竹部    阿波良池の地蔵 JIZOUBO-SATU STOOD ON THE BANK OF AWARA-IKE POND


竹部阿波良2156番地の南西隣地に 阿波良池が有り、東岸 北緯34度50分2秒東経133度45分48秒に 二尊の地蔵が 並んで祀られています。この池に落ちて溺死した子供を悼んだ 地蔵菩薩像です。左の仏の台座に「昭和十七年四月二十四日 川上齊(Yの部分が了)  享年十六才」と 刻まれます。右の地蔵菩薩像に刻まれる文字は 風化していて 多くの字が 読めませんが 舟形面の右縁に「千代造 在造〇〇」 左縁に「為〇平〇〇」の字らしきものが 刻まれています。台座には「明治廿六年四日 〇〇〇 詣 川上市〇」の字が 刻まれています。この溜池に 嵌っ 、犠牲になった子供たちの供養碑です。氷の池で 遊んでいた 川上齊少年が 割れた氷の隙間に嵌まり 溺れ 氷の下に沈みました。犠牲者の母は 泣き叫び 池の水を抜いて 遺体を 回収してくれるよう頼みましたが、水門を開けても 水を完全に 抜けないし、水嵩が減れば 氷は もっと厚くなると 想像されたので 母の願いは 叶えられませんでした。警察と 消防の捜索も 実を結びませんでした。1週間程して 氷の下に 遺体が浮いてきたので 過去に 氷の池で 自殺した老婆を 引き上げた経験のある少年の親戚の者が 氷を割って 少年の遺体を引き上げました。家族の者は 少年を悼み 地蔵菩薩を 池の岸に祀りました。「竹部の村人より口伝」

 

川上齊水難事故物語 Story of Kawakami-Hitosi‘s"or Kiyosi's" water-accident

それは 寒い昭和37年12月26日の早朝、阿波良池には 氷が張っていて いつも通りに 子供達は スケート遊びを していました。その中の 川上斎は 氷の薄みに滑り込み 嵌まりました。氷に登ろうとするのですが 手が滑り どうしても 岸を 登れませんでした。泳ぎは 得意な方でしたので 背浮すれば 着衣したまま浮いていられる事を 知っていましたが、余りにも冷たい水から 速く逃れなければ 凍死すると 直感したようで、氷を割りながら 着衣のまま泳いだのです。厚着した衣服は 水を含んで 膨らみ 泳ごうとすると 手足に纏い付き 速く泳ごうとすればする程 体力を奪うばかりで  惨い事に 氷の下に沈みました。警察や 消防等の救助隊や  親類筋の者が 駆け付けた時には 既に姿は見当たらず、岸辺で 母親が 狂ったように大声で 泣いていました。母親は 池の水を直ちに抜いて 息子を助けて欲しいと 縋り付き 懇願するのですが、救助隊は 直ぐには実行できませんでした。阿波良池に 入り合い権を持つ者の 一人が流れ出した水による被害を理由に 反対した事と、その男が 主 張するように 池の関を 開けたとしても この池の水嵩は 大して変わらず 遺体を発見できる可能性が 極めて低かったからです。池全面に張った氷を割って 捜索しましたが 予想通り 遺体は 見つかりませんでした。翌朝には 再び氷が張っていたので 2次遭難に備え 岸辺に 焚火 防寒用の綿入れ ベンジン懐炉が 用意され 救助隊は 母親の鳴き声に 背を押され 危険を省みず 氷を割りに池に入りました。

1週間も この作業が続きました。良天気が 続くと 池の中央付近の薄くなった氷の間に 遺体が浮いている姿が 発見されましたが、救助隊の者達も 水に入る事を 躊躇し、以前にこの池の犠牲になった少年や 近くの池で 入水自殺した者の遺体を引き上げた経験のある男に 視線が注いでいるだけでした。少年の親戚筋のその青年が バサリと 着衣を脱ぎ ザブンと 池に飛び込み ザブザブと 遺体に 一直線に 泳いで行きました。遺体を抱え 岸に戻ろうとすると 割られた氷が 身を切るような痛みの試練を与えるばかりか、泳路の障害物となり、泳ぎは 困難を極め 時間を 想定以上に 消費させました。全エネルギーを 使い果たし 冷え切った体を ふら付かせながら 遺体を 母に渡すと、急いで暖を求めました。その様は 見る者で 心を揺さぶられない者は おりませんでした。少年の母は 無き疲れ 憔悴\し 般若の様な形相と 容姿でした。遺族は 少年を悼み 地蔵菩薩を 阿波良池の岸に祀りました。 「竹部村人より口伝」「当時の消防 警察体制」を 基にした物語   阿波良:竹部2154-2168・2180-2191番地 粟も取れない地だったのでしょうか   入水自殺した者の遺体を引き上げた近くの池:上野 才の乢バス停の南東 北緯34度50分14秒東経133度46分38秒 小さく堆積物で埋まり浅くなっています 平成28年(2016年)12月14日