 要する 織機の部品の製造販売 竹細工の製造販売 等の職業人。江戸時代の身分制度で は士農工商非人穢多の順に 位が上であるとされますが、実際には 幕府の監視と取り締まりの強い順で、穢多の人達は 巧みに 自由さを 駆使し 財や 名声を 得ています。しかし 鎖国制は皮の輸入量の減少を 齎し、鞍等の軍需製品を 必須とする為 政者達は皮を 扱う者達の定住と 監視を強化し、又 寺の戸籍管理の強化と 殺生禁止思想の強化によって 穢sagesumaれた職業と されました。吉備中央町の多くの集落(恐らく大字単位)に 穢多村が あったようですが、その存在を 知られたくない為 政者は それを 地図に 残しませんでした。 慶安御触書:江戸幕府第3代将軍 徳川家光による 慶安2年(1649年)に 発せられた 百姓の贅沢の戒め、農業等の勤労を求めた 32ヶ条と 奥書から成る法律と されます。詳説日本史資料集・山川出版社」「精選日本史史料集・第一学習社」「日本史重要史料集・浜島書店」「詳解日本史史料集・東京書籍」「https://ja.wikipedia.org/wiki/慶安御触書

chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/0601_0650/0639.htm吉備中央町の伝説・慶安御触書」 29条の倹約令:ペリー来航に 伴い岡山藩 は房総半島の警備施設を 建設するよう 幕府から求められる他、江戸の大地震による崩壊藩建築物の修理に 多大の費用が 嵩 み藩財政が 破たんしました。その苦境を デノミネーションで 切り抜けようとし、又庶民に「食膳は一汁一菜」等の質素倹約を 求めました。24条から29条を「別段御触書」と 呼び穢多の人達を 対象にした 厳しい内容でした。農民や 穢多の人達は 強く反発しました。岡山藩では 穢多の人達は 藩の指導する職業訓練を 受け農耕をし 年貢を納めているのに 百姓よりも厳しい内容が 求められたからです。以前に 慶安御触書の折りには「嘆願書」を 出すと 倹約の締め付けが 穏やかになったので、今回も 各所で 農民や 穢多の人達は 嘆願書を 用意しましたが、藩は 悉く 弾圧しようと 試みました。粘り強く交渉をし 嘆願書 が受け付けられましたが、多くの村の責任者は 獄に 繋がれました。穢多の人達の指導者に は獄死する者も出ましたが、解放され 別段御触書は 実行されませんでした。 山王宮氏子の穢多の人達の嘆願書の要旨:自分らは 年貢をきちんと 納めていますし、警備等の役目も果たしています。百姓と変わりないのに 差別されるなら 農耕の意欲を失い 放棄したくなります。百姓の耕作放棄地を 引き受けここからも 年貢を納めており、不作の時は 出稼ぎしたり 草履等を 作り 昼夜働いて 年貢の未納をしないよう心掛けています。荒れ地が増えれば お殿様が お困りになるからです。紋付きの古着はとりわけ安いの で生活費を 浮かせています。指定道りの着物では 質種にもならず、病気時や 年貢不足の時、僅かな 凌ぎSinogの役にも 立ちません。 豆狸:大山原には 豆狸が住んでいて、カラコロカラコロと 下駄の音を発て 美しい娘に化けて出て 悪さをするとされます。

 

倹約文化が生んだ岡山の名物 祭寿司 Maturi-Zusi "popular type of sushi bento"

岡山藩の池田光政は 質素倹約を 勧め 贅沢を 禁止しました。備前の者は 特に旧加茂川町から 建部にかけての旧伊賀久隆の治めていた地域では、自尊心の高い豪族(加茂荘官等)が 多く住む地域でした。光政の命令を 聞かない ある者が 正月3日に 一族を 揃え雑煮を 食べている時、戦争を 仕掛けられ 党首が 首を 刎ねられたと言われます。そのため現在でもその一族は正月を雑煮で祝わないそうです。又、池田光政が 淫祠を 廃し、荒祠寄せをした時、本村大字 宍甘の処刑場で 抵抗する巫女十三人を 火炙Hiaburiの刑に 処しましました。吉川藤田では 不受不施派指導者3名を 処刑しました。それ程の見せしめにも 関わらず備前の者達は 自負心が 強かったので「食膳は 一汁一菜」にせよと 命令されいても 当時の最も重要な娯楽である 祭の時位 命令違反と知りながらも「なんとしても 伝統の美味しい物を食べてやる  ご馳走を ご飯の上に 乗せても一菜は 一菜である」と 心意気を示し 寿司飯の上に 魚や 野菜を 乗せて 食べたのが 祭寿司の由来とされています。弁当箱の底に 具を並べ 寿司飯を盛り 表面 に錦糸卵で 覆いました。食べる時は 弁当箱を ひっくり返しますが、役人が 近づくと 蓋をうまく利用し 錦糸卵を 上にして一菜に見せかけた と言われます。役人も 違法を 見付けても 看過したようです。現在では こんな小細工はせず 食べます。あるいは 岡山藩により 質素倹約を 奨励され「寿司と甘酒の他は 一汁一菜とする」と 触れましたが「酢飯の上に 豪華な具の混ぜ合わて一汁を 足し、一汁一菜である」との主張 に役人が 目を瞑ったtubuttaともされます。arison.jp/blog/2013/10/12/okayama-matsuri-zushi/

