厄神社(仮称) Yaku-jinjya  疫淸神社 Ekizumi-jinjya


厄神Yakujinとは、災厄をもたらす悪神行疫神Gyoueki-jin)ですが、神には二面性があり 厄除けの神や 仏も 厄神と呼ばれます。厄神は一般に 厄神明王 Yakujin-myouou( 愛染明王Aizen-myouou不動明王Hudou-myououが一体化した仏)や 八幡神Yahata-no-kami/Hatiman-sin(「〇〇の厄神様」の異称を持つ八幡神社が多くあります)ですが、吉備中央町では これ等の神仏を 厄神として祀っ神社や 寺院を参詣できたことは無く、「厄」の付く神社の多くは 素戔嗚命を 祀り神と します。 ちなみに京都市東山区祇園町北側625番地 北緯35度0分13秒東経135度46分43秒の八坂神社の境内摂社の疫神社の祭神は 7月31には 蘇民将来命Somin-Syourai-no-mikotoのお祭(疫神社夏越祭)をします。利益は 疫病除け等です。www.yasaka-jinja.or.jp/event/ekijin.html」 岡山市北区東古松1-2-19番地 北緯34度38分59秒東経133度55分1秒の疫神社の祭神は素戔嗚命Susa-no-o-no-mikotoで、利益は厄除け等です。https://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/16400/」 倉敷市連島町西之浦3815番地 北緯34度32分56秒東経133度43分25秒の厄神社の祭神は 神速須佐之男命Kamuhaya-Susa-no-o-no-mikotoで 利益は 病気平癒 災難除け等です。https://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/16826/」 広島県安芸高田市吉田町吉田477番地 北緯34度40分12秒東経132度42分20秒の清神社の主祭神は 素戔嗚尊で、利益は疫病除け等です。新見市哲西町八鳥593番地 北緯34度54分33秒東経133度19分37秒の疫清神社の祭神は 素盞嗚命で、利益は疫病除け等です。「 nonmasashi.blog.jp/archives/1058620085.html」  兵庫県神戸市垂水区高丸一丁目3-5番地 北緯34度38分7秒 東経135度3分21秒瑞丘八幡神社の厄神様の祭神は 神功皇后(息長帯比売命) 応神天皇(誉田別尊) 比咩大神Hime-ookami(宗像三女神、天満大神Tenman-ookami(菅原道真公) 荒大神Kou-ookami(奥津彦神奥津姫神) 豊太閤Hou-taikou(豊臣秀吉公)で 御利益は 厄除開運 家業繁栄 家内安全 安産育児 交通安全 八幡大神のG利益 学問(天神さま)台所の神のご利益 荒神さまのご利益 そして立身出世の神さま'(豊太閤さま)のご利益等です。兵庫県丹波市柏原町柏原3625番地 北緯35度7分51秒 東経135度04分46秒柏原八幡神社Kaibara-Hatiman-jinjyaの厄神様の祭神は  誉田別命Honda-wake-no-mikoto 息長足姫命Okinaga-tarasi-hime-no-mikot 姫三柱之命多紀理比賣命 多紀都比賣命 市杵島比賣命で 御利益は 厄除け 家内安全 災難除 勝負事等です。京都府南丹市園部町内林町1-117番地 垣内古墳Kaiti-kohun内林厄神宮の八幡疫神社 両神社 とも厄神さんです。兵庫県加古川市八幡町野村580番地 北緯34度47分4秒東経134度55分25秒の宗佐厄神八幡神社Sousa-Yakujin-Hatiman-jinjyaの祭神は 品陀別命Honda-wake-no-mikoto(八幡大神)息長足媛命Okinaga-tari-hime-no-mikoto 仲姫命Nakatu-hime-no-mikotoで 御利益は 厄除け 魔除け 安産 育児等です。 スサノオと牛頭天王の集合:日本神話によると スサノオ(素戔嗚尊)が新羅の曽尸茂利/曽尸茂梨ソシモリ)という地に高天原[から追放されました  「ソシモリ」は 朝鮮語で「ソシマリ」「ソモリ」と 発音するとされ 牛頭または 牛首を意味だそうです  朝鮮半島の各地に 牛頭山という名の山や 牛頭の名の付いた島が あるとされます  また ソシモリは 「ソの民:蘇民」の意味だと されます  そして 牛頭天王薬宝賢明王とよばれ、薬師如来本地仏とします スサノオの悪神ぶり:伊弉諾命が 引退する時、須佐之男命は 夜の食国Yoru-no-Osukuni または 海原を治めるよう 命じられましたが、死んだ母の伊弉冉命に遭いたくて 泣きじゃくってばかりいて 治政を怠りました  そのため 川も海も荒れ果て 世に悪神と災いを 招いてしまいます  この後も 高天原で悪さをしまくり 高天原から追放されます 牛頭天王の悪神ぶり:豊饒国Houjyou-koku太子は 王位を継承して牛頭天王となりましたが、あまりの醜さ故に 后を迎えたかったのですが 近寄るは いませんでした  牛頭天王は びたりの毎日を送り 治政を怠ったので、悪人が はびこり災いを まねきました   3人の公卿が 天王の気持ちを 慰安しようと 山野に狩りに連れ出すと 一羽のが 大海に住む 沙掲羅龍王Syakatura-ryuuou(八大龍王の三娘は ブオトコが 好き過ぎ 婿が選べないでいると告げました。鳩に 案内を頼み 牛頭天王は を 娶りに出かけました   旅の途中 長者である古單將來Kotan-syouraiに 宿所を求めましたが、慳貪Kendonな 古単古端 巨端は これを断り 追い払いました。宿もなく困っていると 貧乏そうな 兄の蘇民將來Somin-Syouraiの家を 見つけ  一宿を願うと 歓待して宿を貸し なけなしの粟飯を振舞いました。感謝した牛頭天王は 願いが 全て叶う牛玉を 蘇民に授けました  龍宮へ赴いた 牛頭天王は 沙掲羅の三女の 頗梨采女Harisaijyo/Harisainyoを 娶り 七男一女の王子八王子を もうけました  豊饒国への帰路に 牛頭天王は 八万四千の眷属を 率い 悪名高い古単を 退治する事にしました。古端は 千人ものを集め 大般若経を 七日七晩 読誦させ 結界を張りましたが、法師の一人が 居眠りした隙に 結界を破り 古単の眷属五千余全てを 蹴り殺されました  この残忍な戦いの時 牛頭天王は 古単のだけを 蘇民将来の娘であると知ると「をり 赤の房を下げ「蘇民将来之子孫なり」の護符を付ければ、末代迄も 災難を逃れられる」と 除災の法を教え 除名しました茅野輪潜り参照の事)

