柏尾 塚神様 Mr.Tukajin-sama "god of tumulus"


上田東柏尾1155番地の左の小道を 北に少し進むと、北緯34度53分55秒東経133度47分56秒に 円墳があり、1社宮が 2社 建っています。左が  塚紳宮で 右が 摩利支天王宮です。塚神宮 摩利支天王宮には 大般若経が 奉納されています。摩利支天王宮に「聖主天中天Syoujyu-Tentyuu-sin 伽陵頻釈伽Karyou-binga-syou 哀愍衆生者Aimin-Syujyousya 我等今敬礼Gatou-Konkyuu-rai」の偈Geが 納められています。

聖主天中天 伽陵頻伽声 哀愍衆生者 我等今敬礼 等の現代語訳は 聖主 天中天 迦陵頻伽の声をもって 衆生を哀愍したまう者 我等今 敬禮す( 聖なる主 神々の主 架陵頻伽の声によって人々を悲しみ憐れむ者を我等は今敬い奉ります)妙法蓮華経化城喩品第七 (kosaiji.org)です。手水鉢があり それには 寛政○○ 月○○○と 刻まれています。塚紳宮の前の道を 東に90m程 進むと 柏尾八坂神社から南東東に下る道と T字路を造るので、道なりに 右に300m程進むと 三叉路に出ます。その右側の土手に 一宮社の柏尾耳宮があり、丸い石 2個と 数円のお賽銭が納められています。天明の頃 柏尾村も10年も続く大飢饉になりました。村に 旅の修行者が やって来て、村民の困窮ぶりを見て「我は 摩利支天の化身なり  必ずや 我は汝らを 救う」と 宣言して 天候の回復を祈祷する覚悟をした。円墳の前に 穴を掘り、その穴にたて籠もり「我は この穴に籠もり 鈴を鳴らして 祈祷する  鈴の音の消えた時に 我は天中天に成り この世に 屍Sikabaneを残し 満願を果たす」と 言って、鈴と 鉦を鳴らし 飲食を断って 大般若経を唱え始めました。村人が 修行僧の健康を 気遣う中  一か月もした頃  鈴の音が止むと  空は明るくなりました。村人は 修行僧に感謝し、塚の上に 摩利支天と 修行僧を祀り 塚神様と 呼んで 崇めました。「柏尾村人より口伝」

 

塚神様物語 story of MR.TUKAJIN-SAMA

田沼意次Tanuma-Okitugiの商業主義の元、藩はそれまでに田畑の開墾を奨励して順調に年貢の増収に成功しかけたと思われましたが、天明2年(1982年)に 柏尾村に 旱魃と洪水により 飢饉が始まり、年貢を 納めるのも 困難な状態と なりました。それに 追い打ちを掛けるように 天明3年(1983年)の終わり頃、澄みきった青空であるべき季節なのに 朧月夜Oboro-dukiyoが 続き 白い帯の天の川も 消え失せました。昼は 晴れているのに 太陽は 薄い雲の向こうに 有るように 輝きを失い、寒さは 厳しく 積もる雪は 灰色でした。翌年になっても 事態は 変わらず、弱々しい日差しでは 稲も野菜も 果物も 育たず、悲惨な 食糧不足になりました。それに 伴い 年貢額は 減らされましたが、半面 年貢の取り立ては 厳しくなったのです。農民は 草木を食べ ヒガンバナ等 毒草までも 毒抜きして 飢えを凌ぎました。人々は 栄養状態も悪くなり 病気が流行り 死者が多く出て、行き過ぎた 田畑開拓政策による 労働力不足に 更なる労働力不足が 追い討ちをかけたのです。離農しようとする者があれば 藩は育麦倉から 種籾Tanemomiを 貸し与え、農機 を 貸し与えました。優秀な 農機具が 配布されても、貸し与えられる 種籾は十分でない上、不作の原因が 天候不良ですので 生産高に 大した効果なく、百姓の口に入る食糧は 減るばかりでした。延々と 10年も 冷夏が 続き 綿入れを着て 田植えをする始末で、せっかく 作物を植えても 旱魃や 洪水や 落雷が 交互に訪れたので、村人達は 神仏を祈り続けるしかありませんでした。

そんな時、柏尾村に 全国を行脚し 各地の飢饉を 救おうとした 耳の悪い修行僧が 通り掛かりました。村人は 修行僧に 手振り身振りで 苦境を訴え 救ってくれるよう 懇願したのです。「伽陵頻伽の声あれば 救って差し上げたいが、耳が遠くて聞こえない」と 修行僧が言うと、村人は 何を 勘違いしたのか 前年に 村に流れ着いた村で一番美しい娘を「我が村の伽陵頻伽(美声の芸子)です  どうぞ可愛がってやってください   娘も承知です」と 手ぶり身振りで語って、雉Kiji)や 山鳥の羽の扇を 持たせて 連れて来たのです。修行僧は「修行中の身である」と 言い放って 過ぎ去ろうとするのです。娘が 修行僧の耳の穴が 酷く汚れているのに 気付きました。

