円城 倉ヶ一地蔵 Jizu-bosatu in Kura-gaati


円城と上田東の境の倉ヶ一に地蔵菩薩 等が 祀られています。右端の地蔵菩薩像の左右の縁には それぞれ「右 にひ山」「左 かも河」と 記されているように見えます。その左隣の地藏菩薩像の台座には「寛保六歳 念佛講中四人 正月廿四日」と 記されているように見えます。その左隣の仏像の光背は  輪光です。左端の地蔵菩薩の左右の縁には それぞれ「享和三〇」「六月廿五日」と記されています。上写真の案内版が立っています。これに 従えば 才の神と習合した地蔵菩薩 等でしょう。才の神は 中国の道祖神と 習合し、道祖神は 天孫降臨の時 高天原の神々の道案内をした 猿田彦命習合し 更に猿田彦命-天鈿女命夫婦と習合しました。猿田彦命は 金精神とも 習合しました。天鈿女命は 天岩戸事件でも 天孫降臨事件でも 胸や下半身の衣服を開け 裸踊りをしてます。猿田彦命と天鈿女命は 精力的な神であったのでしょう。それで 道祖神は 双躰像であったり セクシャルな石碑であったりするのだと言われます。

 

倉ヶ市の夫婦物語 story of Couple in Kura-gaATii

 宝永5年(1708年) 江戸で 得体のしれない病気が 流行っているとの噂が 円城の村に 届きました。病人に 触れば 勿論の事 傍にいるだけでもうつり、非常に高い熱が出て 頭が痛くなり 腰痛 等が現れ 一旦治りかけたと思うと 顔面 等に 豆粒の様なホロセができ、全身に広がって行き 呼吸や お腹の具合さえ おかしくなり 半分位の人が 死に、運よく治っても 痘痕Abata)\が 残り 醜い姿になると言うのです。ある日 村の峠  倉ヶ市の近くに赤 ら顔で 鼻が異常に高く 丸鏡のような大きな目をし 太い眉で 口の大きい男と 手弱女Taoyameそうな 色白のぽっちゃり女で ぺちゃんこの鼻 細い目玉 点の様な眉 小さい口でどちらかと言うと「おこぜが軍艦ぶって西ぃ西ぃ向かって進む」ような 面勝醜女Menkati-Busuな女の夫婦が  現れました。2人とも 顔は アバタだらけでした。村人はその男達を見つけると 江戸で流行っている 病気持ちだと思い「目障りじゃ  叩き殺せ」と 村中の男達を集め 向かって来ましたが、その男は 鬼神のように強く 天神さえ勝てそうもありませんでした。村人は とても敵わないkanawa-naiと知ると 円城寺の和尚に 相談しました。和尚は「天和元年年(1681年)にも同じような病気が 流行った  治った者は2度とかからんかった  じゃけぇあの者 等は もうかからんし 人に病気ぅ 移さなん  あそこに住まわせておけば あの夫婦を見て 不審者は 恐れをなして 円城には手来まい さえの神に 負けない働きをしよう」と 言って、村人を納得させ、夫婦を倉ヶ市に住むことを放任させたのです。

