上加茂合戦物語The story of Kamigamogassen battle

 

前書き preface

上加茂合戦が 勃発した時期については 天正2年説や 天正8年説等 諸説あり、上加茂合戦戦の内容も 諸説あり 上加茂合戦の姿を 理解するのに 戸惑いを感じます。これらの多くが 書家の回顧録として 伝えられるからでしょう。この物語は「虎倉物語 上加茂合戦記 御津郡加茂川町教育委員会」「フリー百科事典:Wikipediaの該当諸項目」「http://kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-37.html」「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-37.html」「kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-36.html」「http://kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-38.html」「http://kibi2011.blog81.fc2.com/blog-entry-40.html」等 を基にして、この地方の人達による 伝承話を取り入れ、天正2年(1574年)の備中兵乱 天正7年(1579年)5月の宇喜多氏・信長同盟成立 歴史的に 確立した出来事と 比較しながら 書きました。多くの部分は 歴史的事実に 沿っていますが、これは物語であり 歴史的資料では ありません。

戦前 prewar time

後ろ盾していた尼子氏を 裏切ってまで 毛利方に付いた 宇喜多直家でしたが、時の流れを 読ん で宇喜多直家は 織田信長方へ 与しようと 羽柴秀吉に 相談すると、直家の梟漢ぶりが 気に入らない 信長の強い固辞を 秀吉は 機会あるごとに 説得し 天正7年(1579年)10月に 宇喜多氏を 信長傘下に 引き入れました。これに怒った 毛利輝元は 寝返った宇喜多直家を 許せず 討つことを決心しましたので、毛利氏と 国境を 接するに至った 伊賀久隆の地は 平穏を失い 織田信長勢対毛利勢の最前線と なったのです。https://ja.wikipedia.org/wiki/宇喜多直家」「https://sites.google.com/site/okayamakenshiryou/home/eiroku05-1580」「https://ja.wikipedia.org/wiki/伊賀久隆

辛川合戦 Karakawagassen battle

秀吉の毛利攻略を優位へ導いた小早川隆景の辛川崩れ(宇喜多勝利) | 福永英樹ブログ (ameblo.jp)

織田信長が 京都に入るのを 見た 毛利氏は 慌てて動きました。毛利輝元は 安芸国吉田城を、副将の小早川隆景は 沼田城を出立し 備中松山城に入りました。3手に 分かれて進軍し 岡山城に 総掛かりで攻め掛かる作戦を立てました。1手は 毛利元就の3男小早川隆景が率い 大井城 岩田城から 岡山城に、1手は 元就の孫 毛利輝元が率い 松山城から出て 竹ノ荘へ、1手は 吉川元春 が率い 美作の諸城を 落とし円城から下加茂へ向い 進軍を開始しました。1万5千の兵力で 小早川隆景軍は 天正7年(1579年8月に 岡山城を 攻めようとすると 病床中の 宇喜多直家に 代り弟の浮田忠家は 矢坂村から一宮村までの間に 七段の備えを設け、毛利勢の侵入を 待ち受けました。戸川平右衛門の子 戸川助七郎達安(後に肥後守)は 辛川村(現岡山市辛川)辺りに 兵を伏せ、先鋒が 攻めかかり大軍に 恐れをなして 逃げ出すふりを すると 小早川軍が 勝ちに乗じて 後を追いしました。そこへ 伏兵が 背後から襲い掛かると 数えきれない兵が 討ち取られました。隆景は児島の常山城を 襲うふりをして 岡山城軍が 援軍のために 城を出た隙に 岡山城に襲い掛かろうとしましたが、岡山城側は その作戦に 乗りませんでした。そこで 小早川軍 は馬屋Maya 日応寺を 経てた毛利輝元の待つ 竹ノ荘に 向い 陣を固めました。http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2019/03/311-ea69-1.html 隆景が 竹荘に 集結した後、有漢飯ノ山城でしょうか)を 経由して 福山城に 向かいました。「加茂川町史続編p5」

吉川元春の美作平定 Aggressive war into Mimasaka By Motoharu Kikkawa

毛利輝元は 辛川崩れを 反省し、元就の臨終の床での息子達(長男隆元“輝元の父” 次男吉川元春 三男小早川隆景に 教えた三本の矢の教訓である 一族結集の大切さを 知り、まず 備前備中の境である 藤沢城(下竹ノ庄仁熊)を手に入れ それを足掛かりにして 一気に 宇喜多直家の最大勢力である虎倉城を 攻め落とし、備中軍や 美作軍との連携を 容易にして 宇喜多直家を 北から攻める作戦を 立てました。そして吉川元春は 虎倉方の美作 大寺畠城http://www.hb.pei.jp/shiro/mimasaka/ohterahata-jyo/を 攻略し(毛利史料集)続いて、美作の城全てを 占領下に入れましたhttp://www.hb.pei.jp/shiro/mimasaka/sasabuki-jyo/」。虎倉方の中津井 水田 有漢の諸城も 次々と落とされ 国境の伊賀三郎五郎 あるいは 新山玄蕃が 護る四ッ畦城や 飯ノ山城も 吉川元春の手 に渡りました「虎倉写記」。四畦城は 高橋右馬允資高 飯ノ山城は 山県三郎兵國吉が 城番として 入りました。こうして元春は 落合 津山 勝山から兵を 集めました。その後 旭から 小森を 経て 下加茂で 本隊と 合流して虎倉に 向かおうとしました。交通の要所で ある江与味から 下加茂に向かう街道の見張り場である 焼谷の城山城 柏尾の柏尾城 三谷の小谷城odanijyouを 密に 奪い 百坂城や 小森城を 攻め落す事を 虎倉方に 悟られないよう作戦しました。これらの見張り場は 規模が小さく 数人の精鋭部隊で 容易に 奪えそうだったからです。そこで 柏尾の郷の出の者が 命じられ7人の精鋭が 選ばれ、柏尾に 里帰りする振りをして 柏尾に 入りました。しかし 柏尾の出の者は 産土神社ubusunajinnjyaが 荒され、縁者が 殺される事を嫌い 密かに村の者に 内通しました。騙し打ちの決行の日に 毛利の者は 裏切り者を 血祭りに上げましたが、作戦を 知った地元の者達に あえなく 討ち取られました。村人は 7人を悼み 宮を建て祀る事にしました。この事件で 伊賀軍は 毛利軍の作戦の全容を知り、最前線の百坂城を 強化しました。毛利軍は 数少ない道案内人を失う事にも なったのです。柏尾城 七人宮 上田東貢の村人より口伝」

