福沢 清水城 Simizuj-you


猪木川の辺の大国主神社の西方330m程の所 福沢森久 北緯34度55分38秒東経133度44分23秒付近に有る 標高320m 麓からの高さ50mの 山頂が「清水城跡」と考えます。野々奥池の南側に当たります。北と東の眺望が良好です。山頂部に 幅 約35mの不正形の六角形状の曲輪を持つ単郭城で、 城域は 東西 60 m 南北 80 m程です。曲輪の周縁下段は 東西と北に 帯曲輪らしき構造を認めます。南東側の斜面には  小さな曲輪が 上下に2面づつあります。深さ3mは有ろう一条の空堀が 郭南側の尾根筋を黄疸します。土塁らしき構造を伴っています。

戦国期に難波十郎兵衛行豊という人物は 嘉吉の乱で落ちぶれた赤松氏を 再興しました。赤松政則の娘を娶り 赤松家中の重臣となりました。また. 浦上氏にも属したらしく 鳥取荘内や居都荘内に所領を得ていました。行豊の孫の宗綱は 備中国賀陽郡八田部領(松山藩です)に 移って来て 清水城の城主となり、その子の宗則は 清水氏を名乗りました。その子 宗治豊臣秀吉による水攻めで高名な 高松城主 清水長左衛門尉宗治です。福沢森久清水1745番地に清水Simizuと言う屋号のお宅があり、その隣の山です。この城山の麓の田の小字を清水と言い、この山の字を野々裏と言います。

屋号 清水宅前の墓の平坦地を過ぎ 山の中腹に差しかかると、道の片側あるいは 両側が土塁状に高くなります。頂上に 平坦地が見つかりましたが作平地に見えません。ここが主郭かと思ったのですが、奥に続く道が有るので 緩い坂道をやや進むと 土盛りされた山道が現れ 再び上り坂となりました。第2の頂上も 平坦地となっています。近くの田の中に 森久の案内図があり、この場所近くの地点に 城山と書かれていました。天正8年(1580年)の上加茂合戦kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-94.htmlの時には 毛利方美作軍が野々平城に対抗する為に 一時的に籠ったのでしょう。    清水:福沢1698・1752番地等 野ノ奧:福沢1688・1704番地等 野ノ平:福沢1702・1762番地等 野々平城や新山城の項目を参考にしてください。 Please refer to Nonohira-jyou & Niiyama-jyou     平成24年(2012年)1月24日