案田 化気神社の疫神社 Yaku-jinjya-of Kegi-jinjya

北緯34度45分19秒東経133度49分22秒 案田氣喜Kegi5番地に化気神社が建ち、本拝殿の左手 神輿蔵の脇に一宮社の疫神社が 建ちます。社の脇に 石碑があり、疫神社の由緒「疫神社ハ船津村塩谷字天王一〇〇一番地ノ一二鎮座シ塩谷大目ノ守護神トシテ崇敬サレ特に高瀬舟筏等旭川水運ノ神トシテ尊バレテイマシタ旭ダム建設二伴イ水没スル事二ナリ昭和二十七年二月十日塩谷字堂風呂三六四番地(天王旅所)ニ御遷シセルモ塩谷住民御里ヲ離レ転出ノタメ平成三年十月十三日塩谷大目崇敬者二依リ化気神社境内二末社トシテ御遷座セルモノナリ」が 示されています。 天王旅所とあるので 祭神は 牛頭天王素戔嗚命でしょう。  ゴオウ:船津776・795番地等 ドウブロ:船津360・367番地等    堂風呂:船津361・368番地等 天王旅所:船津364番地    牛王前:船津581-588番地 尾塩谷:船津592番地     平成29年(2017年)10月9日

 

上加茂 鴨神社の厄神社 Yaku-jinjya of Kamo-jinjya

北緯34度51分6秒東経133度49分22秒 上加茂宮坂Miyazako471番地に 鴨神社が 建っています。境内に 金刀比羅宮があり、多くの小社が 合祀されています。その中に 素盞嗚神社Susa-no-o-no-jinjya  厄神社が あります。厄神社には 神速須佐之男命Kamuhaya-Susa-no-o-no-mikoto(素戔嗚尊)を 祀ります。 宮坂:上加茂443-447・462・464-473・481番地 觀音堂:上加茂400・438番地等 宮ノ上・宮上:402・516番地等 宮米:上加茂408・491番地等 宮坂下:上加茂463番地 清経・清常:493・1011番地等 矢坂:上加茂497番地 宮ノ前:上加茂512・601番地等 清経:上加茂915・987番地等  平成25年(2013年)1月13日

