上田西 御所 Gosyo "Imperial Palace"


吉備津彦命 Kibitu-hiko-no-mikoto

昔、1世紀の頃、崇神天皇の頃 諸国が興隆し 大和朝廷を脅かす程になりました。そこで 諸国平定に 四道将軍を遣わせました。西国平定には 五十狭芹彦命Isaseri-hiko-no-mikotoが 任命されました。西国吉備国は 朝鮮の亡命皇子の温羅Onraが 阿曽国の姫である 阿曽神社の巫女の 阿曽姫の夫に納まり、阿曽国の王冠者となっていました。両軍は 戦い 終に温羅が 仕留められ、五十狭芹彦命は 吉備津彦命Kibitu-hiko-no-mikotoになりました。しかし温羅の怨霊が 吉備津彦命に祟り 悩ませ続けたので 脳の病(ノイローゼ)となりました。ノイローゼの治療を 進めていた時に 牛窓の海に 本宮山から霊光が射したのです。7色に輝く 霊光を浴びると 神々しく 清々しい心に成り神のお告げが ありました。お告げ通り 好敵手であった温羅の霊を 吉備津彦神社に 祀ると心のわだかまりが 払拭され脳の病は完全に 治りました。 吉備津彦命 - Wikipedia」「温羅 - Wikipedia」「村人の話」

この眺望)の良さに 血腥い戦争の心の痛みや 急峻な 山路登山の疲れを 癒すために 暫くこの地に留りたくなり この地に御座所を築きました。十分に休息を取り嵯峨(急峻)なる本宮山に登っていると 道は細くなり仕方なく 茨を掻き分け掻き分け進みましたが 道を見失いました。困り果てていると白鹿が現れ,付いて来るようにと言わんばかりに 白い尻尾を振るので、白鹿の跡を進むと 山頂の 龍王宮に辿り着き、念願の参詣ができました。感謝した命は 海神社を建て 鹿の角のイサザ王を神体としました。村人は 御座所のあった地を 御所と名付け、吉備津彦命を讃えました。「加茂山の村人より口伝」 牛窓神社:その頃牛窓は穴の海の海岸線でした。北緯34度37分23秒・東経134度10分22秒 本宮山山頂:上田東 北緯34度54分13秒東経133度50分44秒    温羅:穏やかな人の意味を持ちます  中四国地方の少なくとも一部で、韓国朝鮮のことを「うら」と呼ぶそうです  吉備津彦命は、大和朝廷に 敵対する勢力を 全て 鬼と 呼んでいましたので、大和朝廷にとって 温羅も 鬼とされました。 総社市西阿曽の阿宗神社:北緯34度42分49秒東経133度46分44秒 御所ヶ畝:上田西2393番地  何故か 村人は 気比神社を勧請したのに 化気神社と呼び、主祭神は伊奢沙別命で ご神体をイサザ王としました。伊奢沙別命は 応神天皇と 名前を交換しています。応神天皇と 吉備津彦命の二柱の神は いずれも吉備国を占領しましたが、それと関連するのでしょうか。この理由については「nihonsinwa.com/page/592.html」「www.genbu.net/data/etizen/kehi_title.htm?print=on」「nihonsinwa.com/page/1236.html」を参考にしてください。この物語は 温羅伝説と後述の嵯峨の皇子伝説が 混在しているように思えます。 平成25年(2013年)9月6日 

 

その後も 吉備津彦命Kibitu-hiko-no-mikoto)は 各地を転戦し 旭川流域も平定し、我が領土となった 本宮山に病平癒の謝礼の参詣をする事に しました。穴の海は この地近く迄 迫っていましたので、旭川を船で登り、建部の岸から上陸し、急峻(な山を 登って来ました。突然に開けた地に出たので、北方を望むと 本宮山が聳え南を望むと 御津の山々の塊を 見渡せました。

 

嵯峨の皇子 Saga-no-ouji

嵯峨天皇の治政の頃 弘化年中1844年~1848年 弘仁年中810年~824年の間違いでしょうか)に 賊が筑紫に入りこみ寇Adaしました。嵯峨天皇の皇子が この賊を征伐しようと筑紫に向っていましたが、邑久邑Okumuraの牛窓で 悩みノイローゼでしょうか)が 生じました。供奉(お供に加わり行列に加わる)していた人々は この悩みの平癒や 賊徒の平定の成功を神に 祈願しました。すると忽ちに 長田庄の本宮山に 祀られている龍王宮の灯明が  牛窓の海上に 映し出されました。皇子は 奈良の春日明神の加護が得られたと 感じ 比明神に参拝して 三本の根の杉を植樹しました。皇子の駐屯地のあった処を「御所が畝」と呼んで、現在もその名を残します。奈良の春日に因んだ知名が、本宮山近くに  沢山残っています。春日明神の分祀した時に 名付けられた地名でしょう。奈良の地名と当地の地名の対比は それぞれ次のようです。水谷川「水谷川」三笠山「三ッ山」猿澤池「申池」新池「新池」白藤龍「白龍」「御津郡史 P395」  御所ヶ畝:上田西2393番地 水谷往来:船乢Huna-ga-tawa 上田東舩ガ溺2279番地の北東の交叉点 北緯34度54分19秒東経133度49分38秒に「水谷往来 船ヶ乢]と記られた道標の案内が 有ります「本宮山三十丁 氣喜神社三丁 三山十丁」と刻まれているように見えます    三ッ石:神瀬691・736番地等 福三山:神瀬811番地 三角山:神瀬860番地 猿瀧:神瀬1609番地 猿追場:神瀬187番地 新池:上田西1282・1283番地 白瀧:下加茂311-316番地 御瀧山:上田西998・1117番地 瀧山:神瀬667・668番地 猿瀧:神瀬1609番地  

 

 嵯峨の皇子 SAGA-NO-OUJI/SAGA-NO-MIKO

44代元正天皇養老8年(724年) 嵯峨皇子Saga-no-mikoが  九州征伐の遠征 に旅立ちました。処が 途中で 不思議な病に掛かり 伏せ込みました。土地の祈祷師も 付き添いの家来達も 必死に祈りましたが 病は 深刻度を増すばかりでした。止む無く 薬師を呼び 看病させましたが 全く薬石の効果は ありません。すると 突然 備前の本宮山の龍王宮から 錦の霊光が 療養中の牛窓に 差し掛かりました。すると病は失せ、九州征伐に成功し、西征の帰り道 お礼のため 本宮山に御幸されました。この途中  眺望に優れた地に降り立ち 心を奪われた場所が あったので そこに 御所を置き 数年間留まりました。それで この地を御所(御所ヶ畝)と呼ぶのだそうです。「加茂川町史」 嵯峨の皇子:嵯峨天皇には23人の皇子が いたとされます 元正天王と時代背景が異なります  御所ヶ畝:上田西2393  平成25年(2013年)9月6日 

 

平成29年(2017年)3月31日に【岡山「へその町」の民話-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備人出版】が発行されました。P154に「御所ヶ原」と言う民話が載っています。