慶安御触書 Keian-Ohuregaki "Documents issued by a shogun to convey general political messages and other things"


慶安2年(1649年)に 慶安御触書が 出されました。百姓の着物は 木綿に限られ 赤や 紫に染めてはならず、櫛Kusiや簪Kanzasiは金 銀 鼈甲Bekkouで 有ってはならず、袴は 麻製で 庄屋と50石以上の者以外 着てはならず、百姓は 蛇の目傘 日傘を差し 下駄Getaや 雪駄Settaを 用いてはいけませんでした。家の修理は 大庄屋の許可を得て、新築は 郡奉行の許可を得て、瓦葺Kawara-bukiにしたり 屋根の交換は 郡代の許可を 得なければいけませんでした。村外間で の縁組は 郡奉行に届け出、嫁入りは 寺の宗旨Syuusi(信仰の種類) 往来手形を 携帯しなければいけませんでした。

雛祭りの幟(Noboriは 一戸当たり一本とし、雛は 一対だけでなければならず、祭礼 祈祷 法会は 原則禁止で やむを得ない時は 特別の許可が必要でした。相撲(Sumou 能 歌舞伎Kabuki 奇術Karakuri 狂言Kyougen 等の見世物は 禁止されました。帯刀Taitouの者に出合った時は 笠を脱ぎ、道を譲らねばなりませんでした。村を出るには 許可が必要で、他国に 奉公する事は 許されませんでした。旅行が 一泊の時は 五人組に、2泊以上の時は 組頭と 庄屋に届け、10泊以上の時は 大庄屋や 中庄屋に、1か月以上の時は 郡代の許可が 必要でした。四国霊場廻り 西国霊場廻り 伊勢参宮 等する時は 村役人が 事実状況を調査し 許可すると、五人組と 親族の連判と 寺の宗旨証明書を 郡代に提出、その複製を 携帯しなければいけませんでした。「賀陽町史」「加茂川町史」

 

未だ 庶民が 墓を持てなかった程の昔 引地に 川吉と言う男がいて、病弱故に 農業の知識も 乏しく 貧乏暮らしを していました。そこに 何やら 悪をなして自国を 追放された舞子と言う女が 流れて来ました。汚らしい格好を していたので、村の者は 気持ち悪がり 追い払おうとしました。村外れの川吉の家の前 で野垂れ死にNotare-jiniしそうだったので、稗Hieの飯と 清い水を与え 軒を貸してやりました。朝起きて見ると 女は薬草を 摘んで来て、川吉が 起きるのを 待っていました。医術の心得がり それを煎じて 飲ませ、農業の知識に 優れいて 野良仕事を 手伝い始めました。献身的に 川吉の病気の世話の甲斐あって 川吉は 次第 に健康を取戻し 耕作に励むようになると、舞子は 機織りのため 庄屋の家に通い、夜鍋Yonabeをし 生活を支えました。庄屋は 御触書の見本のよう な川吉 と舞子を 夫婦にしようと、郡奉行( 郡代)に その許可を 得ようとしました。舞子は 往来手形と 寺の宗旨証明書を 持ってはいましたが、放浪の途中 雨泥で 傷み 良く判読できない状態でした。庄屋 と郡奉行はそうと知りつつ 二人を 夫婦と させました。根を詰めて働き 蓄財し、衣食住の不自由も なくなりました。豊かになると舞子本来の悪女ぶりが 目立ってきました。派手に 着飾り、日傘を差し 高下駄Takagetaを履き 酒煙草Sake-Tabako 茶飲みに 耽る(hukeruようになりました。村の者は「お前の嬶Kakaa)は 御上の御触書Ohuregakiに 背いている」と 囁きsasayakiました。ついに川吉 は舞子に「いい加減にしてくれ  毎年 同心が 村に廻って来て 条目を読み聞かされ、誓書を書かされる度に 心苦しい  以前のように 御触書の見本のような夫婦 に戻ってくれ  世話になった庄屋さんや 奉行様に 顔向けできん」と 言うと、舞子は「何を言うのさ 御触書では 子供が多かったり 前に恩を受けた妻なら 特別にこれ位の贅沢は 許されているわ  うちは お前様の健康の恩人だし、農業師範Sihanとしての恩人でもあるでしょ  離婚はしません」と 言い返したのです。これを境に 人も羨むurayamu夫婦は 犬猿の仲となり、家庭内別居が 始まりました。川吉は 家にいるのが 嫌になり「心を浄め、お国のために尽くせる人間になりたい」と 郡奉行 に申し出、中国霊場巡礼の旅に 出ようとしました。舞子は 舞子で 川吉の顔も見たくないので 同意の印を押し 送り出しました。暫くsibarakuはsibarakuは 舞子は「清々した  これで気兼ねなく 遊べる」と 思いましたが、一人暮らしになると 贅沢ぶりは 御上に咎めtogameられ、 又一人暮らしが とても寂しい事に 気付きました。川吉も「清々した  神仏を崇める世界は さぞ充実しているだろう」と 思いました。神仏の前で 心を鎮めると 妻の過ちは 些細(sasaiな事のように思え 気が重くなりました。川吉は 巡礼を そこそこに切り上げ いそいそと 家に戻って 見ると、継ぎ接ぎTugihagiだらけの着物着、化粧もしていない舞子が 笑顔満面に 涙して飛び出し、抱き付いて来ました。そして二人は 同時に「沢山の子供を 作ろ う 子育てに忙ければ 悪い事は考えなくて済む 貧しくても二人で 力を合わせ今を精一杯生きている時が 一番幸せなのだ  御上は子 が多い時には 口減らし に奉公に出せと 言うが、二人で 沢山の子を育てよう  年取った頃 沢山の子供が 一人前になった時、自由な生活 をしよう  その時は静かに 美味しい極楽のお茶が 楽しめよう」 言い合いました。二人は「幸せは不幸を 乗り越えようとする努力の中に 有る 幸せを得たと思う時には 既に 心の穢れKegareが 生じ始まる  幸せは幸せでない時しか 想像できない  幸せな時は それが平常であり 幸せと感じない 幸せ過ぎると言う感覚は 不幸であれば ある程 強く感じられる  故に これ等は同じ心理を 別の言葉 で表しただけであり、結果として 幸せと 不幸は相対性の概念である」と 理解し 質素な幸せな生活を しました。「吉川引地の村人との雑談」を基にした物語です。       

引地:吉川3812・3835番地等 引地の地名の由来は鍛冶の神「日吉」の転訛、あるいは入植地か新規共同開墾地を籤Kujiを 引いて得た地の意味でしょう。    慶安御触書: 徳川幕府 第3代将軍徳川家光の治世の元 慶安2年(1649年)に 江戸幕府は 農民を統制するために 発令した幕法と 言われる文書ですが、幕法でなく 心得書であったようです。諸國郷村江被仰出 附隣郷之者共中能他領之者公事抔仕間敷事 慶安御触書(けいあんのおふれがき)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp」        平成26年(2014年)9月3日