力石 Lifting stone  ”Stone for muscle-power training”

 昔 自動農業機械がなかった時代には 農業や林業を営むには 力仕事をするしか ありませんでした。だから 力持ちの男が 女性にもてました。なぜなら 米俵(一俵 60Kg)を 運ぶににしても 牛馬を操るにしても 燃料である薪を集めるにしても 力持ちである必要が あるので、女性が 安定した農村生活を  送るために 力強い男と結ばれる事で 幸せが 得られると 教育されていたからです。そのため 祭り等あると 男達は 力石を使って 力比べを 神に奉納し その男ぷりを 女性にアピ―ルました。この日に 供え 青年達は 庭先等に 力石を置き 鍛錬しました。風神社の力石は 卵形の自然石で 目方は6貫(24Kg) 12貫(48Kg) 24貫(96Kg)でした。「広面の村人のより口伝」


風神社の力石物語 Tale of Power stone of Huu-jinjya shrine

弱虫の力のない少年が 岩目にいました。村の若者は 面白がって苛めて喜んでいました。女の子も 弱い男に興味なく 相手にしませんでした。その男は 悔しくてしかたなかったので「強ぅなりてぇ。」と 思い 夜の風神社 にお参りし  超人的な鍛錬をすると神に 誓いました。そこに 備えてあった 力石が 持ち上げられるようになると もっと重い石を 探して来て お宮に奉納 しました。1回目の満願の日(100日後)に米1俵分の重さ(60Kg)を 持ち上げられました。2回目の満願の日に 村の最高記録24貫(90Kg 女石)に 達しました。2年目の5回目の満願の時には 人の限界75貫に 達しました。そんな事情を 知らない苛めっ子達は「久しぶりに ひょうたぐちゃろう(からかってやろう)」と をその男を取り囲み 頭をしこたま 打ちましたが、男は 抵抗もせず 叩かれるままに任せました。すると 弱くても 優しい心を持つ その男に好意を寄せていた の子が 男を庇ったKabatttaのです。すると その男は 途端にボロボロと涙しました。これ見て 女達も「女子Onagoに 守ってもらって泣いとる。つまらん男じゃ。」と 冷やかに 笑いました。苛めっ子達が 今度は その男の帰り道の野呂街道に 大きな石を3人がかりで 5つ置き 法度張Hattou-barri(通せん棒)を 造りました。「さぞ 奴ぁ困ったじゃろう。」と  翌朝 見に行くと 石は 道端に きちんと並べられていました。苛めっ子達は あの男しか通らない筈の道だったので 不思議がりました。そして 力持ちの行われるお祭りの日が やって来ました。男達は 力持ちを競い 苛めっ子達は 好記録を 続出させました。最後にあの男だけが残りました。皆は「怖気付いてOjike-duite逃げ出すんか。」と その男を鹹かいKarakaiました。男に好意を持っていたあの娘は 小助に 力水を 付けてやりました。又 あの男が 声を出し 泣き出しました。皆は 声を合せ 男の不甲斐なさを せせら笑いました。ところが  涙も吹かずに 小助は 誰も持ち上げられなかった大石の前に スックと立つと 再び嘲りAzakeriの笑い声が オフロに木霊Kodamaしました。すると どうでしょう。小助は腰を落とし 石に手を掛けて 掛け声に合わせ  ズイッと大岩を 一気に頭上に 持ち上げたのです。馬鹿にしていた人達は 声を失ない 一瞬 オフロは 静寂になりました。あの娘だけは 歓声(を上げ 涙を拭き拭き 泣き笑いしていました。あの時 男 が泣いた訳は 誰にも 優しくされた事のなかったのに 唯一人あの娘が 庇って呉れた事に 感動し 思わず 嬉し泣きしたからです。静寂の後 訪れたざわめきの中を 二人の男女は 手を取手りあって その場を離れました。男のの奉納した沢山の石は あちこちの村の人が 塞の神Sae-no-kami様にしたい と言って持って行ったそうです。「三谷野呂の百怪談」

力石:最初 力石は 石占いに 用いました。石占いは 神社や 寺院で行われ 標準になる石を 持ち上げて 持ち上げ手Motiage-syuが「軽いと感じれば その年は豊作 或いは 吉 或いは病気の平癒Heiyu等で、重いと感じれば「凶作 或いは凶  或いは病気の悪化」と 占いました。次第に 占いの意味合いは薄れ 娯楽化して来て 空き地や 広い庭 等にも  若者が 集まれそうな所に 置かれるようになり、若者の力比べになってゆきました。競技方法により 又 個人の体力により 異なる必要があったので 力石の重さは 色々でした。それでも 60Kgを 超える物が多いのです。米1俵の重さを 意識していたのでしょう。 吉備中央町での力石の競技は 差し上げ 襷取りTasuki-dori 天秤担ぎ 等でした。差し上げには 頭上挙げ 胸挙げ 腰挙げ 浮せでした。俵一俵を 差し上げられれば 男として 一人前と 認められました。何処にでも あった力石は 機械が 発展し 力持ちである必要が亡くなった現在では 自然石に戻ってしまいました。残る物でも「これが 力石だ。」と 言われなければ 只の石にしか見えません。上田の久保田神社 案田の化気神社 和田の天王様 高谷の森神社にも 最近まで 力石が あったと 言われます「加茂川町史」

さえの神:村に入り込む悪霊を村境で 塞ぐ神です。風神社の風の神は 風邪の神ともされ 当時もっとも恐れられていた インフルエンザを 防ぐ目的で 風神社の力石を 祀ったのでしょう。しかし この神社の力石を祀った 才の神は 殆ど残っていません。引撫公民館の庭北緯34度55分28秒東経133度47分22秒にあるだけかもしれません。    広面の風神社:北緯34度49分18秒東経133度48分35秒 祭紳は 級長津比古命Sinatu-hiko-no-mikoto級長津比女命Sinatu-hime-no mikoto    田の久保田神社細田天津神社:北緯34度53分39秒東経133度47分6秒 案田の化気神社:北緯34度45分19秒東経133度49分22秒 和田の天王様素戔嗚神社:北緯34度45分19秒東経133度49分22秒 高谷の森神社:北緯34度51分32秒東経133度46分45秒 高盛神社:北緯34度51分32秒東経133度46分47秒

江戸時代の日本人はすごかった:外国人が江戸末期明治初期に 日本に来た時 日本人が 筋肉質で スタミナがあるのに 驚いています。小さい体格の男でも 一俵60Kgを 楽に持ち上げ 3俵を持ち上げる者も いたからです。ベルツは 日光東照宮に(東京から日光まで)行くのに 馬を6回継ぎ 14時間かけました。2回目の参詣では 人力車で行き 車夫1人で 14時間半で 着きました。その体力に 驚き 食べ物を調べると 玄米の握り飯 味噌大根の千切り たくあんが 主食だったので 愕然としました。肉を 食べれば もっと早くなるだろうと 肉食を 勧めると、車夫は 苦しくなって 走れず 粗食に戻す事を 願い出ました。そこで 馬6頭に匹敵する体力の秘密を 研究し 力の源は粗食(炭水化物食)によると 知りました。http://metabo2014.web.fc2.com/diet.html 左写真の二人の女性は なんと5俵(300Kg 旧俵ならば150Kg)を 背負っています。俵の真偽が 論争されています。https://blogs.yahoo.co.jp/tydm7329/47248346.html」  平成23年(2011年)9月13日