新山城戦 Niiyamajyou castle battle

その結果 吉川軍は 地の利に 長けた百坂城mozako-jyou 小森城 常江田城 鍋谷城の関門に 阻まれ 美作に引き返し杉谷 福沢に 進軍、新山城の出城である 飯ノ山城 四ツ畦城を 奪い  野々平城の真向こうに 清水城を 築きました。野々平城は 有漢に向かう街道と 落合に向かう街道に 挟まれており 新山城の援軍を 受けやすく、城内に 耕作地を 持っていました。有漢の飯ノ山城を 出発した 山県三郎兵衛国吉は 笹目から 毛利軍の邪魔立てする 新山民部の守る 尾原の新山城に襲い掛かり城を 焼き捨てました。それでも 野々平城に 南進が 阻まれ 突破できなかったので、有漢を 迂回し 山道で 大平山を 何とか無事に 越え 豊野の貞徳寺跡で 体制を 整え直して 南進し 下竹を通り 藤沢城を 目差しました。それより先に 松山城から出て 有漢飯の山の城を 経由し 妙本寺に 集結していた輝元は 自ら指揮し 福山城を攻め落とし 福山城を 虎倉城攻めの前線基地にしようと 部下を派遣し 自らは 藤沢城に 入ろうとしました。 http://kibi2011.blog81.fc2.com/blog-category-6.html虎倉城麾下にあったであろう城 (9)」「福沢福沢口の村人より口伝」

腹切り八幡 Harakiri-Hatiman

攻め来る毛利軍の数は おおよそ 3万で 自軍の2倍に達する事を 知ると、伊賀久隆は 真っ向勝負ではとても勝てないと 判断し、民も 兵も 虎倉に退いて引き付けるだけ引き付け 敵軍が密集した処で 決戦する作戦を 指示しました。この知らせを聞いた 小森城の忠臣の八幡一郎Hatiman-Tarouは「抵抗もせず ムザムザ城を 明け渡すのは 武士の本望ではない 最後の一兵になるまで 戦いたい」と 申し出ましたが 城主の伊賀修理は 頑として伊賀久隆の命に 従おうとしました。八幡は 船状に加工した を 小森城の主郭の近くにあった大岩(腹切り岩)に 乗せ、見事に 抗議の切腹を 果たしました。八幡が 目が眩み ぐらつくと 畳ごと 麓に 滑り落ちました。人望厚く 地元民に慕われていた八幡を 地元民は 落下点に 埋葬し 仮の墓を立て、後に 小森城主郭に 葬りました。腹切り八幡

辻堂戦 Tujidou battle

毛利軍が 進軍を開始すると 大原城伊賀惣右衛門(神原惣右衛門)は 土生山城での狼煙を 上がました。狼煙による情報は 小谷城Kotani-jyou 大畑城Daibatake-jyou 福山城 鍋谷城 清経城 野山城Nosanj-you(九折蕃神大神宮 へと伝達され 虎倉城へ 届きました。柏尾城 地蔵城 小谷城Odani-jyou の見張り場からも 狼煙が上げられ 全ての虎倉城の支城の住民も 兵士も 一斉 に武器になりそうな物 食料になりそうな物 明かりに使えそうな物の全てを 持って 虎倉に 移動 し始めました。毛利輝元 等は 河内田を 通り田土藤沢城を 目差していると、河内田城ヶ鳴を 通過しようとする時に 突然辻堂砦の兵士に 襲われましたが 5名の兵士を 討ち取りました裕園。辻堂の兵を 押しやると 周囲の大原城 山崎城等 小城を 落として行きました。この時小谷城Kotani-jyouを 落とされたのは 安藤伊賀守(伊賀惣右衛門・後の神原惣右衛門)で あると言われます。吉川方面でも 丸山城 菅野城も 陥落させられました。 

南部隊 穂井田元清 The south military unit : Motokiyo Hoida

虎倉城 南約9Km 備中境に 備中大井方面に 対する押えとして 本陣山に 小さな砦の奧宿の鼓田城に 伊賀久隆は 河原源左衛門と 河田七郎に 足軽五十人を 添えて守らせていました。備中猿掛城主の 穂井田元祐は 大井庄を 席巻して鼓田城を 攻めました。多勢に 無勢でしたので 毛利の大軍に 対抗出来る筈もなく 急ぎ  守将の河田七郎と 河原源左衛門は 虎倉城と 岡山城に 救援求めましたが、虎倉勢は 上加茂に 迫る毛利軍に対応していて 応援が間に合わず、岡山城の宇喜多直家は 穂井田軍が 城下に迫る事を 理由に 援軍を出しませんでした。そのため あっけなく 攻め落とされ 河田七郎は 討ち死にしました。河原源左衛門は 負傷し て虎倉へ 逃れようと 百谷の東の滝まで来て 滝脇 に隠れていましたが 敵兵2人 に見つかりました。源左衛門を 見つけた敵兵が 谷を越えて 駆け寄って来て 挑みかかりました。源左衛門は少しも 騒がず「某Soregasiは 伊賀の将 河原源左衛門なり 深手の身ならば わしの首ならくれてやるゆえ 首を取って手柄にせよ」と 言って、脇差を 腰から抜き捨て 無防備に なりました。敵兵は大将の首を 挙げられる喜びに 用心を忘れ 近寄ってきました。その時 源左衛門は突然2人の敵を 左右の脇に 抱え込み 滝の流れが落ちる谷底へ飛び下りました。砦の中で 討ち残された者達は 虎倉へ戻り 源左衛門の最後を 伝えました伊賀久隆の戦い The battlles related to Hisataka Iga - okayama-yaso ページ! (jimdofree.com)」 穂井田元清は 父の毛利元就から「「虫けらなるような子供」「まぬけで 無力なものだろうから、その時は どのようにされてもかまわない」等 と酷評された元清であったが 獅子奮迅し 部下を手分けし 備中福谷 岩田 高田方面から 攻撃し 勝尾城 六本木城を 奪い、更に馬屋上 野谷 日応寺方面にも 攻め寄せました。毛利元清の大軍の前に 虎倉城の防備は 次々と破られていきました。

藤沢城戦 Hujisawajyou castle battle

この時 大畑城 藤沢城も 毛利氏の手に落ち 藤沢城に 輝元は入り、粟屋与十郎元信を 城番としました(虎倉記)伊賀左衛門久隆の手勢の川田又左衛門守帯刀 伊賀與次兵衛 片山弥左衛門籠置が 戦略上重要な 藤沢城を 取り戻そうと 手を変え 品を変え 夜討ち 朝駆けして 度々攻めました。しかし 粟屋が 大軍に任せ 部隊を3交代制にし 休息を確保したり 多くの見張りを立てる 等する 優れた戦略を 用いたので 大した戦果を 挙げられませんでした。毛利軍は 伊賀軍のこの不甲斐なさに「田舎侍は しょせん田舎侍だ」 と 侮りました。こうして 主戦場になった 竹ノ庄や 吉川方面では 毛利方 伊賀方は 共に 多数討死しました。