 娘は柏尾耳宮(才の神宮)の前まで 修行僧を追いかけ 裾を引き止め、手振り身振りで「耳のお掃除を して差し上げたい」と 申し出ました。すると修行僧は10年間も耳に 不快を感じていたので 素直に応じました。柏尾耳宮の護符を 紙縒りkoyoriにし 耳掃除をすると、取れるは 取れるは ごっぽりと 耳の穴の形の 耳垢\が 抜け落ちました。娘が 澄んだ声で「聞こえますか   この村の飢饉を 救い給え」と お願いすると、修行僧は「伽陵頻伽の声が 聞こえた  この村の聖なる場所で 祈祷をしよう その場所へ 案内致せ」と 言って 娘に 案内させ 塚にやって来ました。塚の前に 穴を掘り その穴に たて籠もり「我は ここに 祀られている摩利支天の 化身となり   この穴に 籠もり鈴を 鳴らして 祈祷する  鈴の音の消えた時に 我は 天中天に成り この世に 屍Sikabaneを残し 満願を果たす」と 言って、鈴と 鉦を 鳴らし 大般若経を 唱え始めました。娘が 修行僧の世話係となり、直ぐ詰まる耳垢を 伽陵頻伽の声を 絶やさないよう 掃除し続けました。娘と 修行僧の消耗は 激しく、空の曇りが 薄れるのに合わせるよう に 次第に削痩\して行きました。ある日 修行僧は 村人を集め「我の眷属は 摩利支天王なり 明日満願となり 我は 天中天となる  摩利支 天王とともに 我が屍を ここに葬り祀り給え」と 告げました。翌朝 村人塚に来てみると、修行僧と娘は屍となっていました。村人は「娘が 摩利支天王の申し子であった」と 信じました。すると空は 澄み 日光が燦々Sansanと 降り注ぎました。江戸で「白河の清きに 魚も 住みかねて、元の濁りの 田沼 恋しき」と いう川柳が 大 うけした頃の白河藩主 松平定信による 堅苦しい寛政の改革も 進み 寛政5年(1889年)には 飢饉は去って行きました。村人は 世界中を救った2尊の社を 塚の上に建てて祀り、修行僧を 塚神様と 呼び 敬いました。娘が 集めた修行僧の10年分の耳垢は 石と化していたので、村人は 辻の塞神神社Sai-no-kami-syaを 耳神宮として 崇めました。「天明の大飢饉」「柏尾村人より口伝」「育麦庫」「塞神社」を 基にした物語 天明の飢饉:天明3年(1783年)浅間山(長野県北佐久郡軽井沢町 御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境 北緯36度24分23秒東経138度31分23秒) 岩木山(青森県弘前市と西津軽郡鰺ヶ沢町に跨る山 北緯40度39分21秒・東経140度18分11秒) アイスランドのラキ火山(北緯64度3分53秒東経18度13分34秒) 同じくアイスランドのグリムスヴォトン火山(北緯64度25分12秒 東経17度19分48秒)が相次いで大爆発しました  グリムスヴォトン火山の噴火は天明5年(1785年)まで及びました おびただしい量の有毒ガスと 火山灰が成層圏まで上昇し 北半球を10年以上覆いました  日射量が減少したので 北半球の低温化し 冷害を齎しました。寛政1年(1789年)~寛政5年(1793年)まで続いた大型のエルニーニョが天明の飢饉からの回復を妨げましたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/天明の大飢饉」 摩利支天王摩利支天魔利支天:陽炎Kagerouを神格化した仏教の守護神で護身 蓄財の神です  観世音菩薩の変化である日天子眷属Kenzokuです  摩利支天像は元来二臂(2本の手)の女神像です  男性神で表わせられる時は月と猪に乗ります     伽陵頻伽迦陵頻伽妙音鳥好声鳥逸音鳥妙声鳥:上半身が人であったり翼を持つ菩薩であったりし、下半身が鳥の姿をした仏教に関わる想像上の生物です 共命鳥Gumyoutyouと供に極楽浄土に住み、孵る前から美しい声で鳴き、その声は仏の声(如来の教え)の例えに用いられます  日本では美しい芸者や、美声の芸妓を迦陵頻伽と呼び讃え(たたえ)ます\https://ja.wikipedia.org/wiki/迦陵頻伽」 柏尾八坂神社:北緯34度53分57秒東経133度48分2秒 耳神宮:見尾川の土手 北緯34度53分54秒東経133度48分4秒    塞神:村に流行病や外敵が侵入しないよう祀る神 村集落(邑)と集落の境界に祀られます  平成25年(2013年)7月20日

 

 

井原 西入様 Sainyuu-sama


井原の真言宗青木山宗林寺(青木の祠 北緯34度53分37秒東経133度45分22秒)の墓地に 西入様と呼ぶ墓が有ります。1m四方程の積み石に 笠塔婆が 立てら れています。現在は 笠がなくなり 石塔状になっています。「雪天禅師」「元禄十六癸未二月十五日との銘が刻まれています。「石子詰めにしてくれ  燈明の火が消えたら 念願が叶った証拠だ  その時私は死んだと思ってくれ」と 言って生きながらにして棺桶に入り、節を抜いた竹を頼りに 呼吸しながら光明真言を唱え 続け入定しました。特別の信仰が有るでもなく、流行神でもないようです。「加茂川町の民話」    元禄15年の災害:元禄10年(1697年)~元禄15年(1702年)旱魃が続きでした。特に元禄15年の讃岐地方は大雨 洪水 大旱魃 イナゴの大発生等 でお百姓さん達は 飢餓晒されました。 平成25年(2013年)8月10日