虫祈祷 Prayer against insects harmful to rice 実盛 Sanemori


豊岡上上光寺や 下大木の実盛祭りでは 村人が集まり 松明Taimatuを 煌々と照らし 僧侶を先頭に お経を唱えながら あるいは 掛け声掛けながら 田の畦道を 明かりに群がる虫を引き連れ 隣村の境まで 村中の者が行進し 最後に 読経の中 松明を集め燃やし 川に流しました。掛け声の1例は「送った。送った。 虫を送った。実盛様を 送り出した。 実盛様をどこまで送った。 西の果ての天竺Tenjikuに。」です。「常光寺の村人 江与味朝日の村人より口伝」    小森での虫追いは、嘉永6年(1853年)稲の害虫が 大発生して困ったので 6月15日に行われました。「加茂川町史」    吉川千木の実盛送りは 金福寺から 八反分地蔵乢(吉備高原十字橋 北緯34度50分10秒東経 133度45分45秒)に 虫送りをしていました。「千木の村人のより口伝」 吉備中央町の多くの集落で 行われていましたが 現在「さねもり」を 行なっている地域は ありません。江与味の旭では 現在も行っているそうです。

千木乢の呼岩:昔吉川千木八反分吉川7522・7571番地 社会法人ももたろう会吉備高原総合福祉センター 北緯34度50分39秒東経133度45分46秒)は 八反分天神(天神鼻:吉川7552・7553番地が 建っていました  少し南に離れた所の地蔵乢(地蔵ノ乢:吉川7542・7549番地 岡山県生物科学総合研究所 北緯34度50分38秒 ・東経133度45分32秒等  石佛:吉川7535番地には 庵寺と言う寺がありました.。更に離れた千木乢の東の大坪に 呼岩と言う岩がありました。三個の岩から成り 台岩は高さ八尺の一丈二尺角 中の岩は鷹さ三尺の八尺角で 最上部の岩は高さ七尺の八尺角で 全体の鷹さは一丈八尺位でした。現在は割られて 破片を残すだけに なっています。千木に死人が出たり 法会が有ると 呼岩に立ち 眼下の地蔵乢の庵寺に 声を掛け 僧侶に 仏事をお願いしたと言われます「吉川史」 

 

海陽町樫ノ瀬地区の虫送り

徳島県海部郡の樫ノ瀬地区高西寺に 住民が集まり 住職により読経されます。実盛の持ち物である槍 長刀Naginata 虫入れ 草履 弁当 短冊 依り代 御祈祷札を用意します。虫入れは 筒状の竹の節に 亀虫を入れ 里芋の葉で蓋をし 50センチ程の竹の先に 取り付けた物です。 読経が終わると 参加者 それぞれが 道具をもち  高西寺本堂前広場に移動し 一列縦列で 右回りに回ります。列の先頭は 笹竹を持つ先祓いで  住職 鉦 太鼓 草履弁当 御祈祷札 槍 薙刀 短冊 依代を 持つ人が 続きます。 虫送りの行列は「サイトコ(斎藤コ)ベットコ(別当コ)ウッテントン(転んだ)イネノムシャー(稲の虫は)トサヘイケー(土佐へ行け)と 唱えながら 進みます。境内を出て 樫ノ瀬地区の集落と 水田の畦道を 列は進み 海部川の川原へ向かいます。海部川の川原に着くと 道具を全て 川に流した後に 高西寺へ戻ります。この後 虫送りに参加した一同と 地区住民が 高西寺で会食し 虫送りの行事は終ります虫送りで豊作祈願 海陽町の住民、あぜ道練り歩く|徳島ニュース|徳島新聞デジタル (topics.or.jp)」 

 

実盛送り(さねもり さねおり)Drive away Sanemori "insect pests of Rice plant"

斎藤実盛は 寿永2年(1183年)平維盛Taira-no-Koremori等と 木曽義仲Kiso-Yosinaka追討に 北陸に出陣しました。加賀国 篠原の戦いで 味方が総崩れとなると 斉藤実盛は 老齢ながら一歩も引かず 戦いますが 馬が稲の切株に躓きTumaduki 馬諸共倒れた所を 義仲配下の手塚光盛に討ち取られたとされます。この年 稲の害虫である雲霞Unkaや 蝗Inagoが大発生し 農家に 甚大な被害 齎しました。実盛の怨霊 が 稲に祟ったとして あるいは 蝗や 雲霞が 実盛の化身だとして 6月頃 斎藤実盛の藁人形Wara-ningyouを掲げ 虫を 松明の明かりで集め 鉦や 太鼓を打ち鳴らして「実盛様を送った。」等と 声を掛けながら あるいは 読経しながら 虫を引き連れ 畦道を練り歩き 川等に 流して 村外れに追いやる行事です。

