弘法大師 Saint Koubou


小森 大師 九十九谷 Nine hundret and ninety nine  valleys


昔 弘法大師という偉いおぼうさんが 小森の地に やってきました。「ああ、なんと 美しながめだ、ここに 千谷寺を 建てたい」と 言って小森の山々を 絶賛したので、小森の村の人達は、立派な寺が 建つと思って 大喜びです。「弘法大師様 小森の谷が 千個見える所に 案内します」と 言って 村人は 小森で一番高い 大師山を 案内しました。弘法大師は  山に登って 小森の山谷の数を 何度も数え「ああ残念だ  ゆうに 千の谷があると 思ったので 千谷寺を 建たかった  でも 何度数えても 九百九十九谷しかない」と 言ってスタコラサッサと 山を 下りてしまいました。それでも 村人は弘法大師が 上った山を 大師山と言い、その麓の集落を 大師村と 名付け 大師堂を建て、弘法大師を 崇った と伝えられています。加茂川町史」

写真の大師山は 429号線 大師山トンネルの江与味側の交叉点を 建部方面に200m程 進んだ所より 臨んでいます。細長い尾根が 頂上で 麓は旭川です。 大師山:北緯34度55分59秒東経133度48分25.秒   大師:小森2246・2606番地等 大師集落には現在住む者がおりません。3つの現在 3つの大師堂も 跡形も ありませし 大師村は消滅(無住)しています。。  池ノ原池原:大師集落の南の広大な地域 小森2196・2385番地等  江戸時代の中期まで 庶民は 石塔を立てる事が 禁じられていて  庶民のなきがらは 人里離れた、時に 寺を建て 人里の隣地に 共同の埋葬地を 設け葬り(生け)ました  饅頭塚や 小さい自然石で 墓標う造られることもありましたが、多くの場合 風葬されました 池の原(生けの原の転訛) 地獄谷 化野 等の地名が 付けられました    平成25年(2013年)3月23日

 


小森 大師   辛味餅  Fresh rice cake coated with grated daikon radish

弘法大使様が、小森は 景色が良いと言うので 訪ねて来られました。山に 登っては眺めを 楽しみ「小森には美しい山 が沢山あり、谷も多く、何と神秘的な 雲海が 棚引くものよ  極楽浄土を 思わせる  寺を 建立すれば 僧たちも 喜ぼう  千谷を欠く事はなかろう 千谷寺を 小森に建てたい 千谷を臨める場所は 無いだろうか」と 村人に 尋ねました。信仰深い村人は 大変喜んで 弘法大師を この辺りで 一番高く 一番眺め良い山である 大師山に 案内しました。大師は 道々 豊かな自然を 褒め捲るので、村人の期待は 高まるばかりです。頂上からの眺めに「ホホー」と 溜息を吐きながら 谷の数を数え出しました。一通り数えては、数え直します。延々と 数える姿を 村人達は 静かに固唾を 飲んで待ちました。

すると大師は「千谷に 一谷足りない  九十九谷しかないので 千石寺を 建てる訳にはいかん」と 言って あっさりと 下山しました。 余りに 惨いMugoi話なので、村人は弘法大師に 仕返しをしようと考えました。「食事も出さんで 追い返そう」と 言う人もいましたが、「弘法大師ぁ 尊ぇ人じゃ  無碍Mugeな事ぁできまい それに 弘法大師ぁ 水や 食い物を お布施しねぇと ぼっけぇ目に合わす 悪ぃ癖があるそうじゃ」と 言う者が いました。そこで村人が「弘法大師しゃぁ 餅が出そうじゃぼっこう好きじゃそうな  苦しんで 死ぬ程に 食わせてさしあげようじゃぁねぇか」と 言うことになりました。そこで村人は  弘法大師を 庄屋の屋敷に招き、餅を 沢山搗いてTu-ite 搗きたて 餅 を まず食べさせ、その後に 雑煮にして 差し出しました。弘法大師は 当然ながら、又 喜んで食べました。お腹が パンパンになったところで、焼き餅を 造り「香ばしう致しました  また 別の味に なります ドンドン お召し上がりに なってつかぁせぇ」と 言ってニコニコしながら 差し出しました。 弘法大師は 千谷寺の件で 村人に 負い目もあり、大好物を 自称していた手前もあって 腹いっぱいでしたが、無理して 食べたのです。お腹は もうバンバンです。すると 今度は村人は  あんころ餅を作って「甘いものは 別腹です  帯に若干の余裕があるように 見えます」と ニヤニヤしながら持って来ました。腹が膨らみ 息苦しくなり、心臓が悲鳴(を 上げてきていました。ここでも 千谷寺についての後ろめたさが 勝って  村人の機嫌を 損なわないように 配慮ました。

