吉川河内田 37頭牛供養塔 Memorial tower of thirty seven cattles


 72号線(岡山賀陽線)鳴滝・河内田道との交叉点を河内田に進み、左手の田中産業の前 北緯34度48分40秒東経133度45分39秒に 「大日如来豊後灘■舩斃牛三七頭塔 百人講 施主河内喜一 大正一四年一月廿一日」の牛供養碑が 有ります。当時は 牛馬が死ぬと、講の者が 共同で葬ります。37頭の牛の難破死を 悼んだのでしょう。

備後灘から瀬戸内海へ航海する航路は「一に来島(Kuru-sima 二に鳴門 三と下って馬関瀬戸Bankan-no-Seto」と言われるように、備後灘から 来島海峡を通過し 安芸灘に抜ける 海運路は 瀬戸内海の最大の難所とされ 潮流は 10ノットに達する事が有り、海難の名所でした。大正12年(1923年)に 関東大地震が 発生し、豊後灘に も津波が届き、被害が出た との記録が あり、大正13年(1924年)10月に31日に 西表島北東で海底火山が 何回も 大爆発しました。大量の軽石が 噴出し付近一帯の海面を 埋め尽くし、海水は 沸騰しました。海底火山の爆発により、鳩間島Hatoma-jima海岸に 押し寄せた軽石は 黒潮の本流に載って 同年10月頃には 九州 四国の海を漂い 翌年の10月には 北海道の礼文島Rebun-touに 達しました。次いで 津軽海峡を抜け、親潮の流れにぶつかり 下北半島を 南下しました。https://ja.wikipedia.org/wiki/西表海底火山

岡山県では 大正時代初期には 和牛の有力な生産地で、役肉牛使役牛の改良を 進めていました。岡山の使役用牛は 体格強健 四肢が強く 農耕用 運搬用として 好評でした。岡山県は 大正11年(1922年)4月4日 岡山県諭告第1号を以て 備作種と 名を付けました。子牛の生産は 1年間に14000頭を 越える程で、県北部で 主に小牛を生産し、中部で 生産育成し、南部で 主に肥育しました。優秀さが 評判になったの で荘 円城の牛は 農繁期に 岡山北部の農家に 貸し出されていました。宮崎県では 大正初期から 使役牛馬 及び 牛の品種改良の為に 牛の需要が 急激に増加しました。中でも 特に食肉品種 宮崎牛のブランド化に 力を入れていました。備作種の和牛の美味しい肉質に 注目し、外来種との交配を 試みる者がおり、恐らく備作種を 種牛として 借りたのでしょう。買い取るよりも、借りる方が 安かったからです。

okayama.lin.gr.jp/tosyo/history/2-2-2-32.htm

大正13年(1924年)の秋頃、河内田の百人講は、鞍下牛37頭を 宮崎から返却される事になり、海路で 豊後水道に 向けて運搬していましたところ 10月30日 突然に津波が 南から押し寄せました。転覆は免れましたが、津波の煽りAoriで 船は航行困難となり 近くの港で 修 理刷る事になりました。その頃に 浮いた白い軽石が 増え続け 海面を埋め尽くされそうに なってきていました。牛の餌が 不足していたので、これ以上 軽石が増える前に 修理が不完全なままに 万全でない船を 就航させました。航行を阻む軽石を 掻き分けながら 豊後水道に差し掛かると 潮流は速くなり、浮かぶ軽石は波に掻きKaki回され 船のスクリュウの機能を 損なわせました。すると 船は重い荷に耐え切れず 潮流に操られるままに 転覆しました。それでも 船は沈没を免れ 潮流に乗り、難所の来島海峡を 運良く通り抜け 暫く漂流して 倉敷沖に 座礁しました。倉敷の漁民は37頭の牛が繋がTunagaれた転覆船の処理に 困りました。遺留品から 牛の持ち主が 河内喜一 等の百人講と 判明し、河内田の百人講に 牛の引き取りを 求めて来ました。河内田の百人講の肝煎Kimoiriの田中家は 百人講の者を 説き伏せ、37頭の死斃Sihei牛を 引き取り、敷地内に葬り 供養碑を立てました その後河内田では 牛は病気に成らず 豊作が続き 豊かになりました。「37頭牛供養塔」「https://ja.wikipedia.org/wiki/西表島北北東海底火山」を 基にした物語です。  平成24年(2012年)11月18日