松尾神社 Matuo-jinjya

京都府京都市西京区嵐山宮町3番地 北緯34度59分60秒東経135度41分7秒の 松尾大社の祭神は 大山咋神Ooyama-kui-no-kami  中津島姫命Nakatusima-hime-no-mikoto(市杵島姫命Itikisima-hime-no-mikoto)で、王城鎮護の神 開拓の粗神 酒の神として 信仰されます。https://ja.wikipedia.org/wiki/松尾大社岡山市東区瀬戸町瀬戸677番地 北緯34度44分21秒東経134度2分9秒の 松尾神社の祭神は 大己貴Oo-Namuti-no-mikoto 松御崎大明神Matu-Misaki-daimyoujin 菅原道眞Sugawara-no-Dousin/Sugawara-no-Mitizaneです。岡山市北区下牧2672番地 北緯34度45分13秒東経133度57分34秒の松尾神社の祭神は 大山咋神 市杵島姫命です。兵庫県宝塚市山本東1-9番地 北緯34度49分21秒・東経135度23分3秒の松尾神社の祭神は  大山咋命 坂上田村麻呂公です。 神社の前に付された地名は他の神社と区別する為に付けられていて、神社の正式名称でない場合があります

 


井原 上井原松尾の松尾神社 Matuo-jinjya in Kami-Ihara

落合加茂川線(66号線)沿いのカバノ原を 北に進み、富永大久保尻1444-1番-1番地の難波プレスの北の分岐を 北に進むと 井原登喜屋654番地と井原後口向683番地の間の林の中 北緯34度53分18秒東経133度45分39秒に 周囲の小神社を集めた建物が 地神碑と共に あります。堂内には 松尾神社 若宮社 荒神社 祇園社が祀られます。    ホイトウ坂:井原531・532番地 傳學:井原615・629番地等 鐘突免:井原635・642番地等 登喜屋:井原643・656番地等 尾龍谷:651・668番地等 祇園山:658-665番地等 後口向:井原670・682番地等 胡魔坂:井原701・713番地等  平成25年(2013年)8月18日

  