すると、村人は「弘法大師様の登られた山を 大師山と名付け、大師堂を 祀ります  その前祝いに 辛味餅Karami-motiを お召し上がりくだされい」と 言って大根下ろしを 添えて、二マリ二マリと 不気味な笑いを 浮かべながら 辛味餅を 差し出しました。 弘法大師は「もっと 食べれば死ぬ」と 思いました。そこは 我慢のし所  弘法大師は 付けだされた大根おろしを「小森の大根はうまい  格別ですな」と お世辞を 言いながら あたかも 珍味を じっくりと 味合うように  時間を掛けてゆっくりと ゆっくりと 食べました。すると バンバンのお腹に 余裕が 出てきました。無事に 辛味餅を 食べ終わると「辛味餅以上 健康に良いものはない  この上 何かを 食べるれば  辛味餅の健康効果を損なう  みなさんも 餅を食べる時は 辛味餅にし て食べなされ」と 言って箸を置きました。村人は弘法大師の不思議な力に感心し、大切にお見送りしました。「九十九谷」「弘法大師は食べ物をくれぬと仕返しをする」「弘法大師はが好き」を基にした物語    大根おろし:日本食の付け合せや 薬味として使われ、また魚料理等の臭みを減少させるのに使われます  アミラーゼ(炭水化物の消化酵素) プロテアーゼ (蛋白質消化酵素) リパーゼ(脂肪消化酵素)等が含まれ、食物の消化を助けます  熱を加えると酵素の働きは無くなります        平成25年(2013年)3月23日

 

平成29年(2017年)3月31日に【岡山「へその町」の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利吉備中央町図書館 吉備人出版】が発行されました。P326~P327に「餅の大食い」や「餅好き」に関する民話が載っています。

 


小森 小森のひいる  Leech in Komori

昔  弘法大師と言う偉いお坊さんが小森にやって来まっした。千谷寺を建てる宣言しましたが、約束を破りました。

弘法大師は村人に「なんと 意地悪で残酷な坊主だと思われているに違いない」と 少しばかり気にしていました。ふと見ると、田植えをする村人が蛭Hiruに苦しめられているではありませんか。弘法大師は、自ら手を田に浸け、蛭を呼び寄せ血を吸わせました。霊力を帯びた大師の血を吸い、蛭は腹が苦って(腹を壊して)苦しみました。それで、この地の蛭は、人間の血を吸うと苦しい目に合うと思って おぞがり、人間の血を吸わないようになったと言います。                 

これに類似した 小森の蛭が人の血を吸わない理由に関する伝説では、弘法大師が 蛭の口を捻ねくじって 形を変えたからだとか、法力のある杖で 田の水をかき回したからであるとも伝えられます。 「加茂川町史」「小森双六の村のより人口伝」 蛭:日本に住む人を吸血する蛭は チスイビル(血吸蛭)ヌマビル(沼蛭) ヤマビル(山蛭) ハナビル(鼻蛭)等で 多くの蛭は 人に感染しません。血吸蛭 山蛭等の血吸い蛭の唾液には 血液凝固作用を妨げる成分が含まれるので 一旦吸い付かれると、一時間程 流血します  通常 痒みを伴いますが 傷は数日で治ります  平成25年(2013年)3月23日

 