 

加茂市場 加茂総社宮の疫神社 Yaku-jinjya

 加茂総社境内の北側に 一社宮が 7社 祀られています。右端の社は 火御崎社、次のやや大きい社は 森神社です。次の社が 疫神社です。疫神社には 蘇民将来Somin-Syouraiを 祀ります。 蘇民将来・天徳神:災厄払いの神、疫病除けの神、福の神です  また、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を 貼っておけば 除災のご利益が 得られます  ちなみに 備後の国の風土記に「昔、北の海に坐しし 武塔の神、南の海の神の女子をよばひに出まししに、日暮れぬ  彼の所に 将来二人ありき  兄の蘇民将来は 甚く貧窮しく、弟の(巨丹将来)は 富饒みて、屋倉一百ありき  爰に、武塔の神、宿処を借りたまふに、惜みて借さず、兄の蘇民将来、借し奉りき。即ち、粟柄を以ちて座と為し、粟飯等を以ちて饗へ奉りき。爰にkokoni畢へてoete出でませる後に、年を経て、八柱のみ子を率て還り来て詔りたまひしく、「我、将来に報答為むnasan  汝が子孫其の家にありや」と 問ひたまひき  蘇民将来、答へて申ししく、「己が女子と斯の婦と侍ふsaburou(貴人の元にいます)」と 申しき  即ち詔りnotamawariたまひしく、「茅の輪ti-no-waを 以ちて、腰の上に着けしめよ」と のりたまひき  詔の随に着けしむる(言う通りにすると)、即夜に 蘇民の女子一人を置きて、皆悉にころしほろぼしてき  即ち、詔りたまひしく、「吾は 速須之雄の神なり  後の世に 疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を 以ちて腰に着けたる人は 免れなむ」と 書かれています 加茂総社の社叢:北緯34度51分54秒東経133度45分30秒 宮ノ前:加茂市場1560・1577番地等 惣社:加茂市場1567番地  平成25年(2013年)8月14日

 

下加茂 巫女岩 Miko-iwa in Simogamo

下加茂明神山の麓humotoと 宇甘川Ukai-gawaの川中に 巫女岩と呼ばれる大きな 花崗岩があります。明神山には 文覚屋敷Mongaku-yasikが あって、文覚上人が 住んでいたとされます。明神山の向かいに 坊主山が あります。坊主山には 巫女が 住んでいて 二人 は修業を 一緒にしていたので、二つの山に 綱を張って往来していました。ある時 巫女が 誤って川の岩の上に 落ちて死にました。巫女 は無病を研究していたので 村人は 病気治癒の神として崇め、憐れんで 祠を建て 幟を立て祀ったそうです。病気の 快癒Kaiyuに 御利益Goriyaku\が あるそうです。邪道で人を騙し 神通力を得て 巫女になった女の 溺死した所とも 言われます。「加茂川町史」 村人は「病気になると 参詣していた  特に疣に は絶大なご利益があり 何度も助けられた語り」と 語りました。 

文覚屋敷:下加茂明神山の西南側の谷筋の中腹北緯¥度¥分¥秒東経度¥分秒付近に 4m×4mの古墳2基があります  昭和4年(1767年) に碑を建て 毎月 文覚屋敷に 献灯されていましたが、平成の時代には 人が 訪れなくなったので 愛宕山の宋林寺が 碑を 寺内に移しました   文覚屋敷は 前方後円墳で 上部は 破壊されていて、壊された 炭焼き釜状の形をしています「加茂川町史」    明神山頂上:下加茂姫芝1825番地の東 約500m 北緯34度51分16秒東経133度49分29秒 坊頭山頂上:下加茂姫芝1825番地の南西 約350m 北緯34度51分6秒東経133度48分56秒  かつて 寺が建っていたそうです  頂上には 大岩が散乱しているそうです  未だ登山していません

