二宮尊徳 Ninimiya-Takanori


上加茂 津賀小学校の二宮金次郎像 Stature of Kinjirou

 Ninomiya in Tuga primary school

429号線沿いの安井前橋の南の交叉点の南に向く分岐を 進むと 直ぐに 津賀小学校の体育館に着きます。津賀小学校の校庭 北緯34度50分43秒東経133度48分11秒に 二宮金次郎立像が 建っています。2025年に、津賀小学校は 閉鎖され、御北小学校とともに 円城小学校に 統合され 加賀東小学校と 改称される予定になっています。 令和5年(2023年)3月18日

 

富永 長田小学校跡 Ruins of Osada-がprimary school

落合加茂川線(66号線)長田ふれあいセンター前バス停の交叉点  富永牛蒡田1426-3番地の南から 北西に向かう分岐を進むと 直ぐに長田ふれあいセンター富永有ノ前1403-1番地)が あります。センターの南の道を 南西に進むと 直ぐに 長田地区農村公園が あります。 長田地区農村公園側の長田ふれあいセンターの敷地 北緯34度52分5秒東経133度45分31秒に 二宮尊徳立像や  長田小学校跡の記念碑が立ちます。

沿革碑には「明治5年四月 明蒙社とし 井原に設立 明治6年四月 富永に 校舎を 設け 富永小学校と 改稱 明治31年2月 現在地に 校舎を 新設 長田尋常小学校と 改稱 明治44年1月 高等科を 設置し 長田尋常高等小学校と 改稱 昭和16年4月 長田国民学校と 改稱 昭和22年4月 長田小学校と 改稱 昭和30年3月 藤村合併に 依り 加茂川町立長田小学校と 改稱 平成元年3月 御北小学校に 統合し 校史を閉じる」と 記され、校歌碑には「昔のなまえそのままに 残る長田のたわのおく 若い命の歌声が 緑の山にこだまする 我が学びやは 長田校 広い心を育てよう」と 記されています。 令和5年(2023年〉3月3日

 

豊岡上 豊岡小学校の二宮尊徳像 Statu of Ninomiya-Takanori on Toyookasyougakkou elemenntary school

豊岡上 豊岡小学校の二宮尊徳像 Statu of Ninomiya-Takanori on Toyooka-syougakkou elementary school

昭和15年頃の豊岡小学校の先生方は、朝礼台の横に立つ二宮金治郎薪を背負い歩き読みする像を例えに「にのみやそんとく先生 とか二宮金次郎は」と 切り出し「貧しかったので働きながら勉強し 二十歳の頃に 酒匂川sakawa-gawaの氾濫で 失った家を 再建し、その腕を 買われ各地の藩の破たんした財政を立て直した偉い人じゃ 皆さんも 見習いなさい」と 訓示するのが習慣でした。「三谷日名の豊岡小学校卒業者の村人より口伝」  大きな戦争が 終わって、平和になりました。アメリカが あちこちの二宮金治郎像を 取り壊しましたが、豊岡小学校では 壊されず残りました。そして 現在では 歩きながらの携帯電話等の操作の危険性が 指摘され始め 二宮尊徳像も 座り姿に 造られる事が勧められる時代になりました。https://ja.wikipedia.org/wiki/二宮尊徳」「rocketnews24.com/2016/03/03/718601/


二宮金次郎みたいに Like Ninomiya-Kinjirou

昭和15年頃の ある小学校は 1学年1クラスで、1クラスは20人程度でした。その中に6年生の一人で 体育の授業でよくソフトボールが行われましたが いつも補欠で 1年生の時から 運動が苦手で 選手になった事が 一度もなかった少年が いました。父親が 獄に繋がれていたこともあり、先生も 生徒も 少年の存在を 避けていても 文句一つ言わず 内気に振る舞う少年でした。だから、友達もいず いつも昼休みには 校庭の隅で 一人ポツンと 草取りをしていて、もうかれこれ3年に なりました。ところが ある日 5年生に 体格も大きく 良くしゃべり、学業 体育に 優れ 学校中の注目を浴びていた少年が 気づき 一緒に草取りを してくれました。人気者の5年生の少年に「お前は 良い奴じゃ  友達になろう」 と 励まされました。後輩の偉そうな振る舞いでしが、少年は 自分の存在に気付いてくれただけでも 嬉しかったのです。思わず 涙を流しました。