富永 下土井 井原 加場ノ原の蛭 Leech in Komori

富永の加場ノ原から北に向い 井原と富永の境に 綱島助次郎の頌徳碑が 立っており 瀬石橋が架かる 河童伝説の有る 鳥居川が 流れています。貴船神社貴船荒神社が 祀られていたので、この辺りの蛭は 貴船の蛭と 呼ばれていました。何時の事か解りませんが、この川に 弘法大師がやって来ました。余りに水が清かったので 川の水で 汗と埃にまみれた顔を 洗いました。すると 不届きにも 弘法大師の唇に貴船の蛭が 吸い付きました。弘法大師は「お前様 不都合な奴じゃ 私と 知っての狼藉か 不憫じゃが 仕返しにお前様の口を捻ってやる」と 言って蛭の口封じをしました。それからは ここから川上の蛭は 血を吸いますが、ここから川下に住む蛭は 血を吸えなくなりました。「高富加場の原で作業していた人より口伝」    綱島助次郎の頌徳碑瀬石橋:落合加茂川線(66号線)の上井原公会堂の南 北緯34度53分13秒東経133度15分分44秒 加場ノ原:1365・カバノ原:1403(長田ふれあいセンター 北緯34度53分0秒東経133度45分31秒  )・1444(難波プレス工業 北緯34度53分6秒東経133度45分42・2089番地等 貴船神社:鳥居川 鳥居川ダム(北北緯34度53分20秒東経133度45分58秒)は ありますが この辺りに貴船神社は建っていません。しかし  北緯34度53分0秒東経133度45分24秒に 貴船荒神社があります。  落合加茂川線の富永と下土井の境の西側の茂みの中 北緯34度52分57秒東経133度45分36に、かつて2社の小祠があったようですが、ゴミ捨て場になっていて如何なる社であるか解らなくなっています  平成25年(2013年)3月23日

 

 

小森 半分尾のきつね Fox with half tail

弘法大師が 小森にやって来て、宿をとりました。宿に泊まっていた旅人達は「この辺にゃぁ長ぇ尻尾Sippoぅしとって 良う化ける白狐が出てくる  ぼっこう人ぅ騙すんで往生する」「誰か 退治してくれまいか のう」と 話し合っていました。弘法大師は、これを聞いて「どのような悪さをするのですか」と 尋ねました。 宿主が「わしの宿をまねて作って、何にも知らんお客さんに、馬糞団子Uma-no-Kuso-dangoぅ食わせ、お小用Okoyo(小便)の酒ぅ飲ませ、野壷(野外の便所)の風呂に入らすんじゃ  どねぇもこぎゃぁ も信用が おえん(だめ)のじゃ」と 言いました。 客達も「キツネノカミソリで 虎に頭ぁ切られた(ギザギザに散髪された)」「もんげえべっぴん(美人)に化けていたんで、鼻の下aぁ伸ばして 連れのうて飲んだんじゃが、木の葉の金でおごってくれ、小用に行かしてと 言うて逃げたんじゃ  酒屋に 頬玉ぁどしゃまかされた(激しく殴られた。)」「じゃぁ・・・」「じゃあ・・・」と 口々に被害を 自慢げに話しました。 弘法大師は「千谷寺のことで 村の人を 嘆かせた 詫びをせねばなるまい  そんなに悪い狐なら 退治してあげましょう」と 言って狐退治を引き受けて 山に入りました

狐が修行僧に化けて「なんと立派なお坊様じゃ ぜひお弟子にしてくだされぇ  まず 我が家でお休み下されぇ」と 呼び止めました。 弘法大師はその風体から察し「修行僧に 家等ある筈hazuがない」と 思い 良く見ると尻尾Sippoを 隠しているのを見破って、尻尾を 錫杖で叩きました。その拍子に 尻尾は半分に切れ 普通の狐のしっぽの長さに なりました。すると霊力を 失って  狐は 普通のきつね色の狐になりました。 村人は喜び 弘法大師を 益々敬いました。「小森双六の村人のより口伝」「加茂川町史」  平成25年(2013年)3月23日

 

