豊岡上 紙工手習い所 Sitori-tenaraijyo domain school


 昔 岡山藩主 池田光政が 寺院 神社を 統廃合しようとしました。村々の教育機関であり 心のよりどころである 信仰を 妨げられれば 村人は不安がります。そこで  統廃合の担い手を 養うため、庶民でも 学べる学校を 世界に先駆け、城下に1校、地方に123校を 設立しました。その経費は 年貢米や 藩庫米で賄ったのです。吉備中央町の村人は、代官榎並茂兵衛の勧めで 御津町の紙工Sitoriの手習い所に 通いました。しかし、藩は 費用の嵩みKasamiに 耐えられなくなると 手習い所を12か所に 抑えられました。紙工手習い所は 吉備中央町から 熱心に通う者が 大勢いたので、12校の内に 留まる事が出来ました。

ある時期の生徒は 豊岡上の高木正兵衛の子の坂之助 豊岡上の代官榎並茂兵衛の子の六之丞 淵本平三郎の子の千吉 十力の平七郎 中田村の庄左衛門の子の吉之助 上田の五郎左衛門の子の重三郎 江与の物衛門の子の九兵衛 加地の七兵衛の子の四兵衛 虎倉村の多左衛門の子の平兵衛 田村の孫左衛門の子の七太夫 十力の太郎助の子の多郎左衛門 市場村加茂市場の事でしょうか)の久太夫の子の万吉 下土井の六郎兵衛の子の半七 溝部の与兵衛の子の権之助 下加茂の二郎衛門の子の善之介 紙工の弥兵衛の子の喜六 上加茂の市兵衛の子の市十郎 大谷村の与二兵衛の子の与兵 九九谷村の七兵衛の子の吉内 宮地の玄養の子の三省 下加茂の孫一郎の子の八介 紙工村の弥三郎の子の又右衛門 の平衛門の子の又太郎 柿山村の六左衛門の子の忠右衛門 下土井の久衛門の子の市蔵 細田の勘兵衛の子の平六 上田の助衛門の子の半の助 下加茂の次衛門の子の猪之助 平岡の長左衛門の子の松の助 市場加茂市場の事でしょうか)の与三衛門の子の清五郎 和気の多兵 、横山の甚助の子の三之助 斉木四朗左衛門の子の清九郎 牢番の子の塩谷の庄二郎でした。年齢は7歳~20歳で、多くは庄屋の子で、生徒は小子と 呼ばれました。師匠は1年交代で変わり この時は 五位加助でした。後に これらの手習い所も廃止され、閑谷学校に 併合されました。「加茂川町の民族」「池田家文庫備陽郡中手習所」「加茂川町史続編P6」

紙工集落:北緯34度49分19秒・東経133度51分30秒 閑谷学校:北緯34度47分47秒・東経134度13分10秒 豊岡農村公園榎並茂兵衛墓石:北緯34度53分59秒東経133度45分52秒 元神通山にありました。    代官屋敷:大木向山の麓 北緯34度54分24秒東経133度46分39秒    亀山・蓬莱山・八幡山・大鶴山・だいかくざん:北緯34度53分57秒東経133度45分37秒    亀山の亀の頭:豊岡地区農村公園の丘で、亀山と繋がっていません。    大鶴山・おおつるやま・鶴山(鶴嶺)頂上:北緯34度53分51秒東経133度46分15秒    鶴山の鶴の川下向きの嘴:北緯34度53分60秒・東経133度46分1秒        平成24年(2012年)12月12日

 

 手習い practice calligraphy

昔 豊岡は 勉強好きな子が多かったです。中での代官 榎並茂兵衛の子の六之丞と 正兵衛の子の坂之助は ライバルで 紙工手習所で 成績を争っていました。六之丞は 定光寺(現在の上光寺)に 住んでいて、鶴山を 見ながら 育ちました。父の開発した 土道地池や 金子谷水道や 開拓した広大な田圃(Tanboの自慢を 良くしていました。豊岡上の 亀山の麓に住む 坂之助は亀山八幡の宮司の親戚で 八幡様の自慢を良くしていました。ある日、学校の成績で 六之丞は 優等生に、坂之助は 努力賞を 貰ったのです。坂之助は 悔しくて、六之丞に「お前のこぢんぽ くそちんぽ 鶴山の鶴を良う見い 川下を向いとろうが じゃけぇ 出世せんぞ  親の七光で 威張っとるだけじゃろう  亀山八幡宮は 七光じゃが、ここの光は神様の姿じゃぁ」と 言うと、六之丞は「様Zamaぁカンカン河童の屁() お前えの母ちゃん出臍Debeso わしのこぢんぽは おえとらぁ  亀山ばぁ 自慢しとるけぇ 鈍間Noromaなんじゃ  坂之助 早う お頭Otumuも 手足も 隠しねえ 手足も 出せんじゃろう  わしの父上は 代官じゃもの」と 反撃しました。それを見ていた先生の加助が「こりゃあ  こりあ  小汚い言葉で なじりおうちゃぁ おえりやぁすめぇ  算盤Sorobanや 手習いで競いねぇ  今度 池田の殿様が 勉強の進み具合いを 見たいとおっしゃっとる  手習いのコンテストを するそうじゃぁ  それで勝ち負けを 争いねぇ」と 仲裁しました。二人は 正月も惜しんで 励み 手習いの練習を しました。正月二日に 書き初めをし、筆の上達を 歳神様に 祈願しました。ドント焼き日に 燃すと 六之丞の書いた書初めの灰は 空高く舞い上がり、坂之助の灰は 亀山を越えて 飛んで行きました。六之丞も 坂之助も「これで 相手に勝った」と 確信しました。さて、習字の手習いのコンテストが 行われると二人の字は 他の者の作品より 優れているように 見えました。結果が 発表される日、二人は 敵対心を 剥き出して立て札を 見たのです。すると 二人の名が 張り出されていなかったのです。二人は「二人が他の生徒より 抜群に優れている」と 信じていたので、審判員の加助に 理由を 聞きました。加助は「上手く書けてとる  確かに上手え  見た目は お前等が段突じゃぁ じゃけぇど 殺気が感じ取れる字じゃぁ  せぇで 落選じゃ  上手けりゃぁ良いと 言う物じゃぁねぇ  心が 大切じゃぁ」と 答えました。それからは、二人は仲良しのライバルになり 池田光政の寺社統廃合政策に 尽くしました。「加茂川町の民族」「榎並茂兵衛」を参考にした著者の戯れの物語です。