上田東 松尾神社・御崎様

北緯34度53分33秒東経133度47分45秒 上田東御崎506番地に 松尾神社が 建ちます。主な祭典は 4月10日の祈年祭 10月第3日曜日の秋季例大祭と加茂大祭 11月28日の新嘗祭Niiname-saiです。氏子は湯武Yubuを除く上田東 東細田を除く細田 三納谷西を除く三納谷 立石を除く上田西 円城 上井原の人達です。元明天皇の頃 和銅6年(713年)4月に 厳島明神を 御崎山に勧請し、小社を 創始して 御崎大明神と 名付けました。後に 一条天皇の寛弘5年(1008年)山城の国葛野郡松尾神社大山咋命Ooyama-kui-no-mikotoの御分霊を 勧請して 松尾大明神 と称えました。大山咋命 市杵嶋姫命Itikisimahime-no-mikotoを 祀ります。www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=06059」「加茂川町史」 拝殿の南道路際に鳥居があり、拝殿に向うと左手に手水所があり、右手は石の垣根になっています、垣根の太い柱が 5本の細い柱を挟んでいて 太い柱には「奉納 松尾神社本殿修復 平成六年四月吉日、奉納 石垣 杉本建設株式会社代表取締役杉本(沖)等」と 記されています、次に 対の狛犬が配置され、奥に対の燈篭があり それぞれに「献」「灯」と 記されています。随身門を潜ると 左右の石の垣根があり「天皇在位六十年記念 皇紀二千六四四戌年 西紀千九百八十七年 等」と 記されています。次に対の奉塔がたち、右手に「松尾神社幣拝改修御寄付名」の碑が 立っています。拝殿と本殿の間の左右に 対の狛犬が 奉納されています。対の奉燈 記念碑 対の狛犬 五社の境内社と続きます。右側に2社には 対の奉燈が 備わっています。 三宅藤麻呂Miyake-no-Hujimaroが 長田を見分に来た折り、道に迷い兇族に 襲われますが、厳島神社のお告げと 美少女の手引きで 兇賊を退治できました。藤麻呂は 美少女に感謝し、御崎山に 市杵島姫命の小社を 祀りました。御崎大明神(御崎宮)と 後世になり呼ばれました「加茂川町史」。44代元明天皇の頃 和銅6年(713年)に三宅藤麻呂が 国史編修のため「長田庄の様子を見て来るように」との 命を受けました。しかし 道不案内のため 道に迷って野宿したのですが、その夜 厳島神社の使い 斎島Itiki-simaの女神が 夢に出て来て、正しい道を 教えてくれました。道を進むと 村人を 苦しめる山賊が いましたので 戦いを挑みましたが、敗戦色を 否めなくなりました。すると 再び あの美しい少女が現れ  作戦を 申し出、地の利を説いたのです。美少女の作戦は おいしい酒を 賊に 鱈腹Tarahuku飲ませ、酔い潰れて 寝ている所を 裏手の木戸 に水を掛け 音がしないように 開けて 一気に襲う事でした。その作戦を 採用したところ、みごとに 賊を 退治する事が出来ました。そこで ここに市杵島命を 祀ったのです「村人口伝」元明天皇が 和銅 年(713年)4月  三宅藤麿に 命じ 備前六郡を 美作国とした時、奥津高郡長田庄Osada-no-syouを 実地見分させました。大向から 西に長田庄を見分し 鶴巻に向かうのですが、道に迷い 従者と共に 行く先の安全を 天に祈っていました。和同年4月28日の丑満(丑三の事でしょう)の頃に 山はざわめき、雷が鳴り響き 稲光が走り 藤麿のいた辺りは 真昼のように明るくなりました。その中から 大きな白蛇が現れ「我は厳島神社の使いです これから人里に連れて行ってさしあげます」と言い 鶴峯に案内し 蛇里畝と言う地まで来ると 姿を消しました。その後 見目麗しいmime-uruwasii少女が現れ「この郷の北に 妖怪の大岩があるため 国中に災害が多発しております  汝が怪石を退治すべきです  これより東にある高峰に 千年以上経た槇Makiが生えているので 大弓をお作りなさい」と 告げて 姿を消しました。藤麿は 神のお告げに従い 弓を作り、怪石を射ると 岩は微塵Mに砕け 四方に散って 行きました。長田庄の石(石堂、立石、的石)の付く地名は この言い伝えに基づきます。和同6年6月28日 岡崎山峯に 小祠を作り 市杵島姫命を祭りました。元明天皇は喜んで この祠の寄進を受け 天下は平和になりました。年が明け 正月22日に 小社を 築き岡崎(国崎)大明神と名付けましたが、戦国時代に入り 神田sindenを失い 20石に減じました。寛弘5年(1008年)一条天皇京都松尾神社より 大山咋命を分霊し 勧請しました。酒造職多輪屋敷和右衛門の岡崎山に奉納し 松尾神社と改名しました。元宮は 奥谷の金毘羅神社の近くの大神岩に 建っていたとされます。軒札 四天王木像 竜頭文庫 獅子頭 神鏡が宝物です。「加茂川町史」

2月22日に お当祭り(御礼申すの祭り)を48名の名主により行います。参詣者は  一品の料理を持参し、酒一斗が 準備されています。二人の白狩衣K-iginu姿の当人を決め、東西の袴Hakama姿の4座の中央に座ります。座は4つ折りした莚Musiroの上に 座布団を敷いた物です。正午に 氏子達は定位置に座り、東座から 酌人二人が 酒を出します。神官は 両手の杯で受け「氏神様にお礼申す 4つの座に御礼申す 8つの座に御礼申す 両当番に御礼申す」と 感謝して盃を空けます。次に4つの座が  次々に酒を注いでもらい「神官に御礼申す 氏神様に御礼申す 4つの座に御礼申す 八つの座に御礼申す 両当番に御礼申す」と 言って酒を飲みます。すべての参詣者に酒が廻ると、花びら餅Hanabira-moti 大熊や小熊を紳前より下げて 全員に配布します。熊とは榊Sakakiに お供え米の紙包みを結んだ物です。宴たけなわとなると 紳官はお神楽Okaguraの行事を始めます。太鼓T合図で当番を 次回当番に引き渡し、祭りは終わります「村人口伝」「加茂川町史」