 

斎藤実盛 Saitou-Sanemori

武蔵国は 相模国が本拠地の源義朝と上野国に進出してきた義朝の弟の源義賢の緩衝地帯でした。実盛は 義朝に従っていましたが  やがて 地政学的理由により 義賢の幕下に入りました。武蔵衆の動きを恐れた 義朝の子の源義平は 久寿2年(1155年)に 義賢を 急襲し 討ち取りました大蔵合戦。 実盛は 再び義朝 義平父子の麾下に戻りましたが 義賢に対する旧恩も忘れず 義賢の遺児である駒王丸(後の旭将軍 木曾義仲を 畠山重能から 預かり 信濃国の中原兼遠に 送り届けました。 保元の乱 平治の乱時には 上洛し 義朝の忠実な部将として 戦いました。義朝の滅亡後は 関東に落ち延び その後 平氏に仕え 治承4年(1180年)平維盛の後見役として 頼朝追討に 出陣しました。平氏軍は 富士川の戦いで 頼朝に大敗すると 元 東国武士であった実盛が 東国武士の勇猛さを 説きました。維盛以下の武将達は 過剰に 恐怖心を 抱いてしまい 水鳥が 足元から 飛び立つ羽音を 夜襲と 勘違いして 浮足立ちました。 寿永2年(1183年)再び 維盛等と 北陸の木曾義仲追討に 出陣しましたが 加賀国の篠原の戦いで 味方が敗北しました。味方が 総崩れとなる中 老齢の身を省みず 実盛は一歩も引かず 戦いますが 義仲の部将 手塚光盛に 討ち取られました。 「この戦いが 最後の戦いになろう。ならば若々しく 戦って終ろう。」と 思い 白髪を黒く染めて 化粧していました。そのため首実検で 直ぐには 実盛と かりませんでした解かりませんでした。樋口兼光から「実盛と名乗る武士である。」と 報告を聞いた義仲が 直々に 首実検に立ち会い 首を池で洗わせると 黒髪は 白髪に変わり 若作りの化粧顔は 老人の皴顔に 変わり 義仲は かつての命の恩人と知りましたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/斎藤実盛」   さねもり神:さねもりは 実守Sanemoriと 音通するので 言霊信仰的には 稲の実を守る神と 解釈できます。 虫送りの時期は 主に夏の土用の始め 又は 田植え終了数日後にです。 その時期に 行われる田植え完了を 喜ぶの祝いである「サナブリ」「サノボリ」が「サネモリ」へと 転訛したという視点がありま す。http://gogolesson.jugem.jp/?eid=7

 

上竹観音堂の虫祈祷 Prayer against insects harmful at Kannondou hall in kamitake 


高梁御津線(31号線)沿いの コメリの北 上竹廣重97番地の東 北緯34度51分24秒東経133度40分32秒の近くに 観音堂が 建ちます。1年1回6月に 虫祈祷(Musi-kitouの祭をします。実盛に似ていますが 虫送りは しません。祭りでは 子供に せんべいが 振る舞わられていましたが 現在は 子供が少なくなったので 大 人だけの祭になったそうです。大村寺の住職が司り 祭りの終わりは 公会堂で 会食します。恐らく 現在 吉備中央町で虫供養を行なっているのは この地域だけでしょう。「寺後の村人口伝」  虫祈祷:田植えが終わった後 稲の苗に害虫が 付かないように また 邑Mura内に 敵対勢力や 病等が入り込まないように 産土紳Ùbusuna-gami/Ubu-no-kami/Ubusina-no-kami あるいは 塞神Sai-no-kami・Sae-no-kami(才の神)の前で 祈祷します。集落の境界線上に 御幣を良く見かけますが  塞神を祀るもので 大木の場合 虫祈祷の御幣を 兼ねていました。     平成23年(2011年)8月21日