尻尾無の狐 fox without the tail

聳頭山の尾根を少し西に行った一帯、往しき 昔には、この道を狭んで 集落が存在したと考えられる。これから西に しばらく歩いた所に「述ガ乢Nobu-ga-tawaがある。その南側に「大師」(加茂川町小森地区内)と 称える所がある。十年前頃まで 数戸が集う部落があった。今は、住む人影のない  儘に荒廃を 続けているこの地に、昔 ある日  地方遍歴の途中に立ち寄った弘法大師が、一夜の宿をとったことがあり、その時 この家の主は その夜、「この一帯に白狐が 跋扈Bakkoし 度々人をたぶら誑かし、この辺りの者は 難渋している。」と 弘法大師に 訴えたそうだ。翌朝 大師はこの宿を後に、北へ向かって出発した 。やがて「述ガ乢」に 差しかかった大師の目の前に、昨夜 宿の主から聞いた白狐が 姿を現した 道案内でもするかのように、大師の歩みに合わせて前に出たり、後ろになったりして 見え隠れに付いてくる。大師は この時「そうか  腰の弁当に 狙いを付けてくる」と 気付き、その場に歩みを止め、宿の作った心尽くしの弁当を 腰から取りはずし、狐に向かって「差し上げるから持っておゆき」と 差し出されたそうだ。大師の前から姿を消して 暫く機を窺っていた狐は 何処からともなく 急に飛びかかり、包と一緒に 弁当を 持ち去 ろうとした瞬間に 大師の金剛杖は 狐の尾っぽを押さえていた。その時 大師は、狐に向かって曰く、「汝は、見かけは白無垢の毛を以て美しく、仲間からは 頼り甲斐があると 慕われているかもしれないが、我々から見ると ずるがしこく、 度々人を欺いていると聞く  これでは やがて人の怨みをかい、汝の棲む所もなくなる」と 論された上、さらに言葉を続け「ところで、汝に相談がある。・・・これからは人の迷惑になることはしない誓をたて、共に仲良く暮す約束のあかしとして、醜いからだとなるも辛抱する覚悟で、押さえている杖から後ろの尾っぽを、この愚僧にしばらく預けてはくれぬか  ついては、汝が今 くわえている弁当は、持ち帰って仲間同士で食べてよい」 すると 大師の言葉が通じたのか 涙を溜めたような顔で振り向いて、大師の目を見つめていた狐が ピョンと急に飛び上がった  その後には大師の押さえた杖から後ろの尾っぽが切れて落ちていた。狐は切れてなくなった尾っぽを気にかける素振りもなく、大師を振り返りながら 仲間の待つ北側の「白はし」の山へ姿を 消して行ったという。大師は狐から預かった尾っぽを懐中から取り出した紙にくるんで 土の中に埋め、その上に 石を置いて 懇に祀った後に、此処を発ち去られたとのことである。白はしの尾なし狐の話からか、本当に見たという人までがあらわれて、最近まで信じていた者がいた。「旭町誌」      平成25年(2013年)3月

 


小森 金の生る木 Many tree

小森の里に、能力は有るるのに、怠け者の男がいました。その男に 好いた娘が いましたが、口説くのが大儀なので、力ずくで自分のものにしようと 迫ったのです。 不意に襲って「好きじゃ 好きじゃ」と 手を取り 押し倒そうとしました。しかし、見た目は手弱女Taoyame(力がない女)そうな娘でしたが、その女の強い事、強い事。大の男を たやすく投げ飛ばしました。

「うちも、お前さんが好きじゃ  ほんまは まじめな有能な男じゃと 思っている  じゃが、こぎゃんなやり方ぁ好かん  うちを嫁に欲しいんなら 怠け者ぅ止めんされぇ  金のなる木ぃ植えて、やる木ちゅう木と 根木Konkiちゅう木ぃ接いで、この糞ちゅう肥料をやって、上手に育てられたら嫁になってあげらぁ」と 神々しい姿をして言うのです。男は 暖かい手に 触れ 涼し気な瞳に触れると、神か仏の導きだと感謝し 今までを反省し、やる気を出して 作物の品種改良をし 根気良く 虫害 獣害 風害 干害 冷害から守り なにくそと困難を乗り越え 粘り強く育てる 働き者になったのです。それを 確かめると 娘は大変喜んで その男の嫁になりました。 そのあくる日、女子(Oagoの風Huu格好)をした弘法大師が 小森を発つと、あの男の妻は 峠まで出て来て、何度も何度も お辞儀をしながら お礼を言っていたそうです。その後の女は 優しくて大人しい女で あの女傑の姿を見せる事は2度とありませんでした。「大師山トンネルで働いていた村人より口伝」「加茂川町史」