松尾神社の境内の西に、末摂社が 6社並んでいます。その1番左の赤い屋根の小さい一宮社は 御崎神社で御崎社大神が祀られています。その右の2番目一宮社の大きい社は 荒神社で、堂内に 田口三寶荒神社が納められております。集落の中の林の中 北緯34度53分38秒東経133度47分54秒の近くに祀ってありましたが、参詣に不便なので3年前に この地に遷宮Senguuされました。村人は 八大三宝荒神社であると語りました。田口荒神社八大三宝荒神社は 御崎社でもあり 素戔嗚大神Susa-no-o-no-ookami 天御中主神Ae-no-Minakanusi-no-kami 罔象女神Mizuha-no-me-no-kami 五帝神 武器を持った多面多臂Tamen-tapiの忿怒Hunnu姿の荒神像と 一面二臂の穏やかな顔の女性的姿の粗末な衣を着た荒神像がv祀られています。ちなみに 島根県出雲市大社町杵築北2953番地 北緯35度34分3秒東経132度40分31秒の八大荒神社の祭り神は 海蛇神八尋の大和邇Yahiro-no-oowani)豊玉姫命Toyotama-hime-no-mikotoの妹である玉依姫命Tamayori-hime-no-mikotoです。即ち海を司る綿津見神(綿津見大神 豊玉彦)の娘です。八大は海や雨を司る八大龍王の省略です。

その右(右から4番目)の一宮社は 宮荒神で 三面六臂の三宝荒神像が祀られています。その右(右から3番目)の小さく低い三宮社は 山神社で 左端の厨子は大山神社 次の厨子は八幡神社 次の右端の厨子に春日大社が 祀られています。右から2番目の最大の一宮社は 月読乃尊社で、三面の神像が 狐の置物を伴って 祀られています。狐の置物が奉納されているので、稲荷神社と思いましたが、月読乃尊社の神格は 月の神 漁業の神 占いの神 海の神であると 同時に農耕の神でもあるので、稲荷神に似た神格を持ち合わせています。右端の社は 正建宮と呼ばれ春日大社です

県道下土井下加茂線(372号線)から見て 1段目に鳥居 2段目に手水鉢 3段目に狛犬 随神門 4段目に拝殿 本殿 北側の最上段に一宮社の経杜社Kyouburo-syaが有ります。経杜社は 神仏習合時代の経塚とされ、また元宮ともされます。案内標識には「経杜社 経杜社は神仏混淆の時代、当社で使われていた経文を、この地に納め祀った事から 経杜社と言い伝えられている。また一説によると、この地に氏神様を最初に祀ったところで元宮ともいわれている。この神様は、頭の病気に大変な御利益があると多くのご信仰者があり、最近は受験者の合格祈願をされる参詣者も多い。」と記されています。頭脳の神様です。

松尾神社の近くに 冠者河内遺跡があります。弥生中期の高名な人物の墳墓である可能性が高く、祭祀に用いられたらしい遺物が 発掘されました。 円城に向かう道の左手に下る山道の右手に 的石が立ちます。古墳らしいのですが、何も刻されていません。吉備津彦命化気神社で射た的石と言われています。冠者河内遺跡の隣接地上田西冠者河内Kajya-kouti442番地の西・上田西と円城の境 北緯34度53分25秒東経133度47分48秒に 2本の石柱の門の奥に 松尾神社の御輿置き場があります。

的石:北緯34度53分46秒東経133度47分46秒に 立ちます  化気の鬼退治にやって来た 吉備津彦命が 駒石から 射た矢が 鬼に命中すると、鬼は 退治されまいと 矢が通らない事を期待し 大岩に変身しますが、吉備津彦命の矢の威力は凄まじく 岩は砕け散って 破片となり 細田や立石に 落ちたと されます  鬼に弾かれ 壊れた矢は 大畠oobataをバタバタ音を発てて、高平上空高くを ヒラヒラと飛んで、矢原に落ち、目無しでは 山に阻まれ飛んで行く矢が 見えなかったと 伝えられます 鬼が死んだ場所に 残された岩が 的石とされます「村人口伝」 矢原:北緯34度53分56秒東経133度46分58秒付近 高平:北緯34度53分53秒東経133度47分19秒付近 大畑:北緯34度53分32秒東経133度47分23秒付近 目無:北緯34度53分43秒東経133度47分33秒付近 立石:北緯34度52分44秒東経133度47分15秒 駒石:北緯34度53分32秒東経133度47分23秒 飛石:北緯34度53分48秒東経133度47分7秒 塞石:北緯34度53分51秒東経133度46分56秒 新嘗祭:天皇が 新米等五穀の新穀を 天神地祇Tenjin-Tigiに 奉納し、天皇も これを食し その年の収穫を 感謝する儀式です 御崎山・御嵜山:上田東505番地 鴨神社:上加茂471番地 北緯34度51分6秒東経133度49分22秒 大向:神瀬1913・1625・1936番地 鶴巻:鶴巻地名はこの辺りに無いと思います 鶴嶺(鶴峯、鶴旨)の事でしょうか  円城横倉1020番地のに 墓場がありこの辺りを「辻」或いは「辻屋敷」と言い、鶴峯とも呼ばれていたようです  備前の藤氏の畑ヶ鳴Hata-go-naru藤原伊賀家の所縁Yukariの地です 蛇里畝:上田西2351番地 輿休:上田東1・75番地等 宮前:上田東49番地 御崎前:上田東94・157番地等 神社前:上田東248・249番地 御崎前:上田東489・494番地等 御崎・御嵜:上田東501・506番地(松尾神社) 宮林東:上田東541・550番地 ビクニ久保:上田東653・682番地等 冠者河内:円城407(北緯34度53分19秒東経133度48分42秒)・477番地等 冠者:上田西641・651番地等              

