吉川 伊賀家炎上 Going up in flames of Iga family's house


 吉川の伊賀三太郎の館に 久米から 奉公に来ていた少女が 懐郷病(ホームシック)に陥り、故郷に帰りたい余りに 三太郎が 伊勢参りに出掛けた留守に 放火し逃げ帰りました。この報を 聞いた三太郎は 飛脚に「西の倉は無事か」と 尋ねました。飛脚が無事である事を告げると「大丈夫 家は建つ」と 答えたと云わります。その後、昭和37年(1962年)には 家が全焼しましたので、この期に 水の便の良い山裾へ 転りました。「虎倉城・伊賀一族:仁熊八郎」「吉川西賞田村人より口伝」

吉川伊賀家の鼻祖である伊賀隆家(家久)は、虎倉城を 喜多勢に明け渡した後、丸山城主吉川氏を頼り 千木に移り住み、後に 西庄田に移りました。江戸時代には 吉川三庄官の一つとして 苗字 帯刀 裃(Kamisimo着用を 許されており、吉川八幡宮大祭(当番祭)には 神馬を 供出する家系でした。吉川伊賀氏は 津山森藩に代々勤めていましたが、井原へ 転封されたため中老職を 返上し帰農していました。三太郎の時代になると 家は栄え 奉公人を多く抱えていました。その三太郎の館に 久米から12・3歳の幼い女の子が 口減らしに 連れて来られました。主人や 先輩の奉公人に 頭を下げながら、厳しい注意を受けながらの奉公は 初心の少女にとって 耐え難い辛い物でした。

毎夜毎夜、優しい父母のいる家に 戻りたくて、人に知られないように 忍び泣く毎日でした。ある時 主人の三太郎が 何を思ったか伊勢参りに 旅立ったのです。先輩の奉公人達が 気を休めていた隙に、娘は 家に戻りたい一心で 後先は考えられず 母屋Omoyaに 火を放ち、裸足Hadasiのまま 久米に 逃げ帰りました。驚いた三太郎の妻は、事の仔細(Sisaiを 伝えるため飛脚を飛ばせました。飛脚が走り、三太郎に その旨Muneを 伝えたると「西の倉は焼け残ったのか」と 三太郎が 尋ねました。飛脚は「西の倉を 残し焼けました」と 告げると、三太郎は「大丈夫 家は建つ」と 聞き取れない程の小さい声で つぶやきました。言葉通り、娘の罪を咎めtogameず家を 再興させました。しかし 昭和37年(1962年) 今度は 原因不明の出火のため 無残にも 屋敷は全焼しました。火災の跡に 摩利支天社を祀り、摩利支天社の参道に 座頭神を祀り 細やかな娘の郷心や奉公人の不満を 聞き逃さない事を誓い、これを 期にして 水の便の良い山裾へ 屋敷を移転すると 火災や盗難の被害は無く なりました。

摩利支天社:北緯34度49分3秒・東経133度45分1秒 摩利支天神 経津主命 武甕槌命が祀られます。 摩利天社の隣に、小さい社が 有りますが、いかなる神仏が祀られているか 解りませんでした。 千木虎倉山:北緯34度50分17秒東経133度45分10秒付近 西庄田Nisyouda北緯34度49分30秒東経133度44分49秒付近 井原・井原市:北緯34度37分49秒・東経133度26分23秒付近 伊賀隆家・伊賀家久:天正の頃 備前で隆盛を極めた 伊賀久隆の長男です。上司の宇喜多直家に 父 久隆が 毒殺された事を知って、宇喜多を 討たんと織田方から 毛利方に戻りましたが、志及ばず 宇喜多直家は 尻蓮Sirihasuで 死んでしまいました。宇喜多勢に 攻め落とされる事が 明白になると、守 虎倉城を 明け渡し、吉川氏を 頼り備前より 備中に 拠点を移しました。しかし、織田氏毛利氏の勢力争いに 翻弄honrouされ、小早川隆景の保護も空しく 領土を失い、小早川氏に 従がい安芸に移り 寂しく病死しました。    鼻祖:その地に住み付いた一族の 最初の当主を 言います。

座頭神・吉野宮神社:南川地区諸塚村 北緯32度31分16秒東経131度23分55秒 紀州 吉野の南朝方の密事を 肥後の菊池氏に届けるため、光を失った僧侶が 宮崎県の諸塚山の峠に 差し掛かりました。大金を 所持していた事を 知った通りすがりの商人が、その座頭を殺し お金を奪いました。すると、村に 災難が続いたので「座頭の祟りだ」と信じて、吉野宮を 建立し座頭を祀ると 災難は無くなりました。座頭神は 村の守護神 眼 の神様となりました。吉川家に祀られる 座頭神宮が吉 野宮神社を 勧請したものかどうかは解りません。    吉川八幡宮:北緯34度49分11秒東経133度45分7秒 吉川苅尾3932番地に鎮座します。紳徳は 商売繁盛 学業成就交通安全 等です。  平成26年(2014年)7月10日