本堂の策略  Trick with Honndou

毛利軍が大原城 丸山城 小谷城 菅野城 山崎城等から大した反撃が 無かった事に 気を良くして 藤沢城に 集結しようとするのを知った 伊賀久隆は 少数の部下を 従え竹部の重友山法福寺の本堂へ 駆けつけ、本堂 坂元 鬼突等の檀家を集め「数日間雨が 降ったので 明日は 深い霧になるだろう  霧で行く手を 見失った敵に 我が軍の本陣が 竹部にあると 見せかけたい  戦勝した折には 必ず 再建するので 朽ちかけた本堂を 焼かせてもらいたい」と 相談しました。檀家の者達は 敵軍の中を 勇敢にも訪ねて来た 久隆の勇気に 感動し、日頃の恩に 応えるため 久隆の申出を 受け入れました。村人は 仏像 経文 仏具 石造物 等を 持ち出し、燃やせそうなものを 本堂の前に 積み上げ その時を 山に 潜み待ちました。準備を終えて 急いで引き上げる久隆でしたが、立ち込める霧の中で 夜の山道を 進む訳には ゆかず、清経に 差し掛かった時に 止む無く 農家に 一夜の宿を 頼むと、頼られた栄光に 鴨神社の氏子衆は 大喜びし、2軒の農家を 紹介しました。久隆は「この2軒を 今後 借屋(仮屋:鴨神社が大明神屋敷から麓に下ろされた時に仮の社を置いた処との伝説もあります)と 呼び 後々迄の名誉とし 必ずや 礼をする」と 約束しました。本堂の策略

玉藻岩のご利益 grace of Hamamoiwa stone

伊賀久隆の命令で 虎倉に 馳せ参ずるに 当たり、土井一族は 土井神社に集まり「霧が 更に更に 深くなるよう  戦いが 吉であるよう」戦勝祈祷をしていました。村人から届いた 炊き出しを 神前に供え 食べていると、社は ガタガタと 武者振るいするように 揺れ動きました。ふと見ると 玉藻石から 怪しげな霧が 吹き出して 藤沢城に 向けて 流れて行き 霧は さらに 深まりました。「八重事代主命(託宣の神 大国主命の長男)の御言葉だ」「美保津姫命(保食紳 大国主尊の妻)のご利益だ」「殺生石のご利益だ」「この戦いは 大勝利だ」と 皆々の意気が 盛り上がると、土井次郎左衛門を 先頭にして 虎倉に向かいました。玉藻石

毛利軍福山城へ Mouri force march to Hukuysamajyou castle

毛利軍は 武器や 食料を 調達しながら 加茂市場を 経由し 福山城に 向かい、大谷 下加茂 宇甘渓を 経て 虎倉村に 押し寄せるべく 作戦を立て、粟屋与十郎 太田垣源右衛門 馬廻りの児玉小次郎元忠 三浦惣四郎元忠 野山宮内少輔(葛原宮内少輔)を 大将として、訳合って 伊賀方に 勘当され毛利氏の居候をしていた 河原六郎右衛門に 地の利が効くとして 道案内させ、夜が ほのぼのと明ける頃に 藤沢城に集結し、気勢を 挙げ大軍を 華やかに 拵Kosiraえて「虎倉城の実力の程を 見てやろう」位の気持ちで 福山城に 向かいました。天正8年4月13日の夜明け、毛利方軍は 加茂総社宮の裏山を 超え 宇甘川を 辿って 元兼へ、更に 初戦の地 伊賀兵庫が 守る福山城に 迫ったのです。ところが、この道のりに 人っこ一人いず、全ての家も 留守で 武器に 使用できそうな鎌 鍬(Kuwa 鉈 金材棒 等もなく、食べ物と言えば 人を馬鹿にしたように腐った物ばかり 残してありました。期待した 食料が 得られなかった雑兵共は 腹立ちまぎれに 家や 小屋を 壊しました。玉藻岩の毒気を 含んだ霧で 視界を 塞がれる中、道を失いそうになっても 道を 尋ねる事ができず、霧に 濡れて重くなった 具足を 引きずりながら 進軍を 続けました。毛利軍が 出立して 無人となった大畑城に 密に偵察していた 仁熊勘兵衛は 駆け上がり 狼煙を 上げました。4月13日の福山城戦では 夜明け 毛利方軍 は加茂総社宮の裏山を超え、宇甘川を 辿って 元兼 萩坂へ、更に 伊賀久隆の命で 新山城を 撤収した 新山民部 新山兵庫の両軍が 籠っている福山城に 粟屋与十郎 太田垣源右衛 山県三郎兵衛等の2000人の先陣軍が 襲い掛かろうとしました。福山城の三方は 絶壁で 東の尾根には 深い空掘が 掘ってあり、攻め込むには 困難を 伴いました。樹が切り倒され 見通しが 良く成っていた斜面を 毛利方兵は 小城と侮り よじ登って来ると 引き付けるだけ引き付け、矢を 射かけ 大岩を 落し 丸太を 転ばしました。この攻防が 数回続けられたので 堪らず毛利方軍は 一端攻撃を諦め 美原に 退き 大高山に 登りました。夜を 待って 毛利方勢が 闇を付き 次々に 10人程の組みを 作り、見通しの悪い 谷筋を 大変な努力をして 城に 登ってみると 既に もぬけの空でした。夜明けに 河原六郎右衛門の案内で 毛利方勢が 伊賀伊勢の護っている筈の十力城に 登ってみると それも もぬけの空でした。毛利軍は 福山城を 修理して 軍を駐屯させ 輝元を迎え入れました陰徳太平記

