西 山根 船越様 Mr.Hunakosi-sama


昔 大和の西の山根の上に修験者がやって来て、民の旱魃の難儀を救おうとしました。干し柿と鈴を持って 穴に入って 23日だったか48日だったか お祈りしました。そして  生き埋めされて、その祈祷は実り 雨が降りました。その人を御墓堂に 祀っていたのですが 船越さんの家の墓場に 移して、船越堂(御墓堂)に なりました。「西山根の村人のより口伝」「吉備中央町の民話(1)」   天正10年(1582年)備中高松城の戦いで 毛利輝元方に与し織田信長方の羽柴秀吉に 屈すると  船越一族は 没落し 帰農しました。具足山妙本寺は 戦国時代 無住職だったので 伽藍は荒廃していましたが、天正11年(1583年)に 大改修が施されると 仏の道に進んだ者達は これに積極的に協力し 徳を高めようとしました。船 越氏ゆかりの僧侶が 天 正18年(1590年)の飢饉の折り 人柱となって 雨乞いし 雨を降らせたと 伝えられています「西山根の村人のより口伝」

 

船越様物語 story of MR.HUNAKOSI-SAMA

毛利氏に従っていた三村氏は、宿敵宇喜多氏が 毛利氏と同盟すると、毛利氏方に 残る者と備中高松城主 三村氏の党首 三村元親方に 従う者に 別れ 血で血を洗う戦いを 天正2年から3年(1574~575年)に 掛けて繰り広げました。この備中兵乱では 船越氏の主君 野山宮内少輔益朝は 三村元親に従いましたが、実際には 交戦を避け 妙本寺を毛利軍の本陣とする事を看過しましたので、三村・高松城は 敗戦しましたが 野山氏とその家老職にあった 船越氏は 領土を 安堵されました。しかし この戦いによって船越氏の一部の者は 毛利氏の追及を 受け あるいは 追及を恐れ 仏の道に進む者も ありました。天正10年(1582年)備中高松城の戦いで 毛利氏方に与し(くみし)、織田氏方の羽柴秀吉に屈すると 船越一族は 没落し帰農しました。具足山妙本寺は 戦国時代 無住職だったので 伽藍は荒廃していましたが、天正11年(1583年)に 大改修が施される と仏の道に進んだ者達は これに 積極的に 協力し徳を 高めようとしました。

しかし、この改修に 参加した 職人達の献身的で 効率的で 尚且つ 統一された働きぶりを見て、自らの修行の甘さを 感じ 更なる修行に 旅立ち 荒行を試みた者も おりました。天正18年(1590年)に 全国的な 大旱魃が起こると その僧の一人が 故郷を心配して 野山に帰ってきました。その郷の有様は 旅の途中に見た旱魃の被害より 悲惨なものだったので、山根の聖地に 穴を掘り 鈴と干柿を携え 穴に篭り 飲食を断ち、一心不乱に 一族のために 雨乞い祈祷をしました。23日だったか48日の祈祷の頃には 衰弱し 死ぬ寸前でした。僧侶は「私が人柱になれば 必ず雨が降る 今すぐに私を 埋めてください」と 言うのです。僧侶の一族の者は 余りに 苦しそうな僧侶を 見て「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」と お題目を 唱えながら埋めました。この僧侶の霊験により 著しい雨となり この年は大豊作と なりました。霊意を 感じた一族の者は その聖地に 祠を建て 本願御墓堂を建て 祀りました。時が経ち、祠が朽ちかけると 末裔の者達は 一族の墓場の脇に 御墓堂を移し、祠を 築き船越堂と 呼びました。「西山根の村人のより口伝」を基にした物語、

船越堂・船越様・みはか堂:北緯34度48分7秒東経133度42分25秒 小ヶ市・船越屋敷:北3040番地 北緯34度48分1秒東経133度42分23秒    仏教における鈴・りん・れい:リンは鉢状 あるいは 壷状の鐘で 鈴台に乗せ撥ばち 鈴棒)で 叩き読経や 合掌の合図等に用いられます。レイは インドの武器を かたどった小型の鐘状の 手持ちの仏具で、金剛鈴、宝珠鈴 等が あり、周囲の物を レイで 叩いて音を出す 等して 煩悩を 祓う 又は 仏を 守護します。いずれも 神道における 魔除けの神具である(現在の鈴形)神前の鈴や 束ねた 神楽鈴とは 異なります。    干柿:好ましい事が 起こる事を 祈ります。喜来Kakiが 由来です。また干柿の表面は 老人の皴のようにみえるので 長寿の霊力が あるとされます。「柿が赤くなると 医者が青くなる」と 昔より言われ、栄養学的な 健康効果を 指摘する人が 多くいます。    具足山妙本寺:北常入道1501番地 北緯34度48分34秒東経133度42分16秒 船越家:船越家は 奥樋城 伊達弾正館の家老職を 務めた家柄です。賀陽町史には「野山氏の本拠地、奥樋の伊達弾正館に 一番近い要地に 館が有るので 山の麓を山根 と呼びます.山根には 家臣 郎党 百姓が 家を連ねていました。馬越城 佐与谷城と 異なり、乗馬数分で 奥樋に辿り着けます」と 船越館について記載されます。「船越氏伝来来什器の説明」には「船越家は 藤原氏から 出ており 一ノ谷合戦に 薩摩守忠度を 討って高名した 岡部六弥太の子孫である  弘安年中 船越三良平衛は 縁者の故を 以って 伊達弾正朝義に 従い共に 備中野山に下り その家老となった 天正十年の高松城水攻戦後 毛利麾下であった野山宮内小輔益友嫡氏朝明が 没落した為、船越氏も 民間に下り 北村に 住み 以来 今日に及んでいる 今も 裏山に船越様と称して 先祖の廟所があり 毎年正月二十日に 早朝赤飯を 炊き 吸い物 を調え この什器に盛って 供えた後 神酒を 添えて 廟所へ 参拝する」と 説明しています。        平成24年(.2012年)9月24日