上竹 かつえ坂 Katuezaka "Slope of hunger"


 備中地域に 織田信長の勢力が 及ぶ前、毛利輝元と 宇喜多直家は 対立関係にありましたが、織田信長に 対立した足利義昭将軍によって 同盟を求 められ 織田氏包囲網の一翼を担いました。それによって 困ったのは 毛利氏傘下にあった 備中松山城を護る三村元親でした。永禄9年(1566年)三村元親の父の家親は 浦上宗景の配下の 宇喜多直家によって 暗殺されており、直家を 目の敵にし 明善寺合戦 等で 仇討ちを試みましたが 破れていたからです。直家と 席を同じくする事に 耐えられる筈もなく 遺恨を晴らすべく 元親は 義憤のままに任せ 毛利氏を 離反する決意を しました。毛利氏の恩を重んじる叔父の三村親成と その子の親宣 等は 元親を見限って 松山城を 出奔しました。輝元の叔父の吉川元春の説得にも 元親は「義を重んじない毛利家の将来ない」と して応じませんでした。この年の冬、裏切り者の三村元親を 成敗すべく 毛利輝元は 叔父の小早川隆景を 総大将として備中に向け 8万を派兵し、これにより備中兵乱が 始まりました。

この戦の中、天正3年4月4日 毛利氏の知恵者 宍戸高家は  鶏山城五龍城の事でしょうか)を 出陣し、元親に 味方する離小屋城を 1万の大軍で 襲いました。離小屋城の戦いでは 大月源内も良く戦いましたが、多勢に無勢、軍力の差は 如何ともしがたく、敗戦の危機が迫ると 城を焼き 大月軍は 敗走し、多くの兵が 毛利軍の追撃の犠牲に なりました。しかし 大月源内は 対岸の水砂に 兵を結集 し隠れ、日の落ちるのを待ちました。日没になり 宍戸軍は 本陣に 退却を始めると、大月軍は 背後からゲリラ攻撃を 加えました。足元の暗さに 逃げる方向を失った 毛利軍を 地の利を生かした 大月軍は 散々に追撃し、宍戸軍は 空腹に堪え 坂を登り続けるしかなく追い詰められました。

この時 討たれた中村城主 布寄内蔵正則Huyori-Kura-no-suke-Masayoriなる武将の供養塔が 武者墓で、この坂を かつえ坂と 呼ぶようになりました。後に大月源内は 竹井直定に 誘われ 三村軍を 裏切り 備中松山城陥落の立役者になり、三村元親の予言通り  宇喜多直家は 毛利輝元を裏切り 織田信長天下統一の立役者になりました。https://ja.wikipedia.org/wiki/備中兵乱」 鶏足山:高梁市松山 備中松山城の南方北緯34度45分47秒東経133度37分44秒    離小屋城:上竹小ヤ5718番地を左(南々東)に進んだ所が離城小屋城跡 北緯34度49分25東経133度39分32秒です。三村氏に 代々仕える竹井宗左衛門直定の下に 仕える武士の 大月七郎左衛門が 城主とされ、又 松山城主で あったとされます。又松山城主であった 庄為資Syou-Tamesukeが 城に来てその子の庄信繁大槻源内信繁が 跡を継ぎました。信繁の子に 喜兵衛信正 七右衛門正繁 弥太郎がおり、七右衛門正繁の子は 七右衛門久繁です。天正2年(1574年)離小屋城は 三村氏の傘下に入る 国吉城を 助けます。それに対抗し、誰かは 解りませんが 毛利氏の者が 宍戸備前守を大将にして 軍を整え 備中に 攻めてきました。「上房郡史」    宍戸隆家:五龍城の8代城主 宍戸氏は 安芸国の国人で 代々毛利家と 対立していましたが、毛利元就の次女 五龍局を 妻として迎え、毛利両川(毛利輝元 吉川元春 小早川隆景)と 軍事行動を 共にしました。隆家は 伊予国 河野氏一族に 娘を嫁がせる等し、元就をして 宍戸隆家を一門同様として 扱うように 長男 隆元 等に命じました。隆家は 次女が 吉川元春の嫡男 吉川元長正室に、三女が  毛利輝元の正室 としました。   武者墓:上竹猿目橋の南の川向こうの原 北緯34度49分26秒東経133度40分17秒 功徳山大村寺:大村公会堂の約400m北方 北緯34度50分5秒東経秒付近 上竹5600番地    村城:真庭市一色 北緯34度59分40秒東経133度41分54秒  城主に 三輪与惣兵衛の名が 残ります。    かつえ坂・飢え坂:上竹の俵原池 (北緯34度50分56秒 東経133度39分3秒)の西南西約420mの山道の分岐 (北緯34度50分55秒東経133度39分3秒)から 陣山(北緯34度50分50秒東経133度38分49秒 標高469m強 )吉備中央町と高梁市の境)に登る坂。    水呑場:上竹6208・6211番地 知ってますか賀陽町 陣山の首塚:永禄3年(1560年)松山城主の庄勝資Syou-Katusukeは 竹荘に進出して来た 伊賀久隆勢を 討伐するため 地蔵ヶ鼻辺りで 数度に渡り 激戦しました。当時 成羽城主であった 三村家親Mimura-Ietikaは 毛利元就と 組んで 松山城の手薄を狙って 庄高資Syou-Takasukeを 攻略しました。この知らせを聞いた竹荘に 展開していた勝資軍は 総崩れになり、陣山に 陣を張ってい た尼子晴久 義久を 頼ろうとして 逃れました。しかし 疲労死と 飢え死に 加えて 虎倉勢(伊賀勢)に 追撃され数知れない兵が 討ち取られました。大村寺の僧侶達 は遺骸を拾い集め葬り、首の数だか石を積んで 塚を作りました。  平成29年(2017年)4月10日

