豊岡上 上光寺 榎並茂兵衛 Sigebei Enami


 豊岡上上中須賀290番地の隣の北緯34度53分58秒東経133度45分512秒の豊岡地区農村公園内に 地神社が 建ちます。 境内に 代官榎並氏茂兵衛尉重友墓 「延寳二申寅年三月四日  安政丁巳歳註仲春攸」が あります。寛永元年(1624年)大守 光政の時代 榎並茂兵衛は 寛文年中(1161年―1672年)高郡北部の代官として、民を思う政治を行ないました。この仁政Ninseiの主なものは 豊岡上の草原を開拓し 土道地池Dodouti-no-ikeを掘り 1kmの榎並水道(金子水道Kaneko-suidou)等の用水路を引き 5haの水田を 開拓した事です。民は 敬慕し 彼の死後 春 秋に祭りをしました。延宝2年甲寅年3月に、この人の墓を豊岡上の金森家の裏山 神道山Sintou-zanから 鎮ヶ乢Tin-ga-tawa脇の農村公園に 移されました。「加茂川町史」

岡山藩校 Okayama domain school

池田光政は 寛文8年(1668年)現在の備前市閑谷木谷村延原に 手習所を設置し、3年間の内にその他に 123か所の郡中手習所を 設置しました。将来の村を束ねる可能性のある者を 月の半分 通学あるいは 合宿させました。しかし 実際には 過半数は百姓の子弟でした。榎並茂兵衛は 自らの子共や 多くの旧加茂川町の村役人の子弟、百姓の子弟を紙工手習所Sitori-Tenaraisyoで 教育しました。教育を受けた者達は、光政の進める神社合祀 寺院廃寺に 携わり、旧神領 旧寺領から上がる年貢増加による 財政再建に 功労を上げました。その後 藩の財政悪化に伴い手習所は12校に 縮少されました。この時 紙工手習所は 一端 廃校を免れました。榎並茂兵衛の功績だったと想像します。しかし 延宝3年(1675年)藩財政逼迫Hippakuは さらに悪化し、郡中手習所は 全廃され 閑谷学校に 統合されました。https://ja.wikipedia.org/wiki/閑谷学校「加茂川町史」 この時代 旧加茂川町の豪族達は 加茂荘官(戦国時代の備前美作の領主伊賀久隆の重臣達の末裔)と 呼び  苗字帯刀し 領主の様に振舞い 領内の政治 経済 祭り(信仰)に 強い影響力を 与えていました。光政は 武力に頼らず、加茂荘官の力を削ぎ、乱立する神社仏閣を統廃合し、統廃合された神田 寺田からも 年貢を納めさせ 経済切迫を 改善ようとしたのです。特に 日蓮宗に対しては 徳川幕府の政策に従い 処刑者を出す程の特別な弾圧を 加えました。加茂荘官に 対しては 将来仕官させる約束で、それに必要な参考資料として 各家由緒書(血統書等)織田信長からの感状書 家宝等を提出させ.家宝の一部を 除き廃棄しました。何時まで経っても 仕官されない荘官達は 抗議すると、帰農する事を強要されました。逆らうものには 軍事的圧力で脅迫し、それでも逆らった豪族は 攻め殺されたとの伝説が 残ります。一般人に対しては、藩校を作り (前述の事件も この政策も 徳川幕府に対する謀反とされましたが 将軍は 徳川家康に信頼されていた光政を 処罰しませんでした)藩政改革の重要 性を 藩の費用で 教育し (武力に頼れば庶民の反感を買う事は必定)  教育洗脳した百姓を 中心とした勢力で 神社寺院の統廃合を 進め 農耕の質の向上と 節約政策を進めました。

金子水道榎並水道:土動地池から金子谷川kaneko-daniの西上方を沿って流れ、上人墓の北 北緯34度54分3秒東経133度45分44秒に注ぎます。    豊岡地区農村公園:北緯34度53分60秒東経133度45分52秒    土道地池:北緯34度54分38秒東経133度45分38秒

向山代官屋敷:大木380番地の裏山 向山の北緯34度54分25秒東経133度46分38秒の竹藪の中に 代官屋敷の地名の平坦地があります  屋敷跡は最近迄、田として使われていました     平成23年(2011年)10月8日