淫祠・淫祠邪教・淫祀:時の 国家権力等 支配者にとって 反体制的な 信仰や 宗教の事で、徳川幕府や 岡山藩の場合、日蓮宗不受不施派を 中心とした宗教    正月3日の事件:池田光政は 伊賀13流等の権力者の由緒書等 の処分等 に反発した 一族の党首が 攻め殺されたとさせます。「細田目無しの村人より口伝」 よく似た伝説 に長船越中貞親暗殺事件が 有ります。貞親は 伊賀家久が 明け渡した 虎倉城を 宇喜多直家から 預かりましたが、岡山城の家老の業務に 掛かり詰めだったので、妹婿の石原新太郎に 虎倉城を 預けていました。新太郎は 貞親の政策に 不満を抱いていました。天正16年(1588年)の正月の朔日に 新太郎は 貞親に「来る六日 に新年の祝賀として 料理を進めたい」と手紙を送ると 喜んだ貞親は 弟源五郎や 金光宗廻等を 連れて4日の昼頃 虎倉城に 到着 し 夜になると 酒宴を 続け 夜更けに 宿所に 戻りました。翌朝新太郎は 寛ぐ貞親家族を 襲い 殺害しました。新太郎一族は 虎倉城に 火を 放ち自殺しました。この事件に 正月に 餅を食べない風習の一族が関係していて、二つの事件が 混同して言い伝えられたのかもしれません。「https://ja.wikipedia.org/wiki/長船貞親」 

 

倹約文化が生んだ岡山の名物 臭木菜掛飯 Kusagina-kakemesi "Rice topped with kusagina "

 昔、天保の飢饉の折り 食べる物が 無かった三谷に あった寺で 柔らかく美味しそうな 若葉の臭木の葉は 悪臭があるけらど 毒がないと知ると 食べる工夫が なされました。毒々しい花や 悪臭の強い葉の印象と異なり 以外に 美味しかったので ひそかに 僧侶や 猟師の間で 臭木菜掛け飯は 伝えられていました。池田光政の倹約令下でも 贅沢な食材と されなかったので 寿司の具に 堂々と 臭木の若葉は 使えました。昭和の頃 埼玉から 吉備中央町の加茂大祭は 物凄く勇ましいと 聞いて観光に来た 家族が 夕食に 名物だと 言われて臭ぎ掛け飯を 作って食べさせて 貰いました。美味しかったので、作り方を 教えて貰うために 臭ぎ菜の葉を 摘みに行きました。余りの臭さに びっくりしました。花も 気持ち悪く どぎつい赤と青い色でした。土地の老婆に 頼むと 持ち合わせの材料を 使いちらし寿司を 作ってくれました。しわっこいなにか 乾燥した丸っこい物を 咬むと 甘辛い 鶏出汁の効いた味が 滲み出て来ました。しわい物は 何かと訊ねると「臭ぎ菜じゃよ」と お婆さんは答え、お爺さんが「昔 倹約令が出され 海老Ebiや 魚 等の美味しい寿司の具に 使えなかったので、 工夫してこさえたんじゃ 贅沢Zeitakuな 美味しさじゃが、お役 人も 臭木菜は 贅沢な物と 考えなかったけぇ、気に 留めん かったんじゃ  わし等 ぁ あねぇな臭い物は 食う気もせん」と 感心し 勧めたんじ ゃろうなと 笑いました。 時が 過ぎ 町起こしの話が 持ち上がり、あの時のお婆さんの意見が 通り 円城道の駅で 臭木菜掛け飯 が販売されると、ふるさと茶屋や 茶房かたやま邸郷土料理まきば道の駅 かもがわ円城等で 食べられるようになりました。

ふるさと茶屋:円城 ふるさと茶屋予約:0867-34-009 北緯34度53分2953分29秒東経133度48分23秒    茶房かたやま邸:下加茂 0867-34-0747  北緯34度51分30秒東経133度48分43秒    郷土料理まきば:吉川きびプラザ 2F 0866-56-8326(食べグロを見たと言うべし) 北緯34度50分24秒東経133度45分38秒    の駅・かもがわ円城:上田西 0867-34-1717  北緯34度53分32秒東経133度48分50秒        平成24年(2012年)3月8日