 

 

陣山の首塚 Burial mound for severed heads on Jinyama mountain

陣山は上竹荘有津井と巨瀬の境 北緯34度50分50秒東経133度38分49秒にあります。永禄3年(1560年) 尼子氏傘下の庄兵部大輔勝資虎倉城伊賀氏の支配地の竹荘を攻めるため陣山に陣を張りました。両軍は地蔵ヶ鼻で激しく交戦しましたが、地蔵ヶ鼻の三面は湿原で人も馬も俊敏に移動できず、勝負は容易に決着しませんでした。戦いの最中には庄軍の主力は地蔵ヶ鼻に出陣していたため松山城の庄勢は100名程で手薄でした。この報告を聞くと三村家親毛利軍を案内して松山城に攻めかかりいとも容易に落としました。城将 の庄高資はこの時撃ち取られました。この報告を聞いて地蔵ヶ鼻で戦っていた庄軍の兵士達は意気消沈し主将は元より先を争って尼子氏の本陣 陣山に向け庄軍は敗走しました。竹荘軍の追撃は急迫を極めたため庄軍の多数の敗走者は疲労し 且つ腹を空かしていたので反撃できず次々と討ち取られました。戦いが終わると大村寺の僧侶達はそこここに放置された庄軍の兵士の遺骨を拾い集め、陣山に遺骨一体につき1個の石を積み上げ供養したと言われます。そのためこれ等の積岩を首塚と呼び、庄軍が敗走中に空腹に苦しめられた坂を飢へ坂(かつえざか)と呼びます。「賀陽町史追補版p794」

 俵原集落より 幾つかの道順が 有りますが、集落より 西に向うと、北緯34度50分43秒東経133度39分14秒に 北に向かう山道が有ります。山道に入ると 直ぐに大きく左に 道は曲がります。北 に向かう山道を暫く 進むと、変則5叉路が 有るので、鉄塔を 目標にして 一番左の西に向う道を 登ると、陣山頂上を 左に見て 小さい墓標を 思わせる石が2個 立っています。築地の山道を 暫く進むと右手 に取り合い道があり 石組みが見え、陣山首塚の案内板が 立っています。茂みの奥に 首塚があります。 飢へ坂:俵原から陣山に登る坂 俵原集落:北緯34度50分47秒東経133度39分31秒  変則5叉路:北緯34度50分55秒東経133度39分3秒の山の中  鉄塔:北緯34度50分47秒東経133度39分7秒  4個の巨石:北緯34度50分43秒東経133度36分51秒   平成26年(2014年)4月23日