豊岡下 真地 八幡宮の七人御崎 Hitinin-Misaki of Eyomi-hatimann-guu shrine  "Seven spirit of a dead person with regret in Eyomi-Hatimann-guu shrine"


加茂大祭では 江与美八幡宮の神輿Mikosiが 加茂総社に 向かう道 豊岡と江与美の境 真地乢Madi-twaで 大勝宮Ookati-guu 現在の天計神社)と 待ち合わせ、同行する 慣わしがありました。互いの神社 は お立ちの時間 を駅伝方式で 伝えあい 待ち合わせのタイミングを 計っていました。ある年 出立の伝言は いつも通りでしたが 江与美神社の神輿は いつまで待っても 真地乢に 到着しませんでした。止む無く 大勝宮の祭列は 先に総社宮へ向かい 既に一里ばかり先を 進んでいました。延引Eninの原因は 景気付けに飲んだ 深酒 と 思い込みにより 遅延する由の伝達が 駅伝されていく間に 恒例の時間に すり替えられた事でした。延引の責任を 巡って 氏子同士で 責め合い、あるいは 氏子と大祭の役員との間で 責め合いました。一人の氏子が 酔っ払った勢いで 冗談のつもりで 刀を抜くと、言い争いの相手は 身を護るために 刀を抜 き対戦しました。双方の間で 真地から引撫Hikinadeに 掛けて 乱闘に 発展しました。切り合いの結果  江与味の者7人あるいは8人が 斬殺されました。血刀は 池で 洗われ 血洗いの池 と呼ばれました。問題が 問題だけに 遺体は 家族の人も 引き取りませんでしたので、地元の人達は 死体の有った所に それぞれを 葬り 供養塔を建てました。その人達の供養塔を7人御崎と 呼びました。7人御崎の1つの 金属製の祠は 真地の光森将一氏の家の裏、引撫に通じる道にあり、1つは豊岡下三角1377番の遠藤千代家の裏の五輪墓と、遠藤家の畑の5輪塔です。遠藤千恵さんは 既に無くなり、家畑は 荒れています。遠藤家の裏の頭を切られた人の供養塔は、頭の病気に  ご利益があると 言われます。後の4つは 何処にあるのか解りません。この事件が あってから、江与美神社は、総社宮で 行われる加茂大祭りに 参加しなくなりました。「豊岡下引撫の村人のより口伝」「加茂川町史」「江与味の民話

金属製の祠:北緯34度55分24秒東経133度47分11秒 湯の瀬温泉の近くに 引撫 双六方面の分岐が あります。真地公会堂を 右に見て 登り 豊岡下三角1377番地の遠藤千代さんの墓を 右手に見ながら 更に登ると 右手に 光森家の墓場と その上に光森家・豊岡下庄行1824番地があります  木製でしたが 古くなったの で光森氏が 金属製にしました。7人御崎の1つです  遠藤千代さんは 既に 亡くなっており、自宅は 荒れ果てています。

遠藤家に裏の頭を切られた人の供養碑:北緯34度55分7秒東経133度47分13秒の豊岡下三角1377番地(空き家)の裏手と 配電施設らしき建物との間に あります  切り合いの中  頭を 切られて 亡くなった人の供養塔です 頭の病気に ご利益があるとの 評判があり、多くの人が 参っていましたが 現在は 訪れる人は おりません  草が生い茂り見つけにくくなっています  庄行:豊岡下1824・2362番地等 引撫:豊岡下1847・2339番地等 真地:豊岡下1443・1814番地等 三角:豊岡下1377番地 ハテノ場:豊岡下1555・1586・番地等

遠藤家の50m程南の畑の中の供養碑:豊岡下1377番地の下の畑跡 2枚か3枚かの畦に あります  残念ながら 5輪塔の姿は 無く構成石と 思われる石が3個ありました   遠藤家には いかなる神が 祀られているか解らない小社、五輪塔の一部と思われる丸い石、墓状に立てられた石組みが ありました。 江与味八幡宮:原 北緯34度56分48秒東経133度47分43秒    大勝宮・天計神社:北緯34度55分30秒東経133度46分31秒 加茂総社宮:加茂市場宮ノ谷 北緯34度51分54秒東経133度45分30秒    真地乢:豊岡下真地寄松 北緯34度55分1秒東経133度47分19秒    引撫集会所:豊岡下引撫西久保 北緯34度55分29秒東経133度47分21秒    血洗いの池石橋池:北緯34度55分34秒東経133度47分19秒        平成24年(.2012年)8月28日

 