茂満神社の赤坂大明神 AKASAKA-DAIMYOUJIN OF SIGEMITU-JINJYA SHRINE

江与味に 滝ノ畝から 松尾へ行く道に 赤坂という人里離れた所が あります。昔々 その場所へ宮の乢村の怠け者で 女好きな 若者が 木こぎ(枯れ枝集め)に行きました。この日も 木こぎに来のですが 夕方近くなっても 背板一杯のこぎも  集められませんでした。が暮れる頃に そろそろと帰ろうとすると、1人の別嬪さんが 通りかかりました。男は 娘を見て 日頃の悪癖を 起をし、いきなり襲い 押し倒しました。ところが その娘は 武術に長けた力持ちで、たちまちに 男を打ち負かし 取り押さえました。娘は「うちが欲しいなら 働き者の大金持ちに成って出直しておいで」と 言い、成功する秘伝の巻物を 渡し 追い返しました。男はあまりの出来事に 恐れをなし 家に逃げ帰りました。一息着いて 冷静に戻ると あの神々しい女傑に 真実の強さと 誠意を見つけました。震える手で 巻物を開いて見ると「金のなる木の育て方:やる気という木と根気という木を接木して 毎日 何糞という肥やしを 一生懸命かけると 立派な金のなる木が育ちます  私は赤坂大明神」と 書かれていました。 山で出会った娘さんは 赤坂大明神の化身であり、この俺を立直らせるために 顕現したのだと思いました。これ以来 若者は 毎日せっせと働き 改心すると、あの女傑が しとやかな美しい娘になって 押しかけ女房になりました。男は良いお嫁さんに恵まれて、幸せに一生を送ることができたそうです。「旭町誌」www.cyerry.net/~eyomi/11.minwa/minwa01.html」  平成25年(2013年)3月23日

 

小森 大師 大師堂の罰 Koboudaisi’s punishmennt at Daisikami-Daisidou hall

江与味Eyomiの里の男達 3人が 大師の大師堂で 大漁祈願して、豊岡下の恩木川Ongi*gawaに 鰻を 取りに来ました。大師様のご利益があって 面白いように 鰻が 取れて、上機嫌で 真地乢Maji*-tawa迄来ると ぬけ降り(大雨)になったので、近くの引撫の大師堂で 雨宿りをしました。暫くは 静かに 雨の止むのを待っっていたのですが  一向に止みません。お供えのお神酒を 飲んで、 自然に 声も いがって(大声になって)艶話Tuya-banasiを ちゃぁちゃぁぼちゃぁ(軽々しく)始めました。大笑いしたとたんに 腹に力が入り、誰かが屁Heを こきました。すると 誰の屁が一番臭いか 競争しようと言う事になって、屁こき競争が 始まりました。プ ブ ピと はしたない音が 続くので 可笑しくて 転げまわる始末です。仕舞には 神聖な太子堂だと言う事を すっかり忘れ 堂のへり)から叢Kusamuraに向けて 立ち小便する者まで出ました。

すると お堂は 真白に輝き、激しい衝撃の余しを 食らって 3人は 気を失いました。 翌朝になって 気が付くと お堂の傍(の杉の木が 燃え尽きていました。弘法大師が 怒り、雷の鉄鎚を 食らわした事 に 気付き、3人は  恥じました。それでも 命まで取らなかかったので 弘法大師に感謝し、ようよう 転げるように 村に辿り着きました。 村に帰り この話をすると、村人全員が「神仏を大切にしないといけん」 と 反省したそうな。 「江与味旭の村人のより口伝」「江与美の民話・弘法大師」 現在 大師村に住む人は無く、大師の大師堂もなくなり、引撫大師堂も なくなり 引撫集会場に大師像は 祀られています。著者が 少年の頃は三谷川で よくウナギが釣れましたが、昭和29年 旭川ダムが できてからは、恩木川にも 三谷川にも 鰻は 遡上しなくなりました。 