毛利方勢は 緒戦の楽勝が 伊賀久隆の作戦とは 知らず、大軍に 恐れをなしたもの と思い込み 気を良くして 一気に虎倉 に迫るべく 夜どうしかけて 下加茂に 駈け出ようとしました。これらの道筋は 狭く虎倉方軍に急峻な山を 利用し 奇襲されれば 毛利方軍に 多大な被害を受けると 心配しながらの進軍でした。そして 平岡を 通り過ぎようとしていた時に 遥か南に 明かりが霧を染めているのが 見え 何やら鬨の声を 上げているように 思えました。正しい道を 進んでいると 思っていたのですが「伊賀久隆が 本陣を敷くとすれば 虎倉城から 最短距離にある 上加茂に 敷くに違いない  あの明かりは 上加茂から 上がっている  伏兵に かき乱される 心配から 道を違えた  我等の進路は 北に ずれている 」と 伊賀勢の戦術を知り尽くしている故に さすがの河原も 明かりの元が 既に 毛利軍が 支配している 竹部であると 気付かず 進路を 南に変更しました。その結果本隊は  奥谷を 進み  一部隊は 臼井谷を進み 他の部隊は 岩井谷を 通りいつの間にか 上加茂に 出てしまいました。「地の中からの奇襲や 樹の上からの奇襲に 用心が必要だ」と 河原に 言われていたので その恐怖と 心労は 毛利軍の雑兵にとって計り知れないものでした。毛利軍の兵の疲れは 甚だしく やむなく 夜襲を諦め 清経城を 本陣とし 坂を下って柵を 巡らし、しっかりとした陣を 敷き、霧が晴れるのを待って 夜の明け染める頃には 全軍を 上加茂の谷に 集結させ、夜明けと 共に 加茂川を渡って 敵の本陣に 迫る計画を立てました。小森城を 襲った部隊は 上加茂に向かい 本隊と 合流しようとしましたが、両部隊は 始め敵であろうと思い 色めき立ち 戦闘準備しましたが、霧の切れ目に 浮かぶ互いの 旗印と 名乗りの声で 味方と解り 合流しました。毛利軍が 上加茂に 現れた事が 虎倉城に 伝わると 伊賀久隆は「自軍は 地元の地の利を生かし 霧の中でも作戦を 違える事無く 行動し、敵を 谷に追い落として 移動難所になった所で 引き付け 取り囲んで 攻め落とそう」と 考え夜の内に 虎倉城より最短距離を進み 三宅坂の坂上、野山Nosan(番神山)の「あがりたちに」に ありったけの松明と 軍旗と 太鼓を 民に持たせて 加茂川を 前にして 一端本陣を 構えました。初戦福山城 十力城の戦い)に 快勝し 勢い付くいている筈の毛利軍は くたびれ切っており 日も暮れかかっていたので 直ぐには 攻撃しそうにありませんでした。

両軍布陣 The the line‐ups of both forces

夜になると伊賀方は 山の中で 安全な場所に 民の3000人を 配置し 赤々と松明を 掲げ、軍旗を なびかせ太鼓を 打ち鳴らし 威嚇させました。篝火Kgaribiと うごめく旗が 加茂川の水面に 写り 絵のような 景色でしたが、毛利軍の兵士達はそれを 愛でられる心境である筈もなく 余りに多い 松明と その明かりの中で 振られる旗の多さに 恐れをなし 睡眠をとる事も できませんでした。その隙に 三宅坂頭の本陣には 伊賀方の総大将は伊賀左衛門尉久隆 副大将は神原備中とし 兵は300人余程で 構え、先備えとして 清常の向かいの三宅山口に 土井治郎兵衛と 河田七郎部隊200余人、右手の伏兵とし 白坂を下って 川を渡り 八幡山に 伏兵として 新山兵庫と 河原五郎部隊150余人、左の備えとして 川向こうの百々の岸の穢多村に 河原越中部隊100余人が 布陣しました。さらに、白坂に 河原源左衛門の部隊200余人、備中境の宿村に 勝田孫衛門部隊200余人が備えを固めました。自由に 援護するための遊軍は熱田源治部隊と 杉本四郎衛門部隊等の計50余人が 努め、後備えとして 九折境境に河田平内部隊250余人が 控えました。伊賀久隆の上加茂の兵力は1500余名で、あとの13000余の兵力は 南部から迫る 南進した穂井田元清に 対して虎倉城を 固めていました。この構えは 作戦が 失敗に終った場合に 籠城戦に 持ち込むために 素早く北方から 虎倉に 逃げ帰られる陣形でした。昼を 過ぎて毛利方勢の主力部隊が 清常山に 着いたとき 目にしたのは、向かいの山の頂から 山裾まで、右から左まで虎倉方勢の旗が 立ち並ぶ光景でした。藤沢城の毛利方の者達にとっては この挙動と この光景は 予想さえしない出来事でしたが、毛利方勢は 次々谷を降り 集結し、軍議が 開かれ「あの兵力は 見せかけだけで 兵の数は 我が軍の半分以下である筈だ 兵は山谷の様子を知らず 疲れているので平地で 戦おう」と 作戦を立て 清常山に本陣から 兵を 臼井谷 八幡山の麓に 移し 川岸に 柵や盾板 を設けました。

毛利軍総大将粟屋与十郎の死 Death of Yojyuurou Awaya who was the commander‐in‐chief of Mouri force

両軍の決戦の準備が 整った4月15日 朝は 相変わらず霧が 上加茂の谷を 覆っていて 視野が制限され 相手の形勢が 判らない中 毛利方の粟屋与十郎部隊は 川を渡り虎倉方の土井治郎右衛門部隊に 忍び寄り、太鼓の合図で(この頃の合戦では太鼓は進め 法螺貝は止まれ 鐘は退けの合図だった)切りかかりました。すると 川を渡りかけた 毛利軍の兵士の足を 突然水の中から すくう者があり「河童だ  この川には 河童がいるぞ」と 叫びながら 伊賀勢の兵士が 水の中から 次々に湧き出して来 て一暴れして逃げ去りました。この奇襲に 雉が 足元から飛び立った時のように 対応できない 毛利軍が うろたえると 土井治郎右衛門部隊は 待っていたとばかりに 背負う山の坂を 駆け上り、進軍を躊躇する霧の中で うごめく 黒い影に 向けて 用意してあった100丁を 超える鉄砲とそれを上回る弓を 取り替え 取り替えして 射手を入れ替わりながら 切れ目なく弾と 矢を 雨霰と 射かけました。予期せぬ所からの 予期せぬ激しい襲撃に 被害を恐れた粟屋与十郎は 鐘の合図で 兵を退却させ、物陰に 隠れ姿を 見られないように させました。霧の中で 周囲が 良く見えない中 どんな地形だか 知らない者が 何の調査もせず 攻め込んで、しかも 深追いしたための失敗でした。霧が 晴れるのを待って 粟屋与十郎部隊は 再び太鼓の合図で 突撃しました。「好機を 得たり」と ばかりに岩の陰 木の陰 藪の陰から 一斉に現れ、前にもまして 弓や 鉄砲で土井部隊は 射かけました。粟屋与十郎部隊は 驚き浮足立ったので、土井部隊は 一斉に切り込んで 行きました。襲い来る敵に目を奪われた 毛利兵の脇の土の穴中から 突然に 鉄砲が 放たれたので 寄せての足並みは 取次Sidoroに なりました。敗色濃いと見ると 有功の兵の粟屋與十郎は 見方を鼓舞し 怯む事なく 馬で駆け巡り、乱れた備えを 立て直そうと 大声で 進軍を 指示すると 暫くは 押し返し 押し合い 戦ったのですが、一度怖気付いた者の気力は脆く 土井の戦術に 抗しきれず 命令を聞く者は 次第に減って 来ました。仕方なく 退却の命令を出しましたが、退却の合図が 出されるのを 今か今かと待っていた 粟屋与十郎部隊の兵の逃げ足は速く 粟屋与十郎は 川の中に 取り残されました。逃げ遅れていた 粟屋与十郎に 土井治郎右衛門部隊の葛原三之丞の射た矢が 馬を捉えました。馬は 痛さに暴れる と粟屋与十郎は 川の中に 落ちました。土井 等の矢が すかさず 飛び交うので 慌てて 清常坂に 退きました。その一息つく所を 川越しに 鉄砲の名手片山弥左衛門(片山与七郎)が 柳を盾に 狙い澄まし一発放つと 狙い違わず粟屋与十郎の喉元や 胸元の正中を 貫きました。与七郎の仲間が 川を越えて 与十郎の首を 取りました。敵の総大将が 戦死したので 土井治郎右衛門部隊は 勿論、ほかの虎倉方勢の意気は 大いに上がりました。毛利方勢にしてみれば 小手調べ位の戦いで ありましたが、余りにも 不運な一戦となった悔しさと 粟屋与十郎の弔い合戦となったことで 引くに引けない 気持ちが みなぎってきました。歴史伝説 田土藤沢城

