尾原    宮坂の七人御崎 Hitinin-misaki "sevevn  souls with regret" in Miyazak

田辺九郎と言う金持ちが 宮坂におりました。財産の在り処を 家族の者にも 知られたくありませんでした。心配になって ある時 7人の奉公人に 財産を持たせ、智日神社Tiribi-jinjuaの杜Ohuroに隠し、7人を 殺して 埋めました。血の付いた刀を 2つの池で 洗いました。隠し場所を示す歌「朝日差す、夕日が裏に、綱つな一本の届きたき、三つ葉うつぎの下にあり」と 詠み残しました。つい 最近まで、7人御崎の墓標が 有りましたが、現在は 跡形も有りません。「吉備中央町の民話(1)」「吉備の伝説」「村人口伝」


宮坂の七人御崎 HITININ-MISAKI "SEVEVN  SOULS WITH REGRET" IN MIYAZAK

昔 いつの事か解りませんが、尾原宮坂に 田辺九郎と言う屋敷の裏山 に 城を築き 屋敷を守らせる程 用心深い 大変な 分限者Bugensya(お金持ち)の庄屋が 田辺屋敷と 呼ばれる地に 住んででした。円城寺の宝篋印塔Houkyouin-tou改修の時には、浜の長者 隼人と  山門から 宝篋印塔迄の稚児行列の通る道の半分ずつに 銭を 敷き詰め、寺に どちらが沢山のお金を 布施できるか 競争をした程の見栄っ張りでしたが、反面 とてもけちん坊でした。「汚く儲け 綺麗に使う主義じゃ」と 言うのですが、極めて偏見的でしたので 財産の仕舞場所を 人に知られたら 盗られると 思い込みました。だから 稼いだ財産を 奉公人には勿論 警護の者にさえ知られないように 田辺屋敷のどこかに 隠し込んでいました。誰かに 知られたくなくて 毎日 隠し場所を 変えていましたが、大きな屋敷とは言え 限りが あります。ある日 九郎が 隠し部屋に入ろうとし、扉のからくりを見ると 取っ手が ピカピカに 磨かれていました。扉のからくりの仕組みを 知っているのは、家を建てた大工と 九郎だけですので 誰も開けられません。それでも 九郎は「家族の者か 奉公の者が、お金の在処Arikaを 知ったらしい」と 思われる節があると 言うだけで 疑心が暗鬼を 呼び「お金を盗まれる」と 思い込みました。そこで 誰にも知られない所で 忘れる事のない場所に 隠そうと思いました。早速 誰にも見られないように 大きな7つの甕(に 金銀宝石を 分けて入れました。ピカピカにからくりを磨いた可能性のある奉公人7人を そっと呼びだし 甕を 担がせ 新山宮坂Miyazakoの 智利火神社の杜に 運ばせ、穴を8個掘らせ その一個に7つの甕を 埋めさせました。奉公人が 疲れて 一休みしようと 腰を掛けた所で、後ろから いきなり切り掛かりました。予想せぬ出来事なので 奉公人達は 抵抗する間もなく 首を打 ち刎ね)られました。

九郎は 遺体を 一人づつ7つの穴に 埋めました。7人を切った刀は 血糊が ベッタリ付いていました。血の付いた刀を その近くの下の池で 洗い、次いで 上の池で漱ぎsusugiました。だから 今でも 下の池は いつも鉄錆色に濁り、上の池は少しだけ 赤く濁っているのだと 言われます。九朗は 瓶の埋めた場所を 書いた備忘録を、的場として利用していた田圃の中に 埋めました。そして 毎日 屋敷から的に 矢を射て、人が そこに近寄らないよう 見張ったのです。いつ 矢が 飛んで来るか解らないので 誰も 近寄りませんでした。奉公人が 少しばかり減っても「また主人の気まぐれで 解雇された」位に 考え、気にする者は いませんでした。何事もなく 時が経ち 九郎は死を悟った時、家族を集め「わしの財産は 蔵の物の他に、大方を ある場所に埋めた  埋めた場所は (朝日差す 夕日が裏に 綱一本の届きたき 三つ葉うつぎの下に)だ   謎を解いた者に 相続させる」と 言い残しました。しかし この意味を 解読できる者は 誰もいないので  現在も九郎の宝物を 手にした者は おりません。「吉備中央町の民話(1)・智日神社」「村人口伝」を基にした物語  御崎:一家全員が死んだ人の墓や、身寄りのない人の墓や、恨みを持って死んだ人の墓の事です  智利火神社:北緯34度55分1秒東経133度44分27秒 七人御崎は昭和初期まで 智利火神社(智日神社)の杜に 祀られていましたが、智利火神社が 重岡神社に 合祀されると 神社跡は 荒れ果て 現在は御崎の跡形もなくなっています 上の池:北緯34度55分1秒東経133度44分29秒の近く 下の池:北緯34度55分0秒東経133度44分28秒の近く 現在は 開発のため痕跡が 残るだけです    田辺屋敷:北緯34度55分4秒東経133度44分32秒の近く    田辺城山:北緯34度55分9秒東経133度44分24秒付近    的場: 重岡神社から有漢に向かう道の有漢側に向く時、左手にあります。現在は圃場整備事業で 姿を変えましたが、小さい三角形の田圃だったと 言います  北緯34度54分59秒東経 133度44分25秒     平成25年(2013年)4月2日