翌日の朝礼で 校長先生は 挨拶しました。校長先生の立つ朝礼台の横には 二宮金治郎の立像がありました。5年生の少年は そこに呼ばれ「二宮そんとく先生を 見習い、誰もが嫌がる校庭の草取りを 自主的にしてくれました 皆でその良い行いに 拍手を送りましょう」と 褒め)られました。皆はその後輩を 注目し、拍手しました。昼休みになり いつも通り 誰と遊ぶでもなく、校庭の隅の草取りをしていた少年を 見つけた同級生達は「奴 褒めてもらいとうて 真ぅねしとる  目立ちたがり屋で 嫌(や)な奴じゃ」と 蔑みSagesumiました。校庭を 綺麗にする楽しみが 奪われたのです。校庭に 次第に草が生え、隅の方が茫々として来ました。校庭の隅で有れば 草取りされて綺麗であれば  それはそれで 当たり前の事であり、放置されて 草が茂っていても それはそれで 当たり前の事なのです。

少年は 校庭の隅が 荒れて行く事が 悲しかったのです。そんな少年の後姿を 見ていたのは 二宮金治郎の像と 草の茂る事を喜ぶ蝗Inagoだけでした。少年は 心の中で「蝗のような ぼっけぇ目ぇして 見てくれ  二宮金治郎みてぇに 勤めて 草取ぃしたんは このわしじゃ」と 草叢(の蝗に 向かって話しかけました。「豊岡小学校卒業者の体験談」

二宮尊徳Ninimiya-Takanori:栃木県に 二宮の地名がありますが、金次治郎の名に ちなんでいます 金次郎5歳の時(寛政3年:1791年8月5日)川の氾濫で 一家の田畑を 失いました その時、金次郎は 松200本を 川岸に植えました 父母が 亡くなると、伯父の二宮万兵衛に 引き取られました。勉学好きで 毎夜 書物を 読みたく 空き地に 菜種を 栽培し 種から油を 取り 明かりを 確保しました。20歳で 二宮家を 再興しました。能力を 認められ 武家奉公も 始め、小田原藩服部家の若頭に 抜擢され 服部家の改革に 成功します。小田原藩に 採用され 下野国桜町領(二宮町)の復興に 着手するため 財産を 処分し 桜町へ 転居しました。二宮金次郎の厳しい要求に 農民等は 反発され一端は職を離れますが、125人の使者を 受け 桜町に 再び迎えられました。夏に 茄子Nasuを 食べ 秋茄子の味である事に 気付いて 冷夏を予測し、稗の種を 備蓄し 農民に 植えるよう 勧めました。この予測は 的中し その年天保3年(1836年)から 始まった天保の大飢饉を 餓死者を 出す事なく 桜町を 救いました。その後 烏山藩 小田原藩 諸国の諸村 相馬藩 等の財政を 立て直しました。水野忠邦失脚 天草の乱 近畿水害 ペリー来航  江戸大地震 等の荒波を 超え 奮闘し続け、安政3年(1856年)に 下野国今市の仕法役所で 生涯を閉じました。「https://ja.wikipedia.org/wiki/二宮尊徳」 二宮金次郎の教え:1.真心を 持って実行すること 2.良く働き、勤労 通じて知恵を つけ、自己を向上させること 3.自分の立場や 置かれている状況に 合わせ行動し、身の丈に合った生活を すること 4.節約を むねとし、お金が 余れば、家族に残すか、社会奉仕等し 社会還元に 使うこと 5.小さい努力を 重ね、小さい事柄も 大事に扱うこと  平成23年(2011年)8月16日

 

豐岡下 旧加茂川町立豊岡小学校 Old Toyooka elementary school 

 