毛利本陣清経山陥落 fall of Kiyotunejyou castle "Mouri force's headquarters"

毛利方軍の本陣である 清常山から一際大きい太鼓の連打がなされ、太田垣源右衛門の本隊諸共 川岸に 待機していた2000人の毛利方兵が ザブザブと 川を渡り、土井治郎兵衛河原越中のそれぞれの部隊に 突入しました。人の悲鳴 馬の嘶き 甲冑の擦れ合う音 切り合う刀の音で 加茂の山谷を 揺るがす 騒然ぶりで、押しつ押され どちらが 勝つか予測できない乱戦が 続きました。この時 虎倉方の伊賀久隆の采配に合わせ 太鼓の合図が 鳴り響きました。前日より 闇に紛れ川を渡り 八幡山に潜んでいた 新山兵庫河原治郎両部隊 が奥谷を通り一気に 手薄となっていた 敵の本陣の清常山に 駆け上り、守りの少ない毛利方勢に 襲いかかると 毛利方勢は ひとたまりもなく 逃げ出しました。新山兵庫部隊と 河原治郎部隊の勝鬨が 山頂から響き渡ると またもや 麓で戦っていた 毛利方軍に 落胆の色が差し、対する虎倉方軍は 勢い付きました。此の時 毛利軍の大半は 河を渡り 山伝いに 三宅坂に攻め寄せていたので 虎倉方の河原越中や 土井治郎兵衛は 臼井方面の敵を防ぎ 白坂勢は 八幡山の勢と協力し 奧谷より宮畦に出で 清常山の残兵を 追撃し 戦はまさに 酣Takenawaとなりました。

毛利軍大将太田垣源右衛門の死 Death of Genuemon OOtagaki "Mouri force's general"

虎倉方の葛原三之丞は 早朝の戦いで 片山弥左衛門に 手柄を浚われ クサクサしていましたが、一際 勇猛そうな馬上の武者を 見つけると 気を取り直して 矢を番え 撃ち落とした。なんと その者は 毛利方軍大将の太田垣源衛門でした。葛原三之丞は 大声で「葛原三之丞 太田垣源衛門殿を討取った」と 勝ち名乗りを上ると 大将が 二人もいとも 簡単に討ち取られたので、毛利方勢は うろたえました。この様子を見て 虎倉方勢の大将伊賀久隆は、采配を勢い良く振り 太鼓をダンダンと 打ち「掛れ掛れ」と 指示しました。

命令一下 虎倉方勢は 全勢力を上げて 打って出たものですから、毛利方勢は 支えきれず 総崩れし 始めました。この戦いの最中に 阿波の細川氏からの浪人 遠藤又次郎 喜三郎兄弟の率いる精鋭な 鉄砲隊と 弓矢隊が地の利に疎い 毛利方の武将を 仕留めました。更に逃げる毛利方を 伊賀久隆は 追撃させました。平岡では 逃げる毛利兵の前に 武器を持たない 農民らしき者が 現れたので、毛利軍は油断し近づくと 棒を拾い上げ 農民風の兵士が 挑んできました。「大した武器を 持たぬ」と侮り 迎え撃ちましたが 散々に刃こぼれした刀は 役に立たず 巧みな棒使いに 打ち据えられ 仕留められました。

常江田城に向かう毛利の敗走兵が 八幡渕に 差し掛かると 裸馬の集団が のんびりと 川岸の草を 食べていました。「これは助かる」と 傷付いた兵士達は喜んで馬を 捕まえようと近付くと突然馬の反対側に 張り付いていた兵士が 現れ 駆け寄って 弓を 射かけました(加茂大祭のお遊び行事 流鏑馬 現在は馬の飼育がなくなったので行われていません)。逃げる毛利の兵が いまにも落ちそうに 馬の腹に張り付いた 伊賀の兵を見ると「しめた」 とばかり取り返して 反撃にかかると、伊賀の兵は ヒョイ と馬の背に戻り、馬に飛び乗り 飛び降りして 右に左に 馬を盾  に毛利の兵の太刀を かわしました(加茂大祭 馬とばし 現在は行われていません)。意表を 突かれた毛利の兵士は あらかた 討ち取られました。馬を 乗っ取った 毛利兵が 岩を飛び越え 逃げようとしましたが 馬は大岩(馬の躓き岩)に 足を取られ 落馬した処を 討ち取られました。「こうなったのでは 寄せ手である 自軍の恥じなり」 と毛利方の児玉与七郎 名護屋与十郎 井上源右衛門 中島世兵衛 小寺右衛門 転藤右衛門 等は 上加茂村の臼井谷に 踏み留まり 押し返して 戦いましたが、不思議な大刀使い(加茂大祭 太刀振り)や 兵士を 飛び越えて 新手が現れる 奇策(加茂大祭 継ぎ獅子)に よって 全員 討ち取られました。伊賀久隆は これ等の忍術を 加茂大祭の出し物とし て兵士に 訓練させていたのです。

