豊岡上・豊岡下 大木城 Oogi-jyou


大木城に関する古文書が 有ります。豊岡上小森線(371号線)の上大木の須用治橋を渡り、最初の交叉点を左に進み、林道大木国成線を 国成に向かい登ると 北緯34度54分11秒東経133度47分2秒の国成のやや手前の頂上に 柳井田(やねだ)金毘羅神社が 建っています。ここが「大木城跡である」と 大木城に関する古文書を 管理する人は 主張します。そこは1m程 の段差がある 平坦地2枚が 有るだけで、土塁も 空堀も 犬走り等の遺構は 有りませんし、立地は 重要街道の街道沿いでもなく この地が 戦略的に重要と思えませんので、山城と判断する事には 無理があります。

その古文書によると 大永2年(1609年)の頃の城主は岸本次右衛門で 第一家老は大田源内(31歳) 第二家老は奴本弥惣(23歳) 第三家老は奴本与四郎(16歳)と しています。苗字の奴本は 沼本の当て字のようで、この地に 沼本姓の人達が住んでおります。次右衛門は 成羽城主 の岸本氏からの書状を 受けています。上大木から 国成に向かう途中の頂上に至る中間点辺りに 右に入る山道が 分岐します。分岐した道を進み上ると 北緯34度54分18秒東経133度46分36秒に 岸本家の墓場があり、永禄4年(1561年)に 立てられた供養塔と思われる石碑が 有ります。 岸本冶右衛門 岸本茂右衛門 正月二十五日と 刻まれた石碑と 太田源内 沼本弥惣 沼本与四郎 〇〇〇 仲元 犬引 〇〇と 刻まれています。 いつの頃か解りませんが 敵襲によって これらの9人の人達が 討ち死にしたと 古文書に記されています。近くに 合戦場の地名が有ります。この古文書には 次右衛門の家系図が 示されています。

大木スヨウジ378番地や 大木雁椙子岩西平380番地の裏山 北緯34度54分25秒東経133度46分38秒付近を 向山と呼び 代官屋敷の地名の平坦地と 名前の解らない屋敷跡が有ります。名前の解らない平坦地は 古文書に残る 向山にあるとされる 太田源内屋敷でしょう。 又 西谷下の大木七右衛門跡ヤシキ段 213番地 即ち 北緯34度54分17秒東経133度46分22秒付近に 家老の沼本弥惣屋敷が あったとされます。又 古文書には「城山(古文書の持ち主は東経133度47分2秒北緯34度54分11秒 国成のやや手前の頂上の柳井田金毘羅神社とします)より向山源内屋敷は六丁 向山より西谷下弥惣屋敷は四丁半 西谷下より与四郎屋敷(「とし上つきて」と書かれているように見えます)は 壱丁半 御前城主 上かうじ とよ岡 城屋敷」と 記されています。「とし上つきて」を強引ですが、「とよおか川きた:豊岡川北」と読み、西谷金比羅神社を向山と 仮定すれば、これらの地点は 直線状に ほぼ古文書の記載通りの 位置関係に並びます。しかし柳井田金毘羅神社を 城屋敷 即ち 城山とするには 古文書に記載される位置と一致しないために 不合理です。柳井田金毘羅神社と 反対方向 即ち 豐岡上の方向のほぼ六丁の小字上光寺に 隣接して 常光寺城跡があるので、大木城は 常光寺城の事でしょう。常光寺の項目を参照ください

左の写真は 西谷金比羅神社から西谷下(中央の家)や 上光寺集落を 望んでいます。山の左端が 亀山(常光寺城山)です。街道の手前に 豊岡川が流れています。岡山県立博物館の職員に この古文書を見て頂くと「書体から江戸時代に書かれたもので、わざわざ 主要人物が 攻め殺された事が 書かれているのは 不自然であり、成羽城とあるが 当時の名は 鶴首城であり、 成羽城の縁者とあるが 鶴首城に 岸本なる有力者はいない」との事でした。池田光政が 寛永9年(1632年 岸本家襲撃事件より後)岡山城に 赴任した時 に 財政立て直しのため 乱立していた 寺や神社を整理し  整理した地からも 年貢を納めさせようとしました。寺や神社に 影響力を持つ 旧加茂川町の国人達のを中心にした勢力を 抑えるため 伊賀加茂十三流葛原氏 片山氏 菱川氏 河本氏 入沢氏 土井氏 河原氏 小林氏 鶴旨氏 津島氏 瀬尾氏 能勢氏 楢崎氏等の由緒書き等を 提出させ 焼き捨てる等しました。頑とし て政策に従わない者は 光政による軍事的な制裁を受けました。それでも 由緒書きを失った国人達は 記憶を頼りに 由緒書きを偽造したと 言われます。また岸本氏の縁者は 光政の次男の政言が 立藩した 鴨方藩に 就職しています。これらの事から 岸本氏は縁者を 鴨方藩に就職させるために 履歴書としての 由緒書が必要になり、光政に恭順する意を込め 先祖が 攻撃された過去を示した 由緒書を 摸造したのではないかと考えます。 A ancient writings about Oogi-jyou is remained    According to the ancient writings the lord of this castle was Ji-uemon Kisimoto in 1522, the 1st. chief retainer was Gennai Oota, 2nd. chief retainer was Yasou Numoto, 3rd. chief retainer was Yosirou Numoto, and the arrangement of buildings, the river,  & the land names on the map in the ancient writings suggests that Oogi-jyou/csastle was Jyoukouji-jyou   Ji-uemon Kisimoto, Sige-uemon Kisimoto, Gennai Oota, Yasou Numoto, Yosirou Numoto, certain person, tyuugen ” handy man of warrior family” Inuhiki “ person who take care of dogs” and certain person were killed in a  battle     There is a stone monument which seems to be a memorial tower which was built in 1561    There is a land name Kassenba “battle field” here    Please refer to Jyoukouji-jyou 向山:大木500・501・550番地 常光寺:豊岡上324番地 官屋シキ:大木531番地    飯知領:大木713-715番地    合戦場久保:大木780・784番地 合戦場:大木797・800番地   刀比羅後口:大木830・886番地等 殿井:大木876・891番地等 上光寺:豊岡上289・397 (北緯34度54分4秒東経133度45分48秒)・403(北緯34度 54分5秒東経133度45分49秒)・405番地 スヨウジ:大木378・400番地等  平成25年(2013年)3月29日