旧加茂川町立豊岡小学校は 平成元年3月に閉校しました。現在は「豊岡いきいきプラザ 豊岡簡易郵便局 豊岡診療所」に なっています。豊岡上小森線(371号線)の豊岡上と豊岡下の境界の北北東330m天神山の北300m 豊岡下廣段276-1番地に 建っていました。二宮尊徳像は 校舎正面入り口の南西(向って左)側に 立てられていました。写真の大屋根を 跨ぐような 越屋根状に見える 北隣家の屋根の前の植木の手前です。背景の山は 新山城山です。 平成23年(2011年)8月16日

 

竹荘 賀陽高等学校の二宮尊徳像

 高梁御津線(31号線)賀陽町舎の南の交叉と 正田橋竹荘清水田1664-2番地の東の道向)のほぼ 中間点 石橋バス停の近くに 交叉点があります。北に向かう分岐に 向うとの直ぐに 岡山部品()賀陽工場瀬戸内部品()岡山工場竹荘加大田前kaouta-mae935番地)が 建ちます。その南隣地に「望雲 岡山県立賀陽高等学校 昭和62年3月建之」の大きな石碑が 立ちます。石碑の奧に 二宮尊徳像が建ちます。台座上部に「教育勅語煥発四十五週年記念  二宮尊翁八十年祭  昭和十年十一月建設」と 記され、下段には「名芳者附寄・寄付者名多数」と 記されています。像の左手前に「県立賀陽高等学校」の碑が 立ちます。  令和3年(2021年)7月28日

 

学校跡

円城 円城小学校跡

県道下土井下加茂線(372号線)沿いに 松尾神社上田東御前506番地)が 建ちます。その南東隣地 北緯34度53分32秒東経133度47分46秒が 円城小学校跡です。石碑には 「学校の沿革 明治6年4月 大92番小学開校 15年4月 円城小学校と 改称 26年4月 円城尋常小学校と 改称 昭和16年4月 円城国民小学校と 改称 22年4月  円城小学校と 改称 36年3月 加茂川町立 円城小学校となる 55年3月 高富小学校 との統合により閉校 同4月 新たに 円城小学校として 開校 63年4月 kyuu円城中学校跡地に 移転」と 記されています。 円城小学校:円城玉澤776-1番地 北緯34度53分30秒東経133度48分27秒     平成4年(2023年)1月1日

 

下加茂 津賀中学校跡

429号線から加茂新橋と加茂橋とが宇甘側がかかります。加茂橋を渡りその北には住宅を挟み吉備中央町役場加茂川庁舎があります。加茂新橋を渡り西に70m程進むと北側に広岡ぢは病院と吉備中央町下加茂診療所があります。それらの西にユーサン精精密(株金型工場)があり、その宇甘側に津賀中学校跡の記念石碑が立っています。

 

豐岡上 御北中学校閉校記念碑

 豊岡八幡宮の南に 御北小学校豐岡上正面139-1番地)が建っています。校門の南西 北緯34度53分52秒東経133度45分37秒に 御北中学校閉校記念碑と 沿革碑が 立っています。沿革碑には「沿革 御北中学校 昭和22年4月1日 学制改革6・3制実施に伴い 御津郡豊岡村・長田村学校組合立 御北中学校の設立 が認可される 昭和22年4月28日 開校式。暫定的に 御北青年学校 長田小学校施設の一部を 使用 2校舎に 分かれて授業を開始する 昭和25年1月8日 現在地。御津郡豊岡村大字豐岡上142番地の1に 御北中学校新校舎完成 2校舎より移転 授業を開始 昭和30年3月31日 御北5ヶ村合併し 加茂川町が 発足 それに伴い 校名が 加茂川町立御北中学校と 改称される 昭和37年4月1日 新山中学校と 統合 加茂川町立御北中学校と 称する 昭和55年5月21日 町内三中学津賀中学校 円城中学校 御北中学校)を統合 加茂川中学校設立が 議決される 昭和61年3月3日 学校統合により 御北中学校の校史を 閉じる 卒業生2748名を 世におくる 新山中学校御北中学校閉校記念事業として 昭和61年3月〇の記念碑を 建立する 能瀬文雄書」と 記されています。 令和5年(2023年)3月5日

 

