常光寺合戦 Battle at Jyoukoujijyou castle


伊賀久隆の家老の 鍋谷城主の河原六郎右衛門は 優秀な兵法者でした。それ故に 出世争いをする同僚の者達には 目の上のたんTankobuであったので、嫉みSonemiを 買いました。それで「毛利方に内通している」と 讒言Zangenする者があり、伊賀久隆は これを信じ 河原六郎右衛門を 討つ事にしました。河原六郎右衛門に「重要な用事が有るので、常光寺に来い」と 伝え、河田七郎に 接待させました。油断した 河原六郎右衛門主従20数人を、小阪 片山が 討ち取りました「加茂川町史」

伊賀久隆の家老 河原六郎左衛門直次は、有能な兵法者でした。河原氏と 出世争いをしていた土井氏や 片山氏は 命を懸けて 戦場を駆け巡っているのは自分達なのに、軍師ぶる河原だけが 重用される事に 不満を抱いていました。伊賀久隆と 宇喜多直家が 毛利氏方から 織田氏方に寝返ると、片山氏等は「河原六郎左衛門は 毛利氏の信頼が 厚過ぎる 毛利方のスパイである」と 伊賀久隆に 嘘の報告をしました。そこで久隆は「河原氏よ 日頃の働きに酬いMukuiたい  振る舞い事をするので 定光寺城に 出向いて来られぇ」と 河原六郎左衛門に伝え、河田七郎に 接待させました。片山等氏の動きを 察知していたので、用心しながらやって来た 河原六郎左衛門主従20数人でしたが、周囲は 静寂で 人気が全くいなかったので 油断してしまい、勧められるままに 美酒に酔い酔い痴れた頃合いに、宴会場の周囲に 掘られた穴から 突然に 小坂氏 土井氏 片山氏の兵士が飛び出し 河原主従を 滅多切りにしました。「豊岡上上光寺の村人のより口伝」 現在の豊岡上に大鶴山常光寺があり、その裏山に 定光寺城が聳えていました。 常光寺は 現在、存在しませんが かろうじて寺の跡を 偲ばせ五輪塔の跡と 壊れた上人墓があります。5輪塔跡は、北緯34度54分1秒・東経133度45分42秒です。

常光寺合戦異聞 Another story of Jyoukouji-Gassen

この物語は歴史や伝説を参考にしておりますが、赤字の部分は著者の作文です。

天文17年(1548年)の頃、尼子氏が 三浦氏滅ぼした時、伊賀久隆親子は 尼子氏に与し 久世の寺畠城を 攻めました。寺畠城城主 河原六郎右衛門と 久隆の軍略の掛け合いは 凄まじいものがあり 互いに 相手の能力を 褒め讃えながらの戦いでした。そして 寺畠城が 落城すると久隆は 類稀なる 六郎右衛門の能力を  惜しみ 説得し 味方に引き入れ、虎倉の家老職に 取り立て虎倉城(小倉城)方の北の要の砦 鍋谷城を 護らせました。永禄4年頃(1561年・元亀3年・1572年とする説も有ります)河原六郎右衛門が 野山宮内少輔益朝Noyama-kunaisyouyuu-Masutomoを 突然訪れ「主人の伊賀久隆が 下人の讒言Zangenを信じ、私を 討とうとしています  どうか匿ってください 備中へ亡命し 毛利家に尽くします」と 言うので、益朝は「元 敵であった美作の河原が 久隆に重用されているのでは、譜代の将に 妬みを持たれるのは 当然だ  懺悔されて当たり前である」と 思いました。益朝が 忖度Sontaku(相手の立場を思いやる)の姿勢を 示すと すかさず用意していた誓約書を 提出しました。それを受けて 益朝は 西郡の幸山城Kouyama-jyouの城主の石川左衛門石川源左衛門久式でしょう)へ 取り次ぎました。二人の相談の結果  河原を 荒平山Arahirayama主の川西三郎左衛門が 匿う事になりました。「豊岡上上光寺村人より口伝」「賀陽町史追補版p791」 備中兵乱が起こると 三村元親に 信頼されていない 竹井直定大月七郎左衛門尉信通と与して 恩ある 石川久式を騙し 毛利方に就き 天神丸を 落とそうと 策略しました。策略は 図星で 毛利氏は 松山城を 難なく手に入れました。時は 過ぎ 織田信長の足音が 備前や 備中に迫ってくると 情勢を見て 宇喜多氏が 毛利氏を離れ 織田氏方に寝返ると 久隆は宇喜多氏に従い 織田方に与しました。ところが 常光寺合戦で 討たれた筈の河原六郎右衛門は 六郎左衛門と名乗り 生きていて 天正8年(1580年)毛利軍の道案内役を引き受け 伊賀久隆に挑みましたが、霧に惑わされ 道を違え 上加茂に導き、加茂崩れの原因を作りました。「豊岡上上光寺村人より口伝」

