下土井 土井神社の玉藻石 Tamamo-stone in Doijinjya shrine


鳥羽上皇の愛媛の玉藻前が 正体を現した時、白面金毛九尾の狐に 成りました。何万の兵が 挑んでやっと 退治すると、玉藻前が 玉藻岩になり 毒ガスの結界を張り 人を近付けませんでした。この不吉の殺生石は その後も毒ガス を放ち害をなすので、至徳2年(1385年)に 玄翁和尚が 叩き割ると、3個に割れた岩は 美作国勝山高田 越後国高田 安芸国高田に 飛んで行き落ちました。

時が過ぎ 備前 備中の境である 津高郡加茂市場の藤沢城に、安芸国の毛利勢が 攻めて来ました。虎倉城伊賀氏(伊賀河内守 間違いでしょう)に 加勢するため 美作国の高田の笹山城から 三浦源左衛門貞兼が 下土井に 駆け付けました。この時 三浦家の鎮守の玉藻神社玉藻前霊神を 携帯して来て 小神社を 建て祀り この時から 土井の人達は神である霊石を 敬い 祭りをしていました。虎倉城の城主であった 伊賀兵庫守行隆の家老の 土井次郎左衛門の妻は 美作の国の勝山城主三浦能登守の娘でした。その土井次郎左衛門の妻は 天正6年(1578年)寅4月に 新たに小社を 建て 高田玉藻神社御祭式を 取り入れ 加茂38ヶ村の鎮守Tinjyuとしました。「加茂川の民話」「下土井村人より口伝」 さ て 西国の雄 安芸国の毛利輝元と 天下統一を 目指す織田信長 が 競り合っていた頃 岡山城宇喜多直家は 情勢を見て 毛利方から 織田方に 寝返りました。これで 岡山城の家老職を務めていた 伊賀久隆の居城である 虎倉城の支配下にあった 加茂川地域と 毛利氏に支配されていた 備中の賀陽地区は 一気に 毛利氏と 織田氏との 最前線となりました。宇喜多に 裏切られた毛利輝元は 織田信長が 京都に入るのを阻止するため 叔父の吉川元春に 美作を攻め取らせ 岡山城を挟み撃ちにしようとしますが、吉川軍の進軍には 虎倉城の存在は 目の上の瘤KObuでした。そこで 4隊(一説では3隊)に分けて 虎倉城を 攻略しようと 試みました。小早川隆景部隊と 毛利輝元の部隊は 配下の粟屋与十郎が守る 田土藤沢城に迫り、吉川元春の率いる美作部隊と穂井田元清の南部部隊の作戦成功を待っていました。美作部隊と南部部隊は  開戦当初は破竹の勢いで 小城を次々に 落しました。ところが 美作部隊は 福沢の伊賀方の小城に阻まれ 遅れに遅れ 藤沢城に 辿り着いたのは 天正7年の事でした。対する伊賀久隆の作戦は 大軍の前で 正面攻撃するのでは 敗戦する事が 明らかなので 周辺の小城を 放棄し 虎倉に兵を集め 小城の無血勝利に 酔って 油断した所を 総攻撃すると 言うものでした。この作戦に 従えば 土井次郎左衛門の領地の下土井が一番の標的に されます。土井氏は 主従打ち揃て 玉藻石に 戦勝祈願しました。すると 毛利軍が 下土井に 度々「前哨戦として 土井の力を 試してやろう」と 攻め掛かるのですが、その度に 玉藻石付近から 大量の霧が 発生し 毛利軍の兵の視界を奪い 進軍を悩ませたので 退散しました。天正8年(1580年)毛利軍は 総攻撃を 決心し 虎倉城に 向かいました。玉藻石の霊力と 金気の騒音を嫌う 龍王谷の龍神の神徳が 相まったのか 玉藻石付近の細田川から 立ち始めた霧は 宇甘川や 加茂川を 覆い尽くす程になりました。毛利の大軍は 一寸先も 見えない有様で 瞬きもせず 目を凝らし 足の踏み場を 探しながら進むのですが、たっぷりと 霧の水分を 含んだ具足の重みと 前日の雨で 滑る坂に 苦しめられ 酷く体力を 失いました。