神瀬 念仏踊りの再開 Restart of Nenbutu-odori " Buddhist dance"


念仏踊りは 古くから行われていたが、年末Tosisueに 災害の無い時期が 続いたので 神主さんに払う初穂料や和尚さんに払う布施が 勿体なく思い、念仏踊りを病めました。すると 疫病が流行り 村人に犠牲者が 出たので 反省し 念仏踊りを再開しました。 「年末に残る伝説」

   

念仏踊りの再開 RESTART OF NENBUTU-ODORI

 昔 年末Tosisueと言う所で 年仏踊りを 毎年 欠かさず8月16日に行っておりました。淡々と年月は 進みますが、これと言った難儀な事件は 起きませんでした。お祭りのご利益Goriyakuが 無いなら 初穂料や お布施を払うのは 馬鹿らしいと 言う事になって、お祭りを取りやめる事にしました。数年後の年末Nenmatuに インフルエンザが 年末Tosisueに 迫って来ました。当時の医療では インフルエンザの流行を 止める術も 治す術もありませんでしたので お婆さんが一人犠牲になり 多くの人が 苦しみました。村人達は 困惑し 対策を取るために神瀬年末の子安観音堂に 集合し 話し合いました。

「小森で 風邪が流行って おえんようになった者が おるそうじゃ」「きょうてぇのう 谷風邪(谷風の死因は御猪狩Oikari-kaze)かぁ 雲助風邪かぁ」「違う 女子Onagoの名前がついとる奴じゃ」「じゃぁお七風邪かのう お駒風邪か」「違う それ久松留守の札ぁ 貼る奴じゃ  えーと お染風邪じゃ」「どえれぇ事じゃ  隣の婆ぁさんが おえん事になったぞ」「なに 一 族の者もおえなかったのか」「念仏踊りを 止めたのが おえんかったんかのう」「神や仏の祟りじゃと言うんか  今迄は ここらぁ 神瀬言う位じゃけぇ神のご加護が あったと思っていたが 違うたのか」「念仏踊りぃ せにゃぁ おえんじゃろう  念仏踊りぃしていた時ぁ こぎゃぁな事ぁ 一度も無かったもんな」「じゃ じゃ  仏様を粗末にしたんが おえんかったんじゃ  今年からぁ しゃんと 念仏踊りい また始めようや」そう言う事で、念仏踊りは 再開されました。そうすると年末に 平和が戻りました。「神瀬 年末の村人の口伝」を 基にした物語 子安観音堂:神瀬196番地の北西 北緯34度55分32秒東経133度50分27秒 谷風邪:谷風と言う横綱は「わしが倒れた所を見たけりゃぁ風邪(谷風邪)で寝とる時に見舞いに来ねぇ 土俵の上じゃぁわしが 倒れるのは見られん」と 啖呵を 切っていました その谷風が、風邪が原因(御猪狩風)で あっさりと 死にました  天明の頃(1781年~1789年)に 流行したインフルエンザを谷風邪と 江戸の人達は呼びました 雲助風邪:明和3年(1766年)3月頃の風邪の流行があり、雲助 火消し Tobi 等の間で流行し多数が死亡しました。この時の風邪を「雲助風邪」と言います  お七風邪:八百屋お七の歌が流行っていた時の文化元年(1804年)の流行の風邪の事    お駒風邪:お駒を題目にした義太夫が 流行っていた時の安永の頃(1776年)の風邪  お染風邪:寛政4年(1792年)お染久松の芝居が 流行っていた時の風邪  野崎から発した悲恋が 全国に伝染するように 広まる世相に似て風邪が流行し、罹るとお染の燃える恋心のような熱が出て 火に火照ったように顔が赤くなったので お染め風邪と名付けられました 「久松さんは留守なので お染風邪さん来ても 無駄です」との意味で「久松留守」とか「お染御免」と 書かれた守り札を 軒に張りました  明治23年(1890年)から翌年に掛け、野崎からインフルエンザが 流行り始めたので 流行の始まりが野崎だったので「お染風邪」と名付けられました  やはり「久松留守」の守り札が 軒々に張られました\    その他のインフルエンザ:お世話風邪 稲葉風邪  だんぼ風邪 ねんころ風邪 津軽風邪 薩摩風邪 琉球風邪 アメリカ風邪等が有り、最近では香港風邪 スペイン風邪 アジア風邪 ソ連風邪 等と 言うものも有ります 極 最近では 鳥インフルエンザが人型インフルエンザに 変わる事が 心配されていますhttps://machi-log.net/?p=46565&page =2」「https://influ-info.jp/basic/history.html]」「インフルエンザの流行と歴史|インフルエンザ情報サービス (influ-info.jp)       平成23年(2011年)10月7日