上竹 大池の水争い Dispute over water of ooike pond


昭和15年(1940年)頃は この辺りに プールはありませんでした。子供達は 川で遊ぶか 池や沼で 水遊びをしていました。だから 上手に泳げる者 等いなかったのです。ところが  都会でプールができたと 言うニュースが 報道されると、子供達は 泳ぎたい欲望を 持ち始めました。大池)俵原池は、時々 水抜きをしました。水嵩Mizukasaが 浅くなると、子供達は 水遊びや 魚取りに 池に入り、溺れ)そうになる事が 度々あったのです。町会議員や 町長は これを憂い小学校にプールを 作ろうと計画しました。高梁川と 旭川の分水嶺となっていて 水が少ない この地では 水の確保に 問題があるとして 大反対があったのですが、強い父兄 等の希望もあって、大池と 俵原池と 小学校を結ぶ 水路を引き渡し、プールを 造りました。それは それは 困難な 大工事でした。それだけに 子供も 父兄も 大変喜んだのです。ここら辺りの小学校で プールを 最初に 建設した事業の成功に 皆で 歓喜していましたが、暫くして 有漢から 苦情が 届けられました。「大池には 我ら有漢の者にも 水利権がある 大池の水を 上竹荘小学校のプールに 引き込むのは 止めて欲しい  どうしてもと言うなら プールの排水は 宇甘川に 流すのを止めて、高梁川に流して もらいたい」と 言うものでした。今と違って プールの水を カルキ等で 消毒する習慣は なかったので、川に 流せたのでしょう。スッタモンダの論争をしている内に 長過ぎる水路は 堆積物で 詰りましたが、有漢の反対も あるので 修理もできずに いました。しかし 水道施設が 整備されると、論争は 自然と霧散してしまいました。確信のある者同士、多大な 努力をした者同士 あるいは 確信のある者と 多大な努力をした者の間の争いに 妥協はありません。大論争しても 大概は 解決策がないものです。しかし 水道施設が完備し 論争を 水に流してしまったのです。(村の古老よりの口伝)

上竹荘小学校:北緯34度50分50秒東経133度40分20秒    大池・大蔵堰堤Oozou-sekitei俵原池の北で 岡山道を越え、聖坊山に 向かう細い 山道を登ると 頂上に 向かう道 が戻る方向に分岐します。頂上には OHK賀陽放送所があります。山に 登らず神子山に 向かうと、大きく右に 曲がりますが、その北側を見ると 意外に 大きい34度51分651分6秒東経133度39分41秒に見つかります。

俵原池:正力交差点から 袈裟掛に向かい、岡山道を 越え、道なりに 少し進むと 右側 北緯34度50分57秒東経133度39分35秒に ある大きな池です。しかし 大池から も小学校からも 遼遠く、よくも まあ水路を 引いたものだと 感心します。 プール建設の背景:昭和11年(1636年)に 行われた ベルリンオリンッピク200m平泳ぎでの 前畑秀子の金メダル獲得に 日本中は 興奮しました その後 昭和17年(1932年)ロサンゼルスオリンピック、昭和31年(1936年)メルボルンオリンピック、昭和35年(1960年)ローマオリンピックで 日本水泳選手達は 大活躍しました。其の後は 日本水泳会は 次第に衰退して行きましたが 若い頃から 注目されていた 山陽高等学校木原美知子が 学校にプールが無いにもかかわらず 昭和(1964年)の東京オリンピックの400mメドレー競技で 4位に入賞しました。国が スポーツの競技力強化を進める中 岡山県は 特に熱心で、国民体育大会の成績を うなぎ上りに 向上させていました。昭和37(1962年)に 岡山体育体育大会開催が 決定されました。全国の小学校に プールが造られる中、上竹小学校でも その機運が生まれたのでしょう。完成は 岡山国民体育大会の年だったようで、県内数番目の早さだったそうです。当時は 公共工事の請負には 競争入札の仕組みはなく、町が 信用ある業者に 直接依頼したそうで、2人の依頼者が 尽力したそうです。  平成24年(2012年)3月5日