松根油 Pine root oil 


 昭和19年(1944年)第2次世界大戦の頃 尾原新田1253番地近くの ごんご渕の堰に 松根油の工場が ありました。村中の男女が 集められ、交代で 働きました。松の根株を 斧で割り 小さな木片にして 釜で蒸し、蒸発したガスを集め 水で冷やし 松根の成分を 集めたのです。石油に 混ぜて、戦闘機(の燃料に しました。戦艦大和にも 使ったようです。戦艦大和は 帰還するだけの、燃料を 積んでいなかったと、工場の工員は 話したと 言われています。「加茂川町史」

「ゴンゴとは 言葉の通じない人と言う意味で、異邦人を 表すのだ」と言う人が います。言葉が 通じないとんでもないものは 妖怪変化 化け物 幽霊です。「元寇Genkpuが 訛って ゴンゴの語源に なった」とする人や「元寇の時の蒙古兵や 高句麗兵の幽霊を蒙古高句麗Mokurikokuriと呼び、これが 訛って ゴンゴ になった」とする人や「元寇の ゴンゴ―と言う名前の大将が 語源だ」とする人や「元寇の船舶司令官を管軍総把Gongenjyunと呼び、これが 訛った」とする人がいます。最も有力な語源は、奈良の元興寺Gangoujiです。「この寺の鐘楼に 鬼がすんでいるとの伝説が あります。室町時代、鬼や 化け物の事を がんごうじ がごうじ がごじ 等と 呼びました。これが訛ってゴンゴ、ゴンゴ―に なったと言う説です。備前の一部では 鬼や化け物の中でも 特に 河童を指します。河児を ゴンゴと 読むのだとする人も います。

 

昭和19年(1944年)ドイツで 松の樹から 航空機用のガソリンを 抽出しているとの情報が 日本海軍に 届きました。元々 この戦争は 石油の確保が 目的だった事が 示すように、日本は 戦闘用や武 器の燃料が 逼迫していました。日本林業試験場には 松根から 製油する技術が あったので、松根油製造により 航空機用揮発油を 製造しました。同年10月20日、最高戦争指導会議により、根油等緊急増産対策措置要綱が、翌年3月26日には 松根油等拡充増産対策措置要綱が 定められました。原料の伐根の発掘には 多大な労力を 要しますが、戦争遂行費が 不足していましたので、国民に 無償労働奉仕が 求められました。計画開始前には 乾留装置は2320個でしたが、6月には4万6978個に 増えました。生産量は 日本軍燃料史に「20万キロリットルに 達す」と 記述されていると 言われます。製造された 松根粗油は 軽質油と その他の成分に分け、軽質油は 水素添加 等の処理 等をし 航空機用揮発油を製造する計画でした。主力 第二次精製工場のあっ た四日市は 空襲され 製造に至らず、徳山で500Klしか 精製できませんでした。戦後、進駐軍が 未使用分を 没収し ジープを 走らせたところ、数日で  エンジンが 故障したと 言われます(戦時戦後の日本経済)。それでも 松根油は、漁船の燃料として 使えたようです。この話は 著者が 東京目黒の農林試験場で 鋼鉄製ロープの強度測定の 学生アルバイトを した時に 聞いたものです。「林業試験場職員口伝」 「https://ja.wikipedia.org/wiki/松根油」「加茂川町史続編P165」を参照ください。

 

尾原の靖男に 赤紙(戦闘要員の招集)が 届きました。靖男は 写真家で 教員であったので 青紙(戦闘員教育、報道員招集)か 白紙(防衛員召集)しか 来ないと 信じていたので 落胆しました。拒否しても 大した罰を受ける訳でもないので、拒否する事 も考えました。しか し拒否すれば食料も 生活物資も 配給の時代、畑を いくらか持っていているので 野菜や 米 は手に入りますが、それ以外の配給を 受けなければ 生活できません。勿論、山に 逃げ込む訳にもいきません。戦争が 終わる迄 愛する妻のや子や 親戚)の者達が 近所の者達に 卑怯者)の女とか 非国民の女 等とか 言われ続けなければならないからです。おまけに 医者で 友達の武雄は特攻隊に 志願していました。かわいい妻を守るため 召集に応じたのです。隣組 学友 町のお役人が 盛大な 壮行会)を 行ってくれました。日の丸が 振られ、寄せ書きが 掲げられ、心や 義 等と 縫われた旗も 振られました。妻の艶は「死なないで」と 縫った 極小さい千人針を 誰にも悟られないように 写真を添えて持たせました。入隊し、まず一番にされたのは「貴様 ねんごう(なまいき)じゃと」言われ、往復ビンタでした。次に言われたのは「貴様らぁ 一銭五厘の価値(疎開先へ召集令状を送る郵便料金)しかないのじゃぞ この事ぅよう覚ぇておけぇ」でした。