天神畝の喧嘩 Fight at Tenjin-une between Kegi-jinjya shrine and Matuo-jinjjya shrine in Kamo-taisai festival


昔は 釜の口を通る下土井下加茂線(372号線)が ありませんでした。加茂大祭には 案田の化気神社と上田東の松尾神社は 契り幣(現在は 下土居加茂川線の八社口)で 待ち合わせて 土井神社のある 野呂街道の頂上の 天神畝を 通り 急坂を下り 加茂市場に 向かいました。この難所を 神輿に 綱を付け 上側 に引きながら ソロリソロリと 協力して下って 行きました。帰りには やはり協力して 綱を引き 登っていました。何時の時か解りませんが 松尾神社が 遅れたので 化気神社が 頂上まで登って 松尾神社の到着を 待ち受けていました。松尾神社の氏子は「登りを手伝ってくれなかった」と 非難すると 化気神社の氏子は「お互い様じゃ」と 言い返すと 刀を抜いての大喧嘩に なりました。二人が死亡し 地蔵菩薩を立てて供養されました。「松尾神社氏子衆から口伝」 , 加茂大祭の入御の順:鴨神社 化気神社 松尾神社 日吉神社 素盞嗚神社 八幡宮 天計神社 三所神社 還御の順:三所神社 鴨神社 天計神社 八幡宮 毛気神社 松尾神社 日吉神社 素盞嗚神社

 

ご神幸の喧嘩  Fight between shrines in Kamo-taisai festival


何時の頃か解りませんが 加茂大祭の御神幸の神輿のせり上がり(背高seitaka)の時 どこかの神輿同士が 接触して 壊れました。壊された方は 怒って 神輿をぶつけ返しました。その騒ぎの弾みで 隣の神輿が貰い事故 を避けようとして その隣の神輿を 傷つけました。壊された方の神輿の修理には  多額の費用が 掛かる事を知りながらも やはり やりかえしました。観衆は 興奮し 歓声を上げ  喧嘩を 煽り立てました。事態に気付いた 祭の肝煎達は 直ちに 青竹を持って 制止に割り込み 太鼓を 神輿間に 配置し 神輿同士の間隔を 開けました。すると太鼓同士が 撥Batiを振り上げ 叩き合いになりました。「出典忘却」  平成24年(.2012年)8月28日

 

雨の大祭 Kamo-taisai festival in rain


嘉永6年(1853年)に 大雨のため 天計神社と八幡神社が 加茂大祭に遅刻し、御神幸が 夜中になりました。下4社(化気神社 鴨神社 松尾神社 日吉神社)の氏子は「両社より、一通りの挨拶が 有っても良い」と 言うと、上4社と 言い争いに なりました。出役に 両人預かりとなり、神事が 行われた事に付き、調停が なされました。天計神社と八幡神社は 下4社に対し「今後遅刻しない」よう 詫びを申し出る事、下4社は 今年の事件については 勘弁する事、及び 以後相互厳重にする様(今後 この事件 に取り合わず 規則を守る)気を付ける事を 双方に申し渡したらどうか との回文があり、嘉永7年 8月5日 に 話が 纏りました。「加茂川町史」    何時の頃か 解りませんが、下加茂の日吉神社と 上加茂の鴨神社が 津賀の辺り で喧嘩を したと伝えられます。「上加茂八幡原 の村人より口伝」  平成24年(.2012年)8月28日

 

祭囃をしない訳 The reason why festival music not are done

備前加茂大祭は 八社鴨神社化気神社松尾神社日吉神社素盞鳴神社八幡宮天計神社三所神社による寄宮祭りです。八社は 早朝に 各 鎮座地より出立し 総社宮へ 行列を 整え 集まり 総社宮を加えて 九社で 大祭が 行われます。天計神社と八幡宮の祭列は落合加茂川線(66号線)の長田ふれあいセンター富永1403-1番地 北緯34度53分0秒・東経133度45分31秒)近くでは 笛や 太鼓の お囃子を止め 静かに 通り過ぎる 習慣があります。お囃子を 聞いた木船様(富永貴船荒神の祭神 竈三柱神 奥津比古神 火産霊神 奥津比女神 北緯34度53分0秒東経133度45分24秒が 大祭に 加わりたいと 騒ぎ立てるので 気付かれないよう 静かに通り 過ぎるのだと ある村人は言い、別の村人は  ここら辺りは 狐(貴船の訛り)が 良く出て 人を騙すので、狐に 気付かれないよう 進むのだと 言います。 令和5年(2023年)3月3日