和田 土居清吉入道頌徳碑 Monument for eulogization of  Doi-Kiyoyosi-nyuudou's virtues


和田下集落の和田金田番地の北方向の道沿い 北緯34度53分5秒東経133度44分43秒に 土居清吉入道頌徳碑が 立ち、多くの社が 祀られています。この辺りの土居一族が 護る社です。土居清吉入道頌徳碑は 和田 土居一族の先祖で、伊予の国を守り 長曾我部氏との戦いに破れた後 広島に移り 大阪合戦に参戦、美作に移り、伊賀久隆の客将となった人物の功績を 讃えた碑であると 和田素盞嗚神社の神職に就く村人は言います。土居清良とは  伊予国・西園寺家配下 土居清晴の子です。大友宗麟が 伊予大森城侵攻した折、祖父土居清宗と 父土居清晴が 戦死したので、脱出し 土佐国中村の一条氏を 頼りました。功績を挙げ 元服すると 故郷に戻り大森城主となり、三間3村約2千石の守備のために 鉄砲を 全配下に 装備させ、農業奨励し 経済力を養い、西園寺十五将の一人に 数えられました。大友宗麟 一条兼定 長宗我部元親の攻撃にも耐え、毛利氏に加勢して 中国地方を 転戦しました。豊臣秀吉が 四国征伐に乗り出すと、小早川隆景に 主家が 破れましたが、土居清良は 所領を 安堵されました。しかし小早川隆景が 九州に移ると 後ろ盾を失い、藤堂高虎等の誘いを断り 隠居生活を送り 享年84歳で没しました。https://ja.wikipedia.org/wiki/土居清良」 村人の話す伝説 と ほぼ一致しますので、土居清吉入道と 四国の謙信の異名を持つ土居清良は 同一人物でしょう。  平成25年(2013年)1月12日