粟屋孫治郎神田惣四朗を救う Magojirou Awaya saved Sousirou Kanda

粟屋元信(粟屋与十郎)を 始めとして 児玉元房(児玉与七郎) 井上元勝(井上源右衛門) 奈古屋元賀(名護屋与十郎) 小寺就武(小寺右衛門) 三戸元好 宇多田藤右衛門 等が 圧倒的な数の鉄砲と 弓によって討ち取られました。この時三浦元忠(神田惣四郎:加茂川町教育委員会の発行した虎倉物語上加茂合戦では宗四郎)は 伊賀軍により 激しく四か所も 負傷し 馬を乗り捨て 今にも死ぬかの様で 必死に 福山城に向け 退却していると、強弓の使い手である粟屋元光粟屋元国の間違いでしょう 粟屋孫治郎)が 追手と 神田の間に割って入り 矢継ぎ早に射かけ追手を怯ませ、その間 を突いて 元忠を 担ぎ上げ 自分の馬に 乗せてやると 虎倉勢を 振り払いながら 悠々と 歩いて 引き揚げました。敗戦直後の4月18日 に元忠は 戦死しました。「上房郡史」

小玉小次郎退却 sounding of  the retreat by Kojirou Kodama

児玉小次郎元兼児玉元忠の間違いでしょう)なる毛利方の武者は 傷を 数か所蒙Komuって 出血するのも省みず 臼井谷 に取って返し、追い来る伊賀勢の兵を 打ち払い打ち払いし 小高い所に走り上り、今は 亡き父児玉元兼の勇猛さの誉れに 負けず劣らず「やぁやぁ 我こそは 児玉小次郎なり 近在に 我に勝る剛の者無し 御味方の者 ここは 我に任せて まずは 引きたまえ」と 名乗りを上げ、敵味方の注意を 集め 刃こぼれした刀を 軍配代わりにし「引け引け」と 退却の指図をし、仲間を鼓舞し 敵に立ち向かいました。 そこで 児玉と共に殿Singariを 引き受け 離れず戦ってきた 熊谷玄蕃と 岡宗左衛門が 歩み寄り 大太刀を 振り回し、弓の名手の井上七郎兵衛が 大弓の大矢を 番えて 追い迫る敵を 威嚇Ikakuし 児玉の加勢を しました。その頼もしい名乗りと 援護に尻込みして 戦いを 躊躇Tyuutyoしていた毛利勢の百人程が 駆け集まって来ました。この勢いに 虎倉勢が 尻込みする所に 岡宗左衛門は 高い所に 馬を乗り上げ、児玉に合わせ「引け引け」と 退却を 味方に下知すると、毛利敗走軍は 福山 長丸より 萩坂 加茂市場まで 引き返えし 始めました。しかし 猶Naoも 虎倉勢が 縋り付いて来る中、この集団に 加わりたい者が 取り残されているのを 知って 三沢摂津守とその部下の野尻蔵人は 取って返し 暫く抗戦し、支えている間に 追い詰められていた毛利の敗走者達は 激戦場から 遼か離れて 落ち延びる事に 成功ました。「上房郡史」

毛利武将島田の死 Death of Simada who was a Mori force's military commander

虎倉方の片山弥左衛門は 敵の総大将を討ち取り 手柄にしましたが「将を 射んとせばまず将の馬を 射よとの 兵法に のっとれば、葛原三之丞が 将の馬を 射た事の方が わしの将を 射た功より 勝る功だ  何か 後ろめたい  何で 手柄を 葛原に 譲らなかったのろう」と 後悔して、何とか 新たな手柄を 上げようと 逃げる毛利方勢を 追っていました。清経山の麓の加茂川の岸に 備中古瀬の武将である 島田某Nanigasiを 見つけ 馬で追い掛け 組みかかりました。馬上で 揉み合った後、二人諸共 落馬しました。島田の部下が 助けに 駆け寄ると、そこへ 大畑城主の 仁熊勘兵衛が 馬で駆け付け、島田の部下を 追い払いました。勝負の付かない戦いを していた 片山弥左衛門は 仁熊勘兵衛に「手助け下され」と 助勢を頼むと 仁熊勘兵衛は「おお」と 頷いて 島田の心臓を 槍で刺し貫き、首を刎ねようと しました。弥左衛門は「わしが組倒し 敵の動きを封じ、仁熊殿に ご助勢を お願いした だから 仁熊殿に 首を渡す訳にはいかん」と 主張し、2人は 手柄争いを始め 私闘になろうとしました。そこへ運良く神原左衛門(神原右衛門 神原惣右衛門でしょう)が 通り掛かり「味方同士の功名争をしている場合では 無かろう  喧嘩になった訳を 話してくれ」と 仲裁しました。二人は 事の仔細を話し、仁熊は「わしが とどめを刺した」と主張し、片山は「将を射んとすれば まずは馬を 射よだ 将の動きを 阻んだのは わしだ  仁熊殿が 止めを 刺しただけだ」と 主張しました。神原左衛門は「侍が 助勢を 願うと言うたからには、主導権は 片山殿にある 仁熊勘兵衛殿は 堪忍Kanninすべきだ」と問題を解決し、片山弥左衛門に 首を 取らせました。暫くして 冷静に戻ると 片山は 再び自分の性格を 悔いました。その横を 大原城の重臣の 神原右京が 通り抜けました。神原右京は 逃げる毛利兵を 鉄砲で追って、藤沢城の近辺まで 入り込みましたが「深入りを 避けよ」との伊賀久隆の命令を 思い出し、引き返す途中 遅れて逃げて来た敵兵に 遭遇し  討ち合いになり首を取り 手柄を 立てたので、大将に 報告しようと 退却していた所でした。「上房郡史」

惣右衛門助かる  Save Souuemon's life

また 神原惣右衛門は 逃げる兵を 調子付いて 追う詰めると、窮鼠が 猫に刃向かうように 自暴自棄になった毛利兵の反撃を 受け うかつにも 足に大怪我を 負い歩けなくなり 命を 奪われようとした時、伊賀久隆が 救助しようと 馬で走り寄って来ました。惣右衛門は 旗本(主君を 護衛する直属の武士団)に 向かい「私儀罷在候Watakusi-Gi-makariari-sourou(私はかくの如き有様です)」と 言うと、久隆主従は 刃向かう敵兵を 追い払い、惣右衛門を 秘蔵の鹿毛の馬に 乗せ 陽に向い 退却させました。「上房郡史」