毛利軍は 後悔しましたが 退路も 霧で覆われているので 引き返す訳にも ゆきません。反面 侍だけでなく 村人 も家や近在の城を捨てて 全員が 伊賀久隆の作戦通り 虎倉に 逃げ終わっており、また地の利が有り 田の畔々迄も 知り尽くしていたので 虎倉方の者に 霧による被害はありませんでした。加茂川の者ですが 訳あって 伊賀久隆方から 逃れて来た 河原六郎左衛門は 唯1人の毛利軍の道案内でした。予期せぬ 霧中の作戦の遂行は 尋常でなく 人智の域を 超えていたので、重責に 起因する疲労は 甚だしく 玉藻石の毒ガスに 祟られたように 視力 記憶 思考力を 鈍らせ 判断を 誤らせられました。その結果 大軍の兵の道を 違わせ 上加茂に 導いたのです。その様子を 虎倉城を 出て野山Nosan(番神山)より 見ていた 久隆は 要所 に軍を配備し 霧に紛れて 伊賀軍が 総攻撃を 掛けると、まず一番に 総大将の粟屋与十郎が 討たれ 毛利軍は 総崩れし 下土井に逃れ、既に占拠していた船山城に 入り 退路の拠点として 勝山城を 築きました。毛利軍が 玉藻石の霊験と 龍王の威徳を 恐れ 暫くして 下土井を 土井治郎左衛門に戻し 安芸の国に 退いたので、船山城は 土井氏に戻され 勝山城も 土井氏の物になりました。村人は 前にもまして 玉藻石を敬いました。「加茂川の民俗」「賀陽町史」「伊賀久隆の戦い上加茂合戦」を基にしたと思われる「三谷野呂の百怪談」藻前伝説:「https://ja.wikipedia.org/wiki/殺生石」 高田城・玉藻神社:真庭市勝山 北緯35度5分23秒東経133度41分35秒    井神社:北緯34度52分30秒東経133度45分48秒 八重事代主命Yae-Kotosironusi-no-mikoto美保津姫命Mihotu-hime-no-mikotoを祀ります。    田土藤沢城:しばしば、毛利氏と伊賀氏とで奪い合っています  田土藤沢 北緯34度51分40秒東経133度44分57秒7秒付近    虎倉城:岡山市北区御津虎倉 北緯34度50分20秒東経133度50分3秒    野山・番神山頂上:広面九十折と上加茂三宅の境 北緯34度50分28秒東経133度49分16秒    伊賀伊賀守久隆:備前伊賀氏の最盛期の虎倉城の城主 金川城松田氏の家老職でしたが 宇喜多直家の策に 乗り松田氏を 滅ぼし直家の家老職に 就き 毛利氏を 負かしますが、直家に 暗殺されました    笹山城:笹向城の事でしょう  岡山県真庭市三崎笹向山 北緯35度3分51秒東経133度46分27秒       船山城:下土井大上621番地の西 北緯34度52分58秒東経133度45分45秒     勝山城:下土井山端1632-1番地の北の丘 北緯34度52分40秒東経133度15分40秒    伊賀兵庫守:伊賀久隆の祖父で 伊賀兵庫頭行隆は 虎倉城を築城しました   土井次郎左衛門:宇都宮下総守貞綱の子の土井治郎右衛門は 下土井に住み、土井を姓として 伊賀伊勢守配下に 加わりました 三浦能登守貞広:お福の父 貞勝の兄 毛利軍の虎倉攻め:毛利軍と伊賀久隆との主な合戦は永禄2年(1559年)鼓田合戦と、天正8年(1580年)上加茂合戦です  皷田合戦の 回戦時期の記載は 過ちで、上加茂合戦を 最終戦とする 虎倉合戦の一部と 考えます。        平成23年(2011年)11月9日