案の定 峠に 来た者達は アバタだらけの夫婦を見て「円城には 悪い病気が 流行っている」と思い 黄水が走る程の醜女と、牛頭天王のような鬼男を 恐れて 退散するのです。それでも 村に入ろうとする者がいると 話しかけ 熱の有る者は 村に入れなかったのです。こうして 円城は  何度も 病気の流行から守られたのですが、病気が収まると 風貌に好意が持てない上、この夫婦は好きもので 所かまわず 愛の営みをするので 目のやり場に困り、また子供達の性教育にも差し障りを感じ 邪魔者扱いしたのです。時が流れて夫婦が亡くなり  跡を継ぐ者が無くなると 村に病人が 出るようになりました。享保4年(1744年)又も「江戸で不思議なホロセができ 死人を多く出す病気が 流行っている」と 言う噂が流れてきました。村人達は  怖れ慄きました。村の長老や 円城寺の和尚達は 過去を振り返り「見た目で判断し 粗末に扱こうたが あの男とあの女ぁ 塞の神(才の神・道祖神)じゃった  地蔵にして祀るけぇ 以前みてぇに 村ぁ守ってつかぁせぇ」言って、夫婦の地蔵を作り 村外れに祀りました。すると正法寺の和尚の夢に 猿田彦命と天鈿女命が現れ「病人が出たら 三昧に隔離し 住まわせ 病人同士で 看病させなさい」と 告げました。三昧から岩倉山にかけ病人を 隔離すると 病気の蔓延を 免れました。それからは 旅する人は 安全に旅ができ、災難が 村を襲わなくなり、村に多くの子供が生まれ 繁栄しました。「倉ヶ一地蔵」「双体道祖神」「牛頭天王伝説」「痘瘡の流行」「村人との雑談」を基にした物語 円城寺:本宮山円城寺を意識した架空の寺 江戸で得体のしれない病気:痘瘡https://kotobank.jp/word/痘瘡猿田彦命:鼻の長さは七Nana-ata 背Sobiraは七尺Nana-saka 目が八咫鏡Yata-no-kagamiのように また赤酸醤Aksa-kagstiのように照り輝いているという「https://ja.wikipedia.org/wiki/サルタヒコ」\天狗のモチーフで、天狗に長い鼻は 精力を表しているとされます 天鈿女命:手弱女だが 顔を合わせても気後れしない(面勝つ)な女神です「https://ja.wikipedia.org/wiki/アメノウズメ」「お多福」や「お亀」のモチーフです「https://sinwa-densetu.com/japan/6813」裸踊り絵をDして、怒る天照大神や、昂ぶる猿田彦命の心を鎮めました 牛頭天王:武答天王の一人息子は 7歳の時には 身長は7尺5寸もあり、3尺の牛のような頭で 3尺の赤い角までありました。太子は 王位を継承し 牛頭天王と名を変えますが、后を迎えたい年頃になっても その姿の怖故に 近づく女人などいませんでした。牛頭天王は 酒にひたる毎日でした。3人の公卿が 天王慰安のため 山野に狩りに連れ出しました。すると 一羽の鳩が現れ「大海に住む沙掲羅龍王(八大龍王)の娘は ブオトコが好きだ」と言って 牛頭天王を案内して 美しいは娘 頗梨采女を娶り 八王子を儲けました この度の途中に 蘇民将来事件、巨丹将来事件を 起こしますhttps://ja.wikipedia.org/wiki/牛頭天王    倉ヶ一・倉ヶ市:円城43-62・65・66・106・111-114・116番地    おこぜが軍艦ぶって西に西に向かう:岡山の方言で、例えようもない醜女の形容で、関東では鬼瓦とも表現されます  手弱女:なよなよと優美な女性の事です  面勝つ:面構えが良い 面と向かっても物おじしない 黄水が走る:吐き気がする ホロセ:でき物 丘疹 蕁麻疹 疣等    天狗とお亀:地祇猿田彦命と天神の天鈿女命夫婦が モチーフで、両神は 道祖神やさえの神 と習合しました    地蔵乢:歯痛地蔵が 円城から下土井に向う道で、倉ヶ一を過ぎ 数100m進んだ  円城新屋敷98番地の近くの左手 北緯34度53分26秒東経133度48分14秒に石の門の土手の陰 すなわち土手の裏側にあります 円城64・160番地等    円城さえの神:北緯34度53分27秒東経133度48分14秒の歯痛地蔵付近に祀られています    天然痘・痘瘡の伝染:接触感染や飛沫感染で感染します  感染部位の剥離片では 1年以上感染力を保ちます    江戸における痘瘡の流行:承応3年(1654年) 天和元年(1681年) 宝永5~7年(1708~1710年) 正徳5年(1715年) 享保13年(1728年) 享保20~21年(1735~1736年)  元文5年(1740年) 寛保4年(1744年

三昧:寺の管理する無縁者の墓場 墓碑を立てない埋葬地 あるいは 火葬地 円城225・226・236-241・243・244番地    三前:円城242番地 投げ打ち:江戸中期\に 庶民が 墓を持つ事が 許されますが、それまでは 地域の管理する無縁者や 墓を持てない者等の風葬地等(共同墓地) 俗に言われる姥捨て山 多くのっ場合 風葬(鳥葬)でした 三ま以:上田西2021-2031・2033・2035・2117-2119番地 池田南:上田東池田南2369番地の北側隣地は 投げ打ちであったとされます 佛瀧:上田東2373番地      平成23年(2011年)8月9日

 

平成31年(2019年)3月31日に【岡山「へその町」の民話 追補版-岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会】が発行されました。p58に「追い付けない」よいう記事がにっています。倉ヶ市地蔵の近くに女の人が立っていて、追い付こうとしても追い付けないと言うはなしです。