土井三郎右衛門の馬 unmanageable horse of Saburouemon Doi

臼井谷では 毛利方の児玉与七朗と 井上源左衛門 等が 激しい戦闘で 戦死しました。毛利軍が 兵を整え直し 反撃する所へ 虎倉方勢の追討軍の大将の 土井三郎右衛門の馬が 土井を 乗せたまま突然に 萩坂の敵陣に向け 暴走し 嘶Inanaき暴れ出しました。そばにいた 友軍も 土井も 馬を 必死に制止しようと しましたが、それを 振り切り 敵陣に 駆け入りました。河原六郎右衛門は 土井を 見知っていましたので「馬飛ばしの使い手なのに 土井の奴 気でも狂ったか   この戦では 備前の地の案内役として 選ばれたが、大過失を 犯し この戦いの 大敗の原因を 作った  恥じて 落胆していたが、図らずも 土井に 出会ったので 討ち取って 汚名を拭いたし」と 視野の邪魔になる 被り物を 脱ぎ捨て 駆け寄り 切りかかりました。土井三郎右衛門は 相手が 河原六郎右衛門と知ると「死んだと思っていたが 活きていたのか  この裏切り者を 討たずにおくべきか」と 挑み掛かりました。

土井三郎右衛門は 剛の者で 河原六郎右衛門も 戦の達人でしたので 対等に戦い、両者の刀は こぼれ 使い物に ならなりました。すると河原は 奇怪にも 背後から土井の馬に 飛び乗り 馬上の組合いと なりました。両者は 落馬し 上になり 下になりしている所に 土井三郎右衛門の配下の者が 駆け付けました。ところが 馬は 土井の意に背き 河原を 護るように 振る舞うばかりで、味方の援軍も 虚しく 大高下Ookoge/Okogeの小寺の前で 土井は 河原に 討ち取られ 上加茂での戦いの 唯一の 伊賀方の犠牲者と なりました。実は この馬は かつて 河原六郎右衛門の愛馬で、河原六郎右衛門が 郷を抜け出す時に 博労Bakurouに 託した名馬を 土井三郎右衛門が 買い取り、それとは 知らず自分の軍馬と していたのです。河原六郎右衛門は 裏切り者として 伊賀方の者達から 標的になるのを恐れ 顔を隠し 変装していましたが、馬までは 騙せなかったのです。。歴史伝説 田土藤沢城

山県三郎兵衛の切腹 Harakiri of Saburobei Yamagata 

毛利方の一人 に山県三郎兵衛という者が ありました。上房郡川関の飯ノ山城の城主ですが、先祖は源三位頼政で 美濃国山県郡に住んで 山県と 名乗っていました。此の日は 粟屋と 一緒に 寄せ手に 加わっていたのですが 戦況が悪化し 敗走する事になり 粟屋与十郎と 離れ離れになっていました。戦いが 一段落し 藤沢城に 辿り着いてみると、軍友の粟屋孫治郎が「おい山県 与十郎が 死んだが 知っているのか」と 問われ粟屋与十郎の死を 知りました。「死なば 一所と 契ったのに 今や粟屋の死をも 知らなかったことこそ 口惜しい」と 友人の死を悼み 自分だけが 生き残る事を 恥じたので、死に花を 咲かそうと 唯一人 虎倉の城へ 取って返そうと しました。頃は 春の半ばだったので 山躑躅が 咲き乱れ 紅色に染まる その中に 粟屋の横たわる姿を 想像すると 溢れる涙で その情景は 曇り 花の紅か 血汐のように思え 見え分けられなくなり、無念の涙を 噛みしめて 臼井谷を 駆け下って 三宅坂へ 差し掛かると、虎倉方の 新山兵庫が 引取る所でした。坂下より 大声あげて「毛利方の山県三郎兵衛国吉と 言う 大剛の者なり  思う仔細あって 討ち死にしたく 引き返した  我と思いて 命を 惜しぬ者は 出会いたまえ  我を 討ち取り 手柄にせよ」と名乗ると 新山兵庫は「そなた程の剛の者ならお手合わせ願いたい 新たな合戦で再会し堂々と戦いたし それまでは命をおしまれよ」と無駄死を諫めましたが、山県三郎兵衛は「生きて帰ろう」等と元より思ってないので返事もそこそこに坂を駆け登り、新山兵庫に戦いを挑みました。新山兵庫は 配下に 山県三郎兵衛の討ち取りを 命ずると「あの剛の者を 討ち取り 手柄にしたし」と 10人程が 打って出ました。山形の強い事 強い事 鬼神の如き 奮闘で 薙ぎ払い打ち払いするが 深手を負わす程の事は せず敵兵を 追い払いました。20.30人の新手を 出して 攻めると これ等も 刀を打ち払い 身をかわし、たいした手傷を負わせず追い払いました。次第に 疲れ 動きに 鋭さを欠き 刀も折れてしまうと「今は これまで」と 馬を打ち捨て 小高い所にいた 新山の所に駆け上がり「お刀を お貸しくだされ」と申し出ました。新山は「お望み通り 手向いしたし」と 快く刀を 貸すと、ためらいもなくその場に どっかと座り 山形は腹を十文字に掻き割りました。新山は 国吉を武士の鑑と 褒め そのあっぱれぶりを 称え、手厚く 清経山に 葬って 引き揚げました。歴史伝説 田土藤沢城

天福寺の鬼 Ogres at Tenpukuji temple

敗走する毛利軍は 蛻の柄となっていた 鍋谷城 常江田城 等に 逃げ込み 追撃に 供えました。こうした 大勝利でしたが 怖気づいて 逃げるばかりとは 言っても敵は 倍の数です。思わぬ反撃が あるかもしれません。大事をとって 伊賀久隆は これ以上の追撃は 止めさせました。しかし一部の毛利の者達は やっとの思いで 退路を開き、新山城勢に 追撃され、空腹を 抱え大平山を 超えて 四ッ畔城に 逃げ帰ろうとし 撤退を始めた頃は 長い春の日も 傾きかけていました。加茂市場から 下土井を経て 和田を通り、加茂と 有漢の境の 大平山の中腹の 天福寺に 掛る頃は 暗夜と なりました。ここで 野宿すれば 地の利のある 新山勢に 皆殺しに 合いかねません。昼間に 徹底的に 苦しめられた恐怖から 混乱に 陥り 統制さえ 危うい状態と なっていたからです。

暴徒化した 一部の敗走兵は 天福寺に 火を放ち、僧を 脅し 水や食料を 奪い その明かりを 頼りに追手から 逃れました。僧侶達は 本尊を抱え 屋根に上り、逃れて行く鬼に 向い経を 唱えると 大法螺貝の埋めてある 大イチョウの下から 水が噴き出し 天に上り 雲を呼び集め 抜け降りとなって(本尊のご利益が有って)火災も治まり 助かりました。今でも 大鬼 小鬼の足跡が 残る岩が 天福寺に 残っていると 伝えられます。この上加茂での戦いで 毛利軍の武士 130人 雇い兵132人が 戦死し 負傷者数百人であったと 言われます。それに対し 虎倉勢に死者は1名だけだったと言われています。それ故 この上加茂合戦は 加茂崩れと 呼ばれました。天福寺の法螺貝