竹荘 竹荘中学校跡

高梁御津線(31号線)沿いの新砂田橋  或いは 砂田橋竹荘砂田790-2番地の東)を渡り 竹荘砂田791-1番位の南を 西に入ると 直ぐ に 旧町立竹荘中学校のグラウンド跡に 出ます。研修農場を兼ねた 観光農園を 設置されていましたが 現在は 更地になっています。グラウンド跡の南東隅に ボールを 両手で  頭上に差し上げた 少女像が 立ちます。台座には「希望 昭和38年度卒業記念」と 記されています。北東に 「吉備中央町賀陽町舎」や「 ロマン高原かよう総合會舘 ロマン高原かよう図書館」が 建ちます。 令和5年(2023年)2月2日

 

西 大和中学校跡

大和郵便局から 総社賀陽線(57号線)が 北西から北東に曲がる交差点から 西北西に60m進むと 北側に戻る方向に向いた分岐があるので、総社賀陽線を潜り 東に120m程進むと 野伏川に沿い 西壹町地340-1番地を角にする分岐が 東に向かいます。270m程 東に進むと、北緯34度47分32秒東経133度41分18秒の旧大和中学校の入り口の広場に着きます。「夢・希望・未来」の左手で本を抱え、右手を上方に伸ばし 未来に向け 指さすような姿の少女の立像が 立ちます。その脇に「大和中学校閉校記念碑」が 立ち、「友愛 校歌詞(校歌 作詞 佐藤末次 作曲 山口縫子 一、大和山の紫を 遥かの空に仰ぎつつ 輝く眸はつらつと 希望に燃えて勢うもの 意氣あり大和通学校 二・水上清き原川の 瀬音に心澄ませつつ 友愛花とかぐわしく 真理の道を進むもの 夢あり大和中学校 三・風雪絶えてたくましく 若草匂う学舎に 知徳を磨き身を鍛え 郷土の明日を担うもの 栄あり大和中学校  一九五九年十一月三月制定)校章が 記され 上房郡 大和途中学校の金属札 吉備中央町立大和中学校の金属札が 付けられています。裏面には「沿革 昭和二十二年四月 岡山県吉備郡大和村 大和中学校設立許可 開校式第一回入学式を旧大和小学校校舎で挙行 昭和三年二月 町村合併により 上房郡加賀町立や加と中学校と改称 昭和六十年三月 新校舎落成 平成十六年十月 町村合併により 吉備中央町立大和中学校と 改称 平成二十六年三月 町内四中学校合併により 閉校 平成二十六年五月吉日 建之 閉校記念碑建立有志一同」と 記されています。隣接する橋は「やまとちゅうがっこうはし」です。学園跡は  捨て猫の保護施設「ティアハイム小学校」になっています。 令和5年(2023年)1月20日

 

宮地 旧大和小学校跡地

明治5年(1872年)に 回春小学校 北小学校 岨谷簡易小学校が 開校しました。その後、明治25年(1892年)に 回春小学校 北小学校 岨谷簡易小学校が 統合して 大和小学校が 尋常小学校が 宮地の丘に 開校しました。昭和22年(1947年)大和小学校と改名し その後現在の大和小学校の地に 移転しましたが、跡地に残る 「蛍雪」の記念碑には 1963年(昭和38年)移転と刻まれてます。大和小学校のホームページには、1964年(昭和39年)10月移転と記されています。嘉平太の歌碑「大わさに 抱かれて学びし学び舎の 後にたたずみ仰ぐ大和山」が あります。    令和4年8月15日

 

湯山 岡山県立吉備北陵高等学校

岡山県立吉備北陵高等学校 岡山県加賀郡吉備中央町湯山塚ノ本1028番地にあった 学校です昭和54年1984年に 岡山県立賀陽高等学校と 岡山県立加茂川高等学校とが 合併し 岡山県立賀陽高等学校となりました。昭和62年(1987年) 岡山県立吉備北陵高等学校へ 改称しました。平成20年(2008年)3月に 高等学校再編により 岡山県立高梁高等学校に 統合されました。跡地は 吉備中央町立加賀中学校と なっています。加賀中学校になったため 校碑等は 整理され、北陵高校の面影は このモニュメントだけになりました。 令和5年(2023年)2月14日