定光寺城跡:上光寺の村の古老は「ここ北緯34度54分5秒東経133度45分37秒に昭和初期には城跡がまだ残っていて、悪友と戦争ごっこをして遊んだものだ 頂上付近に墓があり、あちこちに穴が掘ってあった 結構広い。」と告げました。探索すると確かに墓場があり、平坦地の境付近に人が一人入り弓を構えられる程の大きさの穴の跡が沢山あり半円状に並んでいました。多くは堆積物で埋まっています。この穴に兵士が潜み敵を待ち受け、城に来た敵兵を悟られずして包囲したのでしょう。この城跡の規模の大きさは 鍋谷城 常江田城の規模に匹敵します。光寺合戦は麓の大鶴山常光寺で行われたのではなく、この城で行われたのでしょう。なぜなら、伊賀久隆は神仏を大切にしており、寺の地を血で汚すとは思えませんし、戦いの場がここならば、村人が巻き込まれる危険性は少ないからです。備前伊賀氏の鼻祖 伊賀頼氏が長田荘の地頭として豊岡上に派遣され築いた城でしょう。上光寺の上人墓は頼氏の墳墓かも知れません。

二十七人・南無阿弥陀佛の碑:豊岡上上中須賀290番地の隣 北緯34度53分58秒東経133度45分512秒 豊岡地区農村公園内 常光寺合戦の折りの犠牲者の供養塔を後世の人が立てたのでしょう。    鍋山城跡:鍋谷の下加茂和中615番地の西 上加茂薬師262番地の北の山 北緯34度52分1秒東経133度47分40秒付近

鍋谷城跡:上加茂朴ノ木319-1番地の北北東 下加茂鍋谷1028番地の南西の山で、北緯34度51分54秒東経133度47分56秒付近。    松山城跡:高梁市内山下 北緯34度48分33秒東経133度37分20秒    虎倉城跡:岡山市北区御津虎倉 北緯34度50分10秒東経133度50分4秒    幸山城跡:総社市清音三因 北緯34度39分5秒東経133度45分21秒    荒平山城:総社市 北緯34度41分54秒東経133度42分57秒    伊賀久隆:生年不詳~ 天正9年(1581年)4月の戦国時代から 安土桃山時代の備前国の武将で、伊賀守 左衛門尉 津高郡虎倉城主です。    片山宗兵衛久秀:肥後細川藩の氏家甚左衛門配下に 片山宗兵衛の名があります。鍋山城の城主です。   竹井宗左衛門:三村家家臣の竹氣庄竹井村の領主でした。三村方の居候Isourouの浪人、竹井宗左衛門直定と 大月七郎左衛門尉信通は 小早川隆景 等の示した 出世話に 三村氏をあっさりと 裏切りました。  河原六郎左衛門直次:河原六郎右衛門と 河原六郎左衛門と言う人物は 同一人物か、異なる人物か 解りませんが 様々な伝説に 同じような設定に 登場します。この後の加茂川合戦の伝説には 常光寺合戦で暗殺されている筈の 河原六郎右衛門が登場します。    土井下総守三郎衛門貞綱:足利氏の大名 宇都宮時綱は 落ちぶれ、伊賀家の客分となっていましたが、伊賀兵庫頭の三男 伊賀下総守三郎衛門貞綱を 宇都宮家の養子としました。しかし 貞綱は 虎倉城の家老職を担うため、勤伊賀伊勢守の配下に戻り、土井氏と 名乗りました。    大月(作月・大槻)七郎左衛門尉信通:三村氏の 代々仕える 竹井宗左衛門直定の下に 仕える武士で離小屋城(北緯34度49分25秒東経133度39分32秒)の城主です。    勝法師丸・入澤勝左衛門吉勝:松山城が落ちると 三村元親の一子勝法師丸は 逃げる途中で 伊賀久隆配下の者に 捕らえられ小早川隆景に 渡されました。あまりにも利発だったので、成人すれば 毛利氏に 刃を向け 難なすであろうと 恐れて、隆景は 頼久寺で 勝法師丸を 斬首しました。    上加茂合戦:天正8年 織田氏の進出を機に 裏切られた毛利氏は 宇喜多直家を 成敗しようとしました。障害となる 虎倉城を落とす事を 優先しましたが、加茂崩れを 起こしました。

平成23年(2011年)7月7日

 

現在、常光寺城跡は完全に破壊され、跡形もなくなっています。

平成26年(2014年)10月21日