毛利軍の退却 Retreat of Mouri force

天正8年5月3日に 毛利方 は加茂総社宮の北から2Kmの所の下土井に 勝山城を 築き、岡宗左衛門尉元良 赤川治郎左衛門元之 竹井直定を 常住させ 備前を 見張ったと されます。度重なる 敗戦に 嫌気がさした毛利輝元は 後の事を 小早川隆景に 任せ、安芸国へ 帰っていきました。同年 夏頃 毛利氏に 匿われていた将軍義昭が 毛利氏と 伊賀久隆の上司 宇喜多氏の仲裁に 入り、停戦を 実現させました。その結果宇喜多領は 宇喜多に、藤沢城も 竹之庄も 虎倉城の伊賀久隆の傘下に 戻りました。この停戦結果は 伊賀久隆にとっては 戦前の条件の完全復帰以上だったので、毛利氏に 保護されている 将軍の仲裁の手前もあって 不満を堪え 和解条件を受け入れ た 宇喜多直家ではありましたが  毛利氏と 伊賀氏が 通じているのではないかと 勘繰りました。「上房郡史」

新山氏の追放 Exile of Niiyama clan

その後に おかしなことに なぜか上加茂合戦で 毛利軍を苦しめ大活躍した 新山城新山民部と 新山兵庫は 美作へ 伊賀久隆によって 落とされました。名君の別れ を惜しんだ 新山の民は 別れの地を 護送 呼びました。開戦時に「戦わず 虎倉に来い」との命令に 違反し 毛利軍の進軍を 阻止しようと 野々平城で 戦い 新山城を焼かれた事と 勝負が決着した時「深追いするな」との命令に 違反し 毛利軍を 追撃し 天福寺を 焼かれた事 を咎められたのでしょうが、新山氏に 苦しめられた 毛利輝元の面子と 久隆の力を 削ぎたい 宇喜多直家の野望が 見え隠れします。加茂霊場巡礼中の古老より口伝 36番札所町上」

伊賀久隆の暗殺  Assassination of Hissataka Iga

大活躍の伊賀久隆でしたが、宇喜多直家に 従い織田信長方に付いた事で 不満を訴える家中の者を 抱える事になりました。天正9年(1581年)4月に尻 蓮(肛門から 下痢便が 吹き出るように 潰瘍化した 癌から 膿が噴き出す病気 恐らく周囲腺癌)で 死期の迫った 宇喜多直家は 小早川隆景に「お前なき後は 必ずや 有能な久隆に 宇喜多氏の地位を 奪われるぞ」と ささやかれると、宇喜多直家は 死ぬ前に 虎倉城を 乗っ取っとろうと画策し、饗応を 装い岡山城に 久隆を 呼び出し 妹 つまり久隆の妻に 指図させ 織田方に与している事に 不満を持つ 河原四郎右衛門尉に 杓をさせ、伊賀久隆に 毒を盛りました。久隆は 酒の味の異変に 気付き 全部を 飲む前に 直家の計画を 察知し、嫡子 与三郎(後の家久)に 虎倉城への使いを 頼む 振りをして 裸馬を 借り受け、岡山城から 逃がしました。久隆は 毒殺計画を知った事を 宇喜多の者に 悟られないようにするために 一切 そのそぶりも 見せませんでした。暫くの間  久隆は 死ぬ事を覚悟して 料理を食べ、酒をちびり ちびり ちびり ちびりと飲み 直家の罠に掛かった振りをしました。直家はすっかり 騙され安心し、いざという時のために 隣室に 控えさせていた 暗殺団の任を 解きました。息子が 安全な所迄 遠のいた頃合いを 見て、厠Kawayaに 行き 汲み取り口から 脱出し 宇喜多の目を かい潜り、岡山城を 抜け出し 何とか 虎倉城へ 辿り着きました。体調不良が 続く久隆に 与三郎は 精の付く狸汁や 猪汁を用意しましたが 食欲がなく 食べられない日々が 過ぎ、終に天正9年(1581年)4月に 狸汁(狸汁は 悪臭があり 食欲を妨げるので 実際には 恐らく貉汁)を 食べ終わると 吐血して 死にました。天正10年(1582年)に 伊賀久隆の不慮の死を 勝山城に居た 桂元盛は 毛利輝元に 報告しました。久隆の闘病の経過が 余りに長いので 毒の影響か、寄生虫等の影響か どうか解りません。宇喜多直家は この事件を 弟の宇喜多忠家の過失の所為Seiにし、忠家に 軽い罰を 与えて事を 済ませました。久隆の妻は 兄の宇喜多直家が「家久に 家督を 相続させる」と 申し出ましたが「実は 我が子家久を 取り込み、併合と言う名の元に 伊賀家を 乗っ取ろうとしている」と 察知し、兄の酷い仕打ちを 恥じて 自害しました。伊賀久隆

伊賀家久毛利方に Iehisa Iga took Mouri foerce's side

伊賀家久は 父の変死は 宇喜多直家の謀と 推測し 籠城し 抵抗しましたが、岳父の明石景親の勧めで 虎倉城を抜け出し 丸山城の同族を頼り 吉川千木Senngi虎倉山に 移り毛利氏に 与しました。小早川隆景は 桂元盛を通し 伊賀家久に対し「勝山普請は 境目のことでもあり 本来 毛利家が 手配すべきところだが、近所なので 扶助してほしい」と 依頼しました(萩藩閥閲録)。伊賀氏攻略の拠点として 桂元盛により 構築された 勝山城でしたが、伊賀氏投降後は その息子の家久の力を 借りて 改修が 続行されたのです。現在 残されている遺構は、桂元盛らが造り、伊賀家久が 修造を加えた状態ということになります。伊賀家久は 宇喜多氏の忍山城を 毛利方軍の一員として攻め、復讐心を 燃やして 勝尾山で 宇喜多直家を 待ちましたが、病気で 伏せっていた あるいは 既に死亡していたため 宇喜多直家は現れませんでした。しかたなく宇喜多春家の守る金川城を 攻め、敵将を多く戦死させました。願い叶った宇喜多直家は 長い癌との闘病の末、同年 安らかに永遠の眠りに 着きました。伊賀家久は 以後 小早川隆景の配下になり、天正10年(1582年)羽柴秀吉による 備中高松城攻めのさい、忍山城で守りに着きました。戦後 毛利輝元から 防長を、小早川隆景から 備後神辺に 領地を与えられた。天正15年(1587年)小早川隆景に従い 筑前名島に移り、6年の闘病を 終えました。伊賀久家」                                     

終に Thanks

終長らく読書いただき感謝します。お疲れさまでした。