美原    大智妙権現碑 Monument of Dai-Timyou-gongen


 高梁御津線(31号線) 加茂市場から 下加茂に向かう途中 美原mihara家下ege美原入川176-1-1の番地の南隣 北緯34度52分12秒東経133度46分52秒に 巨石が祀ら れ、大智明権現と 刻まれます。大山の山頂に現れた 万物を救うとされる 地蔵菩薩智明権現信仰は、平安時代末以降 牛馬の加護のご利益を 願う人達で 大山寺は 賑わいました。江戸時代になると 大山寺は全国一の「大山牛馬市」として栄えました。地蔵信仰と大山牛馬市 | 日本遺産大山 (daisen-japan-heritage.jp)」「信仰と結びついた全国唯一の牛馬市 | 大山開山1300年祭 (daisen1300.org)」    江戸時代の終わり頃まで 牛馬は 農民にとって大切な働き手であったので 牛馬が死ぬと 死体は丁寧に その地に埋葬され 馬頭観音菩薩大智明権現 南無阿弥陀仏碑等の供養塔を立て 供養されました。高価な 牛馬の購入の為 多くの村では 牛馬講頼母子講  百人講 万人講)等と 言う 共済制度を 設けており、講員は 利息を示し 牛馬講から お金を借りる事ができました。講員でない者が 講からお金を借りる時には 倍の利息を払いました。牛馬が死ぬと 博労が聞きつけ 毛替え(牛馬の買い替え)を 勧めました。

 

お爺さんと年老いた牛 Old man and elderly cattle


昔 大事に 牛を飼っていたお爺さんが 居りました。牛は20歳となり 年老いて働けなくなりました。家族の者は「売って皮にして貰えぇ」と 言うのです。お爺さんは 嫌で嫌で ころくに眠れませんでした。しかし 家族の強い要求に負けて なんもかんも諦め、ひずらしい天道さんに 後ろめたさを感じながら 泣く泣く 牛を売りに出かけました。牛は 悲しく鳴きながら ボトボトと お爺さんの後を 付いて来たました。大山の競市にSeri-iti に着きましたが お爺さんは 牛と別れる事ができませんでした。売ろうと思っては「こねぇな 年寄りの牛をぅ 買うもんなんか おるもんか」止め、止めては 売ろうとしている間に 日が暮れて 競市が 終わりました。お爺さんは 牛を連れて 家路に付きましたが、足がいばる程の長い道のりだったので 家に着くと 牛は力尽き 死にました。家族の者は「何で 牛ぅ売らんかったんか  売りゃぁ子牛ぅ 買う金の足しになったんに  よざんな仕事ばぁ増えた」と お爺さんを責めました。お爺さんは 悲しみに暮れ 牛を大智明権現の前に それは大きな穴を掘って ざざぶりの中で 体に 鞭打って 葬りました。力落ちして 牛を葬ったので 葬り終わると 力付き お爺さんは 倒れました。お爺さんが 牛を売らなかったので 子牛を買うお金が無く 家族の者は 先々の農作業を思うと 茫然となりした。そんなところに 博労が 寄って来て 牛の購入を勧め、博労は「牛馬講からお金ぅ借りりゃぁえぇが」と 言うのです。家族の者は お 爺さんは けちん坊なので 牛馬講に入ってる筈hazuがないと 思ったので「2倍ぇ利息ぁ払えん」と言って 断ると、博労は「お爺さんは 大智明権現を祀る所に牛 ぅ葬った  じゃけぇ 牛馬講に入っておる」と 教えてくれました。家族の者達は お爺さんに感謝し そのお金で新しい小牛を買う事ができ、その年の年貢を払う事が できました。家族の者達は 牛を人と同じように 大切に飼うようになり、牛に 辛い仕事をさせる時には 大智明神様と お爺さんの墓参りを 欠かしませんでした。「村人より口伝」「牛馬講」「智明権現」を基にした物語    大山道:全国から大山参りが行われました その を 総称して大山道と言います    吉備中央町で大山参りと言えば 伯耆大山参りHouki-daisen-mairiを指しますが、関東で大山参りOoyama-mairiと言えば ,神奈川県伊勢原市大山355番地に建つ 大山阿夫利神社参りOo-yama-Ahuri-jinjya-まいりを指します 伯耆大山角磐山大山寺:鳥取県西伯郡大山町大山9番地 北緯35度23分28秒東経133度32分6秒    耆大山博労座駐車場:北緯35度23分21秒東経133度32分16秒  平成263年(2014年)12月20日