 奥谷の組石、大34度51分3051分30秒東経133度48分13秒  国只氏等は「実際には 奥谷の山に 金毘羅宮跡があったが、現在は 跡形もなくなっている  大神岩なる 大岩が 奥谷の組石の1つとして祀られていた  近年 電波塔が建てられた折り、門状の石柱や 組石は 庭石にするために 持ち去られた  そこには 大神岩を 形成していたと思われる岩等が 散乱してiいる  大神岩の上に鴨神社の元宮が祀ってあったとの意見も有る」と 言って 大神岩に 案内していただきました「国只等・村人の資料」 奥谷金毘羅神社跡:上加茂奥谷の古墳群の立て札の北西の方向に聳える 金毘羅山の頂上 付近 北緯34度51分21秒東経133度48分8秒と 思われる地点に在ります 社は既に無く、石垣に囲まれた施設です 平成23年(2011年)7月20日

          

上田東 柏尾八坂神社の大宮社

上田東柏尾下モ前kasiwa-o-simo-mae1155番地の庭先を通り 山道を北に向かうと 北緯34度53分59133度秒東経133度48分1秒に 八坂神社が 建ちます。何時の頃か いかなる役割を果たしたのか解りませんが 城跡とされます。本殿には 素戔嗚尊が 祀られているのでしょう。御蔦社 由加社 大宮社 若宮 紳明社 愛宕神社 大山罪神社 建布都社等が合祀されていると言われます。 大宮社:種々の宮で使われる名です 大宮姫を祀る神社でしょうか https://ja.wikipedia.org/wiki/大宮神」ちなみに 久米郡美咲町百々671番地の大宮神社の祭神は猿田彦大神で、岩手県盛岡市本宮字大宮51番地 北緯39度41分3秒東経141度6分56秒の大宮社の祭神は豊受皇大御神で、千葉県山武市松尾町折戸648番地 北緯35度35分56秒東経140度28分17秒の大宮神社の祭神は大山咋命 大己貴命 少彦名命 嚴嶋姫命で、千葉県流山市平和台5-40番地 北緯35度51分17秒東経139度54分28秒の大宮神社の祭神は天鈿女命で、和歌山県岩出市宮75番地 北緯34度15分15秒東経135度18分45秒の大宮神社の祭神は日本武尊で、長野県上田市常入字上常田723-1番地 北緯36度23分40秒東経138度15分29秒科野大宮社の祭神は大己貴命事代主命です 柏尾下モ前:上田東1155番地  平成25年(2013年)5月20日

 

黒山 多木神社の今宮不動山王宮  Imamiya-Hudou-Sannou-guu of YTaki-jinjya

黒山後谷364-5-5番地の西隣の山を 妙見山と呼びます。かつて 妙見宮が 建っていましたが 現在は 完全に破壊され 鳥居の残骸と 手水鉢(2個が 妙見山の東の麓に 放置されています。妙見宮には 天御中主命Ame-no-Minaka-nusi-no-mikotoが 祀られていました。現在 妙見山には トタンぶきの 三宮社 多木神社が祀られています。左の社は 提婆宮Daiba-guuで、中の社は 稲荷宮祇園天宮と提婆宮です。右の社は 今宮不動山王宮です。滝宮Taki-no-miya石動社 庄五郎御崎神社も かつて祀られていました。    

庄五郎御崎神社:松波庄五郎斎藤道三の父)の事でしょうか 後谷:黒山363・373番地等 妙見:黒山357・359番地等     平成26年(2014年)9月19日