貴様とは 敬語ですので、初めの内は 敬語の意味が 含まれて使われていましたが、このような使われ方をしたので、この時代には相手を卑下する言葉になっていたのです。靖男は 満州に出陣し 戦う度に 鉄砲玉を 受けましたが、運良く 死ぬ事はなかったのです。戦況不利にも関わらず ラジオ放送は 上首尾の戦果を 報道し、音楽は 軍歌ばかりで 言葉も アメリカ 等 敵とされる国の言葉は 使えなくなっていました。例えば、クラブは 倶楽部と書き、バドミントンは 羽球Ukyuuと 呼んだのです。尾原に 松根油工場ができ、三日交替 で艶達 里に残された働き手は、労働奉仕を 強いられました。松の根を 掘り集められ 鉈で小さい木片 に刻み、窯に入れて蒸し 立ち上がる湯気(蒸発した油)を 集め、油を 取ります。蒸留釜の火の止まる事は ないのですが、僅かしか 精製できませんでした。この油で 戦闘機が 飛べるとは 思えない程、粗悪な油でした。松根を 採取する目的で 有れば、人の持ち山に入る事が 許されました。ついでに 茯苓Bukuryou(松の根に寄生する黴・利尿剤の材料)を 集める目的で 山に入る者も ありましたが「戦地に行った若者達が 戦争に勝って 無事に帰って 来られるならば」と、せっせと辛さに耐え 山から松根を 掘り出し 製油したのです。岡山市付近の上空が 明るく照らされ、B29の飛行音が 山々に 木霊する日が 続きました。「この戦争は 負ける」と 誰もが 思ったのですが、国民は 必死に お国に 奉仕したのです。「広島 長崎に ピカドン(原爆)が 落ちた」と 言う噂が 届きました。そして 玉音Gyokuon(天皇の言葉)が ラジオで 昭和20年(1945年)8月15日 正午に 放送され、日本国の隅々に 敗戦宣言が 流されたのです。靖男は 無事 帰還しました。妻が見た靖男の首や 背中や 手足には 鉄砲玉が貫通した跡が 無数にありました。靖男は「妻の千の針で 日頃から突かれていたんで、鉄砲玉位の傷にゃぁ強ぇんじゃ」と 嘯いたのです。神仏の加護に 感謝し 庭の弥生時代の古墳、俚人軍塚(尾原塚原1146番地 北緯34度55分16.秒東経133度45分16秒1秒)に 祀ってあった社を 大切にしました。この古墳が 有るのでこの辺りを 塚原と呼ぶのです。暫くして、武雄も 帰還しました。特攻隊 に志願した 武雄が、生きて帰った事に 皆は 驚いたのです。「死ぬのを覚 悟して飛行機に 乗ったんじゃが、フイリッピンの沖で エンジンが壊れて 海上に不時着し、捕虜になったんじゃ じゃが 品行方正じゃたけん、終戦直後に 釈放されたんじゃ 故郷の尾原で こさえている 粗悪な松根油を わしの乗る戦闘機に 搭載るよう 願い出たんが 幸いじゃった  良ぇ油じゃったけぇ塩梅良ぇ(あんばいぇぇ)具合に エンジンが 故障したんじゃ  戦争はしちゃぁいけん  飛行機が 飛んでくると 今でも空ぁ 見上げる癖が ついとる」と 呟きました。「尾原の著者の親戚の者達より口伝」  平成23年(2011年)8月15日

 湯山の松根油工場跡:総社賀陽線(57号線)から484号線に入り(安藤酒店の交叉点)南東に進み、瀬戸橋を 過ぎ90m程 進んだ処 吉川川が 接近する地点の手前 竹荘簡易水道大岩ポンプ場の北 北緯34度51分8秒東経133度44分36秒

 平成29年(2017年)3月31日に【岡山「へその町」の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備人出版】がp388~p390388~p390に「松根掘り」長田村龍王谷の入り口の田の「松根油工場」宮地川西の松根油工場跡の「店の名が松根」「松油の採取」が 載っています。