巫女岩:明神山と坊頭山の中央 下加茂姫芝1825番地の南南東 約210m 北緯34度51分10秒東経133度49分10秒の明神山側の川岸に接しています  この岩に参り疣を治してもらったと言う人がいます  先に示した「女性的な 形の岩が 巫女岩だ」と指摘した人は「白い塗料で 八の字の書かれた女性的な姿の川中の岩が  巫女が落ち 身を砕いた岩で、川岸の岩 が病気平癒の霊力を持つ岩だ   川中の岩も祭りの場だったが 何度も 増水で 祠や 幟 が流されたので 川岸の大岩の上に 祠を移した」と言います  女性的な「女性的な姿の岩は 巫女岩と関係ない」という 久西の村人もいました  川岸の岩は 大雨になる度に 川上に 少しづつ移動するそうです  川上の砂が流されるからでしょう

文覚供養碑:下加茂田中2046番地宗の宗林寺の南西 北緯34度51分30秒東経133度48分49秒  文覚「文覚上人の墓標が明神山の文覚屋敷の前に有り 毎年お詣りしていたが、時間も労力もかかり危険もともなう」ので 宗林寺参道の左脇の斜面に 移されました    明神山:下加茂久西の村人は、水晶雲母モリブデンが 採れたと言います 「加茂鉱山は昭和8年1933年)頃に、モリブデン(輝水鉛鉱Kisuienkou)を採掘していた 最盛期には80人ばかりが 働いていたようです  銀屏風を立てたような 立派な鉱脈で 戦争中であり 兵器生産に利用された  鉱脈は切れると ガラスの原料として 硅石を採掘していたが 昭和20年頃と推測されるが 鉱山を 買受けた人の死去により 自然消滅した」たと言う人もいますhttps://ameblo.jp/narivans/entry-12359742393.html」 市場:下加茂1052・1087番地等 久西:下加茂1059・1299番地等 日名荒神:下加茂1121・1128番地 二海:下加茂1126・1127番地 日吉神社:下加茂1121・1129番地等  平成263年(2014年)10月2日 

 

豊岡上 屋根尾に建つ當疒神社  Toubyou-jinjya in Yaneo

豊岡上小森線(371号線)の豊岡上船堀上の豊岡いきいきプラザ豊岡上堂前126-1番地の間の道を 北に向かうと 奥屋谷川が 有るので 橋を渡り 山に向かうと 直ぐに 東に向かう分岐があります。分岐を東に登ると なだらかになる辺りに 稲荷神社が 建っています。そこより更に 東北に 山道を登ると 広い道に出合います。左に進むと 西に大木集落を見渡せる 眺望良好地があり、そこを過ぎた辺り 北緯34度54分50秒東経133度46分19秒に 壊れかけた土壁造りの創庫らしき建物が有ります。その庭に 當疒神社が 建っています。そこより道なりに 北北東に登ると 左手 北緯34度54分52秒東経133度46分12秒に 一宮社が 2社建っています。古く新しい社は 倉稲魂神社で、比較的新しい小さい社は いかなる神が祀られているか解りませんが、前述の當疒神社と 大きさ、構造、新しさとも 同じなので 恐らく當疒神社でしょう。ここより 北に向かうと 竹吉屋敷を通り 屋根尾集落に出るのでしょう。 厄除けを 願うための神社でしょうか。「とうびょう」を 祀るのでしょうか。 とうびょう:中国 四国地方で 信仰される 憑き物Tukimonoで、小さく細長い 杉箸Sugihasiの蛇のような形をしていて 瓶の中で 飼われます それ故 土瓶と 書かれる事が あります。頸部に 白 あるいは 黄色の帯状模様があると言われます 備中地方では  神として祀る所が あり、酒が好物と 言われます  とうびょうは 夜中に出て 他家の物を持ち替えるため とうびょう持ちの家は 金持ちになるとされます  縁組みにより その家も とうびょう持ちとなると され とうびょう持ちの家殿を 縁組を嫌がります  とうびょうに 憑かれた人は 神経痛のように 痛みがあると されます 京納屋敷四枚:豊岡下200番地 亀納鼻:豊岡下209番地 荒神下:豊岡下214-216番地 竹吉屋敷:豊岡下227・228番地 屋根尾:豊岡下238・349番地等 矢納尾:豊岡下254番地 鐘突堂下:豊岡下241番地 墓ノ段:豊岡下281・283番地  平成29年(2017年)5月4日

 