江与美の民話・弘法大師 Saint Koubouwww.cyerry.net/~eyomi/11.minwa/minwa01.htmlその昔 土用の丑の日 江与味の部落の若者三人が 真地乢を超え 加茂川町豊岡下の恩木川へ 鰻釣りに行った。その帰り道 真地t乢に差しかかると 夕立に合い 雷雨になった。三人は 真地乢の大師堂に立ち寄り 雨宿りをしましたが  夕立が長引いたので 退屈しました。誰言うとなく「屁こき競争をやろう」と 大師様を祀ったお堂という場所がらも わきまえず、大きなおならをし 笑い転げていました。すると、突然 堂の中が真赤になり、三人は 気を失って 倒れました。三人が気がついた時には 雨はあがり 良い天気になっていました。しかし、恩木川で捕った魚は 一匹も見当たらず 腑抜け面の三人が 帰り仕度をして外に出てみると、そばにあった杉の大木に 雷が落ちて 黒焦げになっていた。三人は 命のあっただけでも良かった と這う這うの体で 帰宅したと言います。その話を聞いた村民達は それ以後 神社仏閣の前 大師堂等では 淫らな事は 慎むようになったそうです。「旭町誌」     引撫公民館:北緯34度55分28秒東経133度47分22秒 真地乢:豊岡下1495(北緯34度54分59秒東経133度47分21秒)・1496番地 加茂八十八霊場46番大師上札所 弘法大師:引撫札所より林道大師線を尾根伝いに東へ進み、大師入口で右折、少し進んだ所に有りましたが、道の拡幅工事が進行中でお堂の姿は見当たりませんし、年に3度実るとされる栗の木も有りませんでした  平成25年(2013年)3月23日

 

石芋 Hard taro as stone

昔 弘法大師が 腹を減らして 下土井を通りかかると、村の婆さんが 芋を蒸していました。とろりと柔らかそうで 良い香りが 漂ってきたので 弘法大師は我慢堪らず「芋ぅ 一つ賜れませぬか」と 礼を尽くして願い出ると、婆さんは「すばろうしい坊さんじゃのう  やるにゃぁやっても良ぇが 芋ぁ石みてぇに硬ぅて 坊さんが 喰うと歯が欠ける  じゃけぇ気の毒で やれんのじゃ」と 言って分けてくれませんでした。晩ご飯に 芋の煮物を爺さんに出すと 爺さんが喜んで かぶりつくとガツと音がして歯が欠けました。「婆さん 何ぅ食わせたんじゃ  石等食えるもんか」と 歯痛を堪えて言うと、婆さんは「さっき 味見ぅした時ぁ 柔らこうておいしかった」 と言って、自分の料理に自信があったので ガブリと勢いよくかぶり付きました。ガツと音がして やはり歯が欠けました。それからは爺婆の畑では 石のように固い芋しか育たなくなったとさ。「湯山大畑シブリ坂で作業していた人より口伝」  

クワズイモ伝説

弘法大師が 青年の時分 居住していた 御蔵洞Mikurodo(御厨人窟)と 難行を積んだ場所の神明窟を過ぎると、最御崎寺へ続く登山口が 右手にあります。寺の本堂の横に クワズイモ畑があって 弘法大師が 訪れた時 村人が芋を煮て食べようとしていました。「芋を分けてください」と 頼みましたが、村人は「これは食えん芋じゃ」と 言って断りました。大師が 不機嫌そうに去ると その芋は 本当に硬くて食べられない芋に なっていましたhttps://ameblo.jp/10ma/entry-10922115588.html」     平成25年(2013年)3月24日