岨谷 馬越に建つ疣の神社と耳の神社 Wart shrine and Ear shrine in Makodsi 

地神碑 野俣宮の案内石柱 馬越橋(北緯34度46分33秒・東経133度43分33秒)のある場所で 赤谷川を渡り 岨谷乢ノ前Tawa-no-mae1943番地の東の車庫の前の階段を ジグザグに 登ります。山の中腹辺りに 平坦地が有り 2つの祠が 祀られています。疣の神様Ibo-no-kamisamaと 耳の神様と される神様です。どちらも 神様はお留守です。どちらが どの神様の祠であるか解りませんが、疫神社と 才の神社でしょう。吉備中央町布郡の 龍王宮(祭神は素戔嗚命は  疣の神様として 信仰されています。疣に徳のある神社や 寺院は 全国に無数あります。多くの疣は 放置していても治ります。耳の神様で よく知られている神社は 広島県尾道市因島土生町1424-2番地(北緯34度17分28秒東経133度10分40秒)の「大山神社Ooyama-jinjya耳明神社Mimigo-jinjya」で 祭神は 天児屋根命Ame-no-koyane-no-mikotoです。馬越には カナ場 等 製鉄地名が多いので 製鉄作業に伴う 火の粉や騒音 で目や耳を 患う人が多かったのでしょう。    布郡龍王宮:龍王宮の山の頂上より やや手前に 半鐘を 吊るしていた石柱が 立っています  石柱の右奥 北緯34度50分6秒東経133度44分18秒に 小さな一宮社の龍王宮が 祀られています。布郡に夕日山 朝日山があると言われています。龍王宮の手水鉢に 溜った水で 皮膚病 特に疣の有る部位を 洗うと 疣が治ると されます    耳の病に徳のある才の神:杉谷才の神社 北緯34度56分37秒東経133度45分3秒  柏尾才ノ神社 北緯34度53分54秒東経133度48分4秒    乢ノマヘ・タハノマエ:岨谷1943・1960番地    才ノ乢:岨谷1944・1945番地 クロノ内:岨谷1933・1941番地等    城山:岨谷1951-1953番地 ニゴタ:岨谷1968-1970番地    カナ場:岨谷1976番地   カウヤ:岨谷2004番地 神東:岨谷2008番地 ハリコ町:岨谷2018・2020番地    車脇:岨谷2042-2047番地 馬越:岨谷2050番地    甚右衛門屋敷:岨谷2067・2073番地 大井手:岨谷2102番地    ホトビ田:岨谷2104・2155番地等 流田:岨谷2142-2144番地    流田:岨谷2657・2658番地 赤ノ谷・赤谷:岨谷2151・2201番地等 八割:岨谷2162・2169番地等  平成24年(2012年)4月12日

 

田土 瓜尾の八十禍津賣神社 Yaso-Magatu-me-no-kami-sya

高梁御津線(31号線)川合神社から 西に向かうと 宇甘川が迫る所に土生橋が 架かっているので 橋を渡り 大きくS字状に曲った後 ドンドン登ると 田土賣尾向3310-7番地の北に賀陽土生庭園が 有ります。西に向かう分岐 は直ぐに2つのT字路になるので 道なりに進み 田土屋シキ3700番地を右手に見て 山道を登ると 北緯34度51分19秒東経133度43分9秒に 地蔵が菩薩が 祀られています。左手に荒神宮の鳥居が立ち鳥居の奥上に 一宮社が2社建ちます。左の社は 瓜尾荒神社で 右の社のなかには更に一宮社が2社あります。その左の社は 護王神社天太玉命Ame-no-Huto-dama-no-mikoto 天児屋命Ame-no-Koyane-no-mikoto 天鈿女命Ame-no-Ù-me-no-mikotoが 祀られており、また経津主神社Hutu-nusi-jinjyaであり 疫神八十禍津賣神Yaso-Magatu-me-no-kami-syaでもあります。その右の社は 経津主神社です。    八十禍津賣神:八十禍津日神Yaso-Magatuhi-no-kamiの事でしょう  伊邪那岐命Izana-gi-no-mikotoが 黄泉国Yomi-no-kuniから 逃げ帰り 洗い落とした穢れたの垢から生まれた神で、多くの災いを もたらす神です    ハブヤシキ:田土3521・3530番地等 紙屋・カミヤ:田土3524・3533番地等    平成29年(2017年)9月5日

 

宮地 天王様・疫清神社 Ezumi-jinjya/Tennou-sama in Miyati

大和神社の南の道を 西に向かうとJA備北大規模乾燥施設が 有ります。幅広い道を渡り 宮地塚原539-1-1から 北に向かうと 十字路となり 宮地中曽331番地なかぞうラーメン店に 出ます。そこより道向かいの宮地中曽331番地の空き屋を回るように  西北に 山道を進むと 疫清神社が 建ち 素戔嗚命が 祀られていました。大和神社に 合祀されていますが、現在でも この祠で3月末に 神楽で 祭が 行われています。 塚原ノ前:宮地526・547番地等 中曽:宮地329・598番地等 宮乢:宮地432・481番地等 宮谷:宮地445番地  平成29年(2017年)6月8日

 

宮地 大和神社の疫隅神社 定国神社 疫清神社 Ezumi-jinjyas of Yamato-jinjya

 宮地i宮谷445番地 北緯34度47分47秒東経133度45分7秒に 大和神社が 建ちます。明治43年(1910年)に 大和村北 西 岨谷 宮地にあった35の小社が 村社八幡宮に 合祀され、一村一神社となし、大和神社と 改名されました。その合祀された小神社に 大和村大字北の古和田の古和田神社Kowada-jinjya(祭神不詳)   大字岨谷 天王の疫隅神社Ezumi-jinjya(素戔嗚命  定国の定国神社(荒神社:猿田彦命 定国神社:素戔嗚命 龍神社:豊玉姫命   宮地の中曽の疫清神社Ezumi-jinjya(素戔嗚命) 天王山野伏の疫隅神社Ezumi-jinjya(素戔嗚命)が含まれています。「賀陽町史追補版」     宮乢:宮地432・481番地等    黒田:宮地274・446番地等     古和田「小和田」:北244・362番地等 天王「天王・天皇」:岨谷1198・1204番地等 定国 「定國」:岨谷1205・1233番地等 中曽:宮地329・598番地等 天王山野伏「野伏」:西945・1010番地等 天王山:西1303-1318番地  平成16年(2004年)8月24日

 

吉川 正行疫淸神社 河内田沼淸神社 苅尾窪凊神社 Masayuki-Ekizumi-jinjya, Kawatida-Numazumi-jinjya and Kario-Kubozumi-jinjya of Yosikawa-Hatiman-guu

北緯34度49分11秒東経133度45分7秒 吉川苅尾3932番地に 吉川八幡宮が 建ち、多くの摂末社が 合祀されています。その中に 正行疫淸神(祭神 素戔嗚尊) 河内田沼淸神社(祭神 素戔嗚尊 稲田姫命Inadahime-no-mikoto) 苅尾窪凊神社(祭神 素戔嗚尊)が あります。   正行:吉川4251・4840番地等 神崎:吉川5013番地    天王山:吉川433・446番地等    河内田:吉川434・435番地 込堂:吉川930・1075番地等 苅尾・刈尾:吉川938・1191番地等 金鑄場:吉川940番地  平成24年(2012年)7月7日

 

吉川 河内田亥の子様の疫淸神社 Ekizumi-jinjya of Kawatida-Inoko-sama

北緯34度49分6秒東経133度45分33秒に 建つ亥の子様の堂内に山の神神社 疫淸神社Ezumi-jinjya 荒神社が2社 観音菩薩らしき仏像が 祀られています。疫淸神社は吉川八幡宮の末社で、吉川八幡宮に 合祀された筈ですが、現在も 河内田天王山に 建っており、祭が行われています。

祭神は 素戔嗚尊Susa-no-o-no-mikoto 櫛稲田姫命Kusinada-hime-no-mikotoです。かつては 栄え、角口(酒店の名前でしょうか)甘酒の出店が 有ったと言われます。社内に 祀られる祭神像は 冠を頂き、両手で印を結んでいるようです。    吉川八幡神社:北緯34度49分11秒東経133度45分7秒 吉川苅尾3932番地   甘酒 神酒:昔より「お神酒omikiあがらぬ神はない」と言われ、荒神の好物は 甘酒とされます    天王山:吉川433・444・446番地    御堂の奥:吉川300・345番地等 御堂奥:吉川317・324番地等 徳子:吉川319-322番地 大明神:吉川346-348番地 牛淵:吉川363・386番地等 河内田:吉川434・435番地等 輝砂:吉川452